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雑記

雑記。

言葉を狩るような体制や軍隊は 戦争に負けるぞ(本日の私の発言)

 高校二年まで美術部でしたが、刑事コロンボみたいなコートがトレードマークのコロンボ先生とまで言われてた先生、宮田君やるですよ!とおだやかな励ましをしてくれる美術顧問の先生に「宮田君、ウイスキーはね、ロックで飲むとね、時間のたつごとに味の変化が感じらるっけんよかとですよ。的なことを言われて、高校生ながらそういうものかと思っていました。いま、安価なウイスキーばかりですがいつも飲んでいます。樽の香りや癖が強いほうが好きです。いつの間にか担任や生徒会顧問の先生に命じられて生徒会役員で宗教委員長という役職に。(政治将校のようなものではなく、慈善の募金を集めたり宗教行事や集会で初めの挨拶したりくらいのお仕事でした。)赤十字にも加入したり。あしなが育英会の街頭募金をやったことも。
 当時7割の生徒がリーゼントかアイパーかそりこみかパンクヘアーでして、かばんは薄いのがよしとされてる時代、私はまったく普通の学生服で生徒会のバッジでしたが、シャツはウッドランドカモフラ迷彩柄を着たりしてました。先日出演したラジオでも言いましたが当時は朝起きるのが非常に苦手で、生徒会メンバーが校門で並んでるなかでニコニコしながら遅刻して、生徒指導室へ行って正座させられて、担当の先生におまえは生徒会なのにと言われてました。当時、遅刻した人は生徒指導室で正座の時間と校長のハンコをいただくシステムでした。校長のご尊顔を三日置きくらいに拝し奉っておりました。自転車で疾走して停車するバスを次々抜きながらの通学。日本語がうまく読めなくて成績が悪い日本人同級生がいたが、当時は救済の仕組みがあんまりなかったし、明らかに障害のある生徒もクラスで支援なくやっていた。
 卒業して1年後で、だいたい19歳のみんなが養老の滝という当時あった居酒屋に集合して、担任の先生もよんで同窓会、そして赤ちゃんを連れてる同級生もいたという。今だと大問題になる昭和の話です。
 中学校は当時の市内の人は知ってる、マジヤバイ中学校でほんとうにオートバイでやってくる生徒や運動場で生徒と先生のもみ合いを見物できたという。怖い先輩もたくさんいて、私はいじめられる側でした。
 今でも気の弱い人間で、ちゃんと武術や格闘を練習されてる方には3秒で負けますが、20代の自分を3秒でたためると思っています。
 父親はとても勤勉で几帳面で倹約家でした。早くに父親を亡くして借金を返しながら戦中から多くの弟妹達を養うために、鉄工所や自転車屋さんで働いてきて、創生期の主婦の店に参加して主婦の店の幹部でという人生。息子が精神を病んでも、理解ができない状態でも支えようとしてくれました。
 今私が自助グループやったり、地域振興NPOの活動や、福祉事業所で働いたり、様々な問題を抱えた人のための活動したり、ドローン飛ばしたり武術の稽古や格闘技練習してるのを、あちらのほうにいる生真面目な父はどうおもっているでしょうね。父親がドラマのコンバットや西部劇や時代劇大好きだったので、孫子も現代軍事も昔の武術も格闘技もかじる人間になりました。
 父母が幼少の我々に必要と思って学研の子ども百科事典や学習百科事典12巻などを用意したり、そもそも幼児にお話を読み聞かせしたことは、無駄ではなかった。
 読み聞かせは、言語能力や知識欲ももちろん亢進しますが、とても大切な 

人と人の間の信頼感も醸成します。

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