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気をつけたい、接続詞のクセ

若い子と話していて、新鮮に感じていたコトバが、どんどん一般化していくのは心地よいですね。最近は、これまで若者言葉といわれていたものが仕事の打ち合わせなんかでも飛び交っています。「エグい」とか「エモい」とか案外使ってますねぇ。スポット紹介の企画などにおいて「映(ば)え」要素は重要なファクターで、「どっちかセレクトするんなら、こっちのほうが映えそうだよね」などと、わたしと同世代と思しき40代50代のクライアントさんが、ごくフツウに使われていらっしゃいます。

あと「接続詞(接続副詞)」もそう。初めて聞いた時はとっても新鮮でした。
「とはいえ〜」「ゆうて〜」「てか〜(ていうか)」「なので〜」などがそれ。

いちいち説明するのは差し出がましいと思いますが、「とはいえ」は〝そうはいってもさぁ〟と、前言をちょっぴり否定気味に打ち消すニュアンスで彼らは使っているんでしょうね。

「ゆうて」もほぼ似たような意味。関西弁?

「てか」は自分が発したことよりも、相手がいったことに対して若干軽めに否定したい時に多用されているように思います。

一方「なので」は順接なんで、上記3つとは運用場面が明らかに異なるんですが、どうやら突然「なので」から始まるのが特徴であり、そこが肝っぽい。フツウは「ホニャララ〝なので〟これこれこうゆうことなんですよ〜」みたいに、話の途中で差し込む接続助詞として使われることが多いのですが、独立したかたちで、しかもアタマに持ってくるというのはなかなか珍しくて、耳にした途端「え?」と戸惑ってしまいました。

ただし、これらをそのまま文章化すると、さらに戸惑いが加速して、さすがにちょっと不味いなと思ってしまいます。
一連の文章を読んでいる途中で「ん?」と立ち止まってしまうんです。

あ、でも、「とはいえ」は、こうして書き言葉として使うと意外とマイルドになりますね。というか声音として発される「とはいえ〜⤴️」より、なんとなく珍妙さが薄れて、すんなり入ってきます。よく考えたら「とはいえ」、わたしもちょいちょい使っちゃっているかもしれません。

このように接続詞というものは、本当はとっても使いどころが難しい言葉なんです。基本的には、文頭に持ってきて、今まで語ってきた論旨をさらに押し進めたり、深めたり、反転させたりするための小道具。文と文をつなぐアロンアルファみたいな役割を持たせられているはずなのに、そこでいったん思考をリセットさせる効果もあったりするから厄介なんです。
一説には「接続詞がない文章のほうが美文である」という意見もあるくらい。バンバン使いすぎると、文がゴツゴツして、読み手に負荷を与えます。


それでなくても接続詞って、その人のクセみたいなのが出ますでしょ?
ただでさえ読み手を立ち止まらせてしまうのに、クセが強いとなおさら。
さまざまな価値観を持ち、読解力の深度が異なる、不特定多数の読み手に対して記事を書く際、書き手のクセが、読み手の読みたい欲求を遮ってしまうのは、ちょっと損ですよね。

仮に、今まで述べてきたことと相反することを展開する際に使う「しかし」を例にとってみましょうか。
ごく一般的に使われる「しかし」なら、淀みなく自然に読み流せたとしても、「だが」とやられると「うわぁ、言い方、強ッ」となにやら圧のようなものさえ感じさせてしまいますし、「でも」とされると話し言葉に近いからかややフランクな印象になりますよね。
「しかしながら」はもっとずっとあらたまった言い方で、その文章の内容にフィットしているならアリかなぁ。報告書とか企業クロニクルなんかを書くときは、わりかし使いがちかも。同様に「ところが」もちょっと堅め。
他にも「けれども」「それでも」「だけど」などと、いろいろありますからね。逆に、いったん立ち止まらせて、次の文章を強調したいなら、意図的に差し込んでみるのもいいかと。ただし、クセの有無や強弱にはとことん配慮して、その時々に訴えたいことや場面を鑑みながら、適材適所での使い方を吟味したいところです。


なーんてね。こんなふうにあれこれ偉そうに申し上げている、わたしのようなオッサンにだって、そういうクセがないともいえません。

こないだ、とあるクライアントさんが「ん?」となって、「これは一般的な言い方なのでしょうか?」みたいなご指摘を受けたのが「いみじくも」でした。

「いみじくも」。この、ちょっと古風な言い回しが、わたしは結構好きでしてね。例えばインタビュー記事などで、ゲストとなる語り手が〝おぉ! けだし名言じゃん!〟〝そういう言葉を待ってました!〟と思えるようなコメントを話してくださったとするじゃないですか。そんな時に、この「いみじくも」という副詞を接続詞のように用いて、書き手としてフツフツと湧き上がってきた、語り手に対するリスペクトの念を、こっそり文章に忍ばせるんです。

世に、ピンチをチャンスに変えてきた経営者は多い。●●氏もまた、失敗を顧みず数々の難題に取り組み、さまざまな打開策を打ち出してきた。
「リスクがなかったら、私は社長就任の打診を蹴っていたでしょう。逆境があったからこそ、この会社を率いていく覚悟ができました。リスクのないところに成長はありません」
いみじくも、この前向きな姿勢こそが、同社の驚異的なV字回復を大きく後押ししたのだろう。

名言を〝名言といわずして〟読み手にわかっていただくというのかな。書き手の気持ちを読者にも共感してもらうためのちょっとした工夫です。次につながる「前向きな姿勢」と「驚異的なV字回復」を強調するテイクバックにもなりますし。

まぁでも、確かに古めかしくて、馴染みの薄い言葉ではあるので、そのクライアントさんの仰りたいこともわかります。だもんで、その時は素直にご指摘に従ってトルツメとしました。なくても意味はつながりますし、ある意味、抑制が効いて、読みやすくなる気もしましたんでね。

あ、この「だもんで」も、私がチョイチョイ使っちゃう〝クセの強い接続詞〟でした。反省。

確かに接続詞が少ない文章を見かけると、実にすんなり読めて、論旨の流れがスムーズに作られている、優れた文章だと感じることが多いのは事実。構成力という書き手の筆のチカラが、接続詞の有り無しや使い方で伝わってくるんです。

でも絶対に使っちゃダメとも言い切れません。前後の事柄の因果関係を明らかにしたり、適切に使用することで誤解を解いたり、解釈を広げることができたりもします。ここぞという時は積極的に使っていいと思います。

その際、言葉選びのクセだけは、ちょっとだけ立ち止まって考えてみないとあきまへんな。自戒も込めて、ここに記しておきましょうぞ。


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