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老後の暮らしに見る、姉妹の運命

我が家は5人家族だ。
主人と私と二人の子供。
そして、主人の母。

義母は御年87歳。
足腰が弱まり、認知症状もあるため一ヶ月に一週間程度はショートステイを利用する。
日中の見守りは欠かせず、外出は車椅子なので家族同伴が必須。
幸いにして食う・寝る・出す(排泄)については問題がないので、自宅で過ごす日々が続く。

とはいえ、認知症特有の「繰り返す会話」への行き詰まり。
日常動作をど忘れしてしまい、不安になったり混乱したり。
最近は特に整理整頓や持ち物チェックが苦手で、物品管理に不安を覚える。
金銭管理は一年前から無理だとわかり、否応なしに嫁の私が預かることになった。

金銭に関して。
本人は「せめて小銭くらい持ちたい。把握していたい」と訴える。
しかし、半年前にその言葉を鵜呑みにしていて、平気で数万円の現金を紛失するという事態が相次いだので、それも止めた。

階段は自力で登れないため、自宅の一階が義母の行動範囲である。
リビングと繋がる6畳間が義母の居室。
居室、リビング、キッチン、洗面、トイレ…。
家族がいて、空間がある。
ここが義母の世界だ。

そんな義母には3歳年上のお姉さんがいる。
義母のお姉さんは90歳。
比較的近距離に住んでいるため、よく我が家を訪ねてくれる。
本来であればこちらから伺うべきだが、いかんせんお姉さんはお元気で、義母は色々と弱っており一人で外出もできない。

というわけで、今日は久しぶりにお姉さんが妹である義母に会いに来てくれた。
私から見れば、伯母にあたる。

伯母は、大変しゃきしゃきした人だ。
書道と歌の師範の免許を持ち、自らもそれに没頭する。
90歳となったいま、生徒を持つのは止めたようだが「先生」と、多くの方が伯母を慕う。
年相応の物忘れはあるものの、義母と伯母ではその程度はまったく違い。
義母は日付の感覚・季節の感覚・瞬間記憶が失われつつあるが、伯母はよくものを探す・とっさに言葉が出ないといった程度。
義母は失われた記憶を補うために、妄想を現実にあったことのように話すことがあるのだが、伯母は「その話おかしいよね」と、矛盾に気づく。

伯母はきちんと髪型を整え、おかめさんのようににっこにこのふっくらした顔つき。70代に見られてもおかしくない。
背筋はしゃんと伸び、自分の足でトコトコ歩く。

なんでもズバズバいう姉妹なので、その会話は時に辛辣だ。
「まるで姉と妹が逆転しちゃったみたいだね」
と伯母。
「姉さんが羨ましいわ」
と義母。

義母は、心底伯母を羨んでいるのだろう。
義母は夫である義父を早くに亡くした。
今の私とおなじくらいの年齢であったと記憶している。
当時は商店を営んでおり、地元商店街の会長を務めていたと聞く。
商店街を盛り上げ、まだまだこれからという時のこと。

突然の病死。
多数の従業員を抱え、大黒柱を亡くした店はあっという間に撤退に追いやられた。
多額の相続税を支払うため、所有していた土地の多くを手放すことになった。
苦労話を語りだしたらきりがない。
義母はそれから一人で、主人を含む三人の子を育て上げ、義父の親戚連中にやいのやいの言われながら、本家の看板を守り続けた。
とても苦労してきたのだ。

その義母が、いまや家族に頼る身となり金銭の一切は所有することを許されない。
外出の自由もない。

あれがほしい
これがほしい
どこへいきたい

以前は自分でスタスタでかけていたことが、今はできない。
そのために普段から多くを我慢しながら生きているに違いない。
私がすぐ傍に控えているとはいえ、常に義母の手足となれるわけでもない。
姑と嫁。
そこは何年経ってもやはり「他人」なのだ。

一方、伯母は自分の裁量で何でもかんでも決められる。
伯母は一軒家に一人暮らしだが、裏に長男夫婦が住んでいる。
実質は困ったことがあればその長男夫婦に頼るようで、金銭面から日常のあれこれを長男夫婦に助けられながら生活しているようだ。
年金もそこそこあるらしく、カラオケやマッサージなど、好きなときに好きなことをして、旅行などにも出かけながら日々を楽しく過ごしている。
膝が少し痛む程度で、健康不安も見当たらない。

客観的に見ても、おなじ年代でこれだけの条件に恵まれた方はそういないだろう。

義母は伯母を羨んでいる。
「姉さんはいいわね、自由で。お金もあって。私はなんにもない。自分のお金なのに、持つことすら許されない。なんでこんな惨めな思いをしなくちゃならないのか」
義母は感情に蓋をするすべを忘れてしまったので、身内に対してはもう言葉に遠慮がない。

しかし、伯母は真逆のことを考えているようだ。
「あんたは幸せだよ。お嫁さんに毎日みてもらって、世話を焼いてもらって。おいしいご飯を作ってもらって。掃除、洗濯の一切をお嫁さんに任せて、自分は上げ膳据え膳で。お金が持てないのは、そうなっちゃったんだから仕方ない。外に出る時、お金が必要な時、お嫁さんがちゃんとやってくれるだろ?なら我慢するしかない」
そう、義母を諭す。

そして、伯母はこんなことを口にする。
「あんたは幸せだよ。私はたまたま元気だから、長男夫婦がいるとはいっても、なにをしてくれるわけじゃない。毎日の炊事、洗濯、掃除、全て自分でやる。この年になって、やれ風呂釜が壊れた、洗濯機が故障した、そういうものも考えなくちゃいけない。長男夫婦は、子供がいないからお金で困ることはない。洗濯機や風呂の修理代くらいは気前良くよこすし、こづかいもほいほいくれる。でも、平日は仕事でいないし、週末は嫁さんの実家の手伝いに行くから週末もいない。元気が仇でほっとかれているんだよ」
一見しあわせに見える伯母は、義母を羨んでいるのだ。

伯母の長男夫婦には子供がいない。
つまり、伯母には内孫がいない。
離れて暮らしている伯母の長女のもとには孫がいて、最近ひ孫も誕生したが、毎日会えるわけではない。
長男夫婦と同居し、嫁の世話になって毎日孫たちと暮らす義母が、羨ましいのだろう。

義母と伯母。
二人の話を聞いていると、この価値観のすれ違いがはっきりと目に見える。
義母は外に出られない苦しみ、金銭を預けっぱなしにされている苦しみを訴える。
伯母は家族とともに暮らせる喜び、生活の一切を家族に支えられているありがたみを訴える。

それぞれに違うしあわせのかたち。
それぞれに違う苦しみを抱え、生きている。

元はおなじ家に生まれ育ち、姉妹として暮らしてきたはずの二人は、運命のいたずらによりまったく違う老後を歩んでいる。

結局、ないものねだりなのだとは思う。
しかしそれだけでは片付けられない、生き方、在り方。
どちらがしあわせで、どちらが不幸なのか比べるわけではない。
どちらもしあわせなのかもしれない。
悩みは誰しも抱える程度の、逃れられないものだとも思う。

運命の数奇。
義母と伯母の二人をみていると、私はこのことを考えずにはいられないのだ。

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