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究極のオーダーメイドたる家庭料理

むかし、人んちの晩ご飯を覗き見するテレビ番組があった。しゃもじ片手に不法侵入するアレだ。気付いたら番組終了していたが、制作にかかわっていた友人によると、どうやら本当にアポなしで突撃していたらしい。
あの番組の面白さは、強引な芸能人と慌てふためく素人とのやり取りだけでなく、本来であれば極私的な空間である「他者の家庭料理事情」を見られる点にあった。自分と違うとか同じだとか、そういう楽しみ方ができた。こんな豪華な…!?とヤラセを疑う回もあれば、汚い部屋とカップ麺に圧倒的な親近感を覚えることもあった。

問診票ワークショップで気付く、“自分起点”の「家庭料理」

今回、Nサロン「家庭料理の新デザイン」第2回では、それぞれの「家庭料理」を“自分起点”で捉え直すため、とあるワークショップが行われた。もちろん、“突撃となりの〜”的な無理矢理感は一切ない、柔らかな内容だ。
3人1組で「語る人」「聴く人」「傍観者」にわかれ、それぞれの「家庭料理」を問診していく流れ。「聴く人」によって引き出される「語る人」の言葉が、食の傾向・環境・理想という観点から、問診票に書き込まれていく。それを「傍観者」は眺める。これを3周する。
それぞれの「家庭料理」が語られ終えたとき、私たちは、家庭料理について、文字通り三者三様であることを実感する。また、自分で書き出したり考えたりするのではなく、他者を通じて引き出されることによって、当たり前だと思っていたことが案外当たり前でなかったり、あるいは、こだわりと思っていなかったことが実はこだわりだったりすることに気付かされる。
そして、しばし休憩を挟み(この間、ほかのひとの問診表を見ることができる)、別の3人組となり、今度は自分なりに自分の家庭料理を紹介する。一度他者を通すことで、改めて“自分起点”で考えられるというのは、いかにも興味深い。

オーダーメイドされる「家庭料理」

2回のゼミを終えた今、家庭料理は究極のオーダーメイドだという事実が浮かび上がる。当たり前だが、一つとして同じ家庭料理はない。なぜなら、背景にある生活がそれぞれ全く異なるからだ。
たとえば、究極のカップ麺だと信じてやまない「日清 シーフードヌードル BIG」を食べるとする。お湯を入れ、3分前後待ち、棒状の何かですする。このフローは概ね共通するだろう。しかし、いつ、どこで、誰と、どんな風に食べるか。これで大きく変わる。そしてこれは本当に人それぞれだ。
なお、BIGはデブの食べ物ではないかといった指摘や、牛乳を足すのは邪道かなどの議論は、また別の話である。
むろん我々は、「カップヌードルシーフード味BIG」ばかりを食べる訳ではない。一部の特殊な人を除き、動物園のように決められた餌を決められた時間に決められた分だけ食べる訳でもない。それぞれの生活の中で、家庭料理の在り方は刻一刻と変化する。それはもはや、「家庭料理」という一言では、括られ得ないほどだ。

時代は多様性を極めつつある。今更しゃもじ片手に突撃したところで、特定の時間に一家団欒の食事風景を撮影できる家は、ほとんどないだろう。だからといって「家庭料理」文化がなくなったわけではない。「家庭料理」はさらに多型化し面白い状況にある。それぞれのオーダーメイド「家庭料理」を捉え直す機会は、もっとあっても良いのかもしれない。

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