(連載)パラドックスの中のエクフラシス-宮本百合子「ヴォルフの世界」をめぐって 文:打林俊
『文豪たちの写真史 ー エクフラシスと「写真経験」の冒険』タイトル一覧
#1 文豪たちの写真史 ー 文学でよむ日本の写真表現の地と図(はじめに)
#2 キャラメルとヴィーナス — 開高健「巨人と玩具」にみる「婦人科カメラマン」秋山庄太郎
#3 霧のような雪の中に散る不遇のモダニスト ー 谷崎潤一郎「細雪」にみる写真師・板倉
#4 三島由紀夫没50年に寄せて 大いなる葬送 ー 『春の雪』と〈男の死〉をめぐる二つの死の完成
#5 パラドックスの中のエクフラシス-宮本百合子「ヴォルフの世界」をめぐって
1920年代後半、欧米では絵画の造形要素や価値観に範をもとめた表現動向であるピクトリアリズムから、モダニズム写真へと移行しつつあった。中でも注目すべき展開をみせていたのが、ドイツである。そのメルクマールの一つとして写真史のなかで必ず取りあげられるのが、1929年にシュトゥットガルトで開催された〈映画と写真国際展〉と、同展をもとに編集・刊行された『フォトアウゲ(写真眼)』だ。
同書の序文には美術評論家のフランツ・ローによる「メカニズムと表現」が英独仏の3ヶ国語で掲載され、現代の写真界はダゲールの時代、すなわち写真発明当時以来の第二の黄金期を迎えているのだと主張されている。その根拠こそが、二つの時代を結ぶ、レンズの機械的描写力、すなわちメカニズムを最大限に生かして対象を写し取る表現にあるのだとローはいう。もちろん、このような安易な発展史観に大きな問題があることは否定できないが、この主張は初期モダニズム写真のマニフェストとして、各国で繰り返しとりあげられていく。
また、モダニズム写真の旗手とされたラースロー・モホイ=ナジやアルベルト・レンガー=パッチュといった写真家の斬新なカメラアングルや即物的な描写、あるいは近代的機械文明を賛美するような作風は、世界中で追随者を生み、日本でも「新興写真」や「新即物主義」として紹介されたこの動向を通して知られる存在となっていった(図1)。
だが、こうしたラディカルな主張や、すぐさま形骸化していった表現がその熱量を保ち続けられるのは時間の問題だった。欧米では、イギリスを中心に1932年頃から疑問が投げかけられるようになる。日本でも、1934年から35年頃には西洋の動向に詳しかった森芳太郎や板垣鷹穂といった評論家から、「新興写真」表現の翳りが指摘されていく。
このように、写真界が冷静さを取り戻し、本格的なモダニズム写真の成立へと向かう最中に、新たに日本に紹介されたのが、ドイツ人写真家パウル・ヴォルフだった。あとで詳しく見ていくように、ヴォルフは写真関係者のみならず、おどろくほど多くの人を惹きつけた。小説家さえも。
宮本百合子の生い立ち-「貧しき人々」への愛と共産主義への傾倒
宮本百合子は、1899(明治32)年に中條ユリとして東京・小石川区に生まれた。東京女子師範学校附属高等学校在学中から、中條百合子のペンネームで白樺派に影響を受けた文学作品を書きはじめる。日本女子大学英文科予科在学中の1916(大正5)年に『中央公論』に発表した「貧しき人々の群」は、天才少女としての評価を受けるのに十分なものだった。翌年に日本女子大を中退し、1918年には父親と渡米する。コロンビア大学の聴講生となり、そこで出会った古代東洋語研究者の荒木茂と結婚、同年末に帰国した。しかしこの結婚はまるでうまくいかず、1924年に離婚。3年弱の破綻した結婚生活は、1921年から親交をもった野上弥生子を介して知り合ったロシア文学者の湯浅芳子と共同生活を送りながら執筆した小説『伸子』としてまとめられ、高い評価を得た。
その後、湯浅と1927(昭和2)年末から30年11月までソヴィエトに渡ったことをきっかけとして、共産主義への傾倒を強めていく。帰国して早々に日本プロレタリア作家同盟に加入し、ほとんど同時に日本共産党にも入党している。32年には同じく共産党員で、のちに書記長となる宮本顕治と再婚した(本稿では以下、百合子と表記)。とはいえ、共産主義者や社会主義者のみならず、文化団体への言論弾圧は日々強まっており、百合子は前年に創設された、プロレタリア作家同盟など11団体からなる日本プロレタリア文化連盟の中央委員として活動していたため、32年中だけで2回検挙、その後もたびたび同じような目に遭う半生を送っていく。
プロレタリア文学といえば、多くの人が小林多喜二の『蟹工船』をまず思い浮かべるだろうが、ここに描かれたような世の中にはびこる格差を解消する思想として、ソヴィエト帰りの百合子が共産主義に傾倒していったのは自然な流れといえるだろう。1936年には懲役2年、執行猶予4年の判決を受け、執筆活動も断続的に禁令を受けている。
こうした状況下にあって、直接的に共産主義やプロレタリア文学とつながりをもっていない内容のものだったとしても、百合子の原稿にほとんど問答無用の検閲がかけられていたことは想像に難くない。当局から原稿発表を厳しく制限されていた最中の1941年5月に『文芸』(改造社)に掲載されたのが、当時日本で一番有名な外国人写真家ともいっていい存在だったパウル・ヴォルフを論じた「ヴォルフの世界」だった。なぜ、右傾化の季節にあってこのエッセイをしかも実名で発表することができたのかを探っていくと、日本におけるヴォルフの評価の変化にこの鍵を見出すことができるだろう。
パウル・ヴォルフとは誰なのか
1941年のある日、さがしものがあって銀座の紀伊国屋書店へでかけた百合子は、店を出たところでショーウィンドウに『パウル・ヴォルフ傑作写真集』(図2。以下『傑作写真集』と表記)が陳列されているのを見つけ、どうしても中を見たくなって再び混雑している店内に戻り、一念発起して買って帰ったという。この『傑作写真集』の値段は8円、参考までに、米10キロが3円30銭、国家公務員初任給が75円程度の時代だったので、宮本のおかれた状況を鑑みれば、本人が書いているとおり「大決心」だったのだろう。
「日頃カメラを愛する人々にとっては、今更ヴォルフも知られすぎた物語であろうけれど、番町書房というところから発行されているこの一冊の写真集は、いろいろな感銘で私を動かした」とペンを走らせはじめる。
百合子のいうとおり、ヴォルフは1934年に初めて日本に紹介されて以来、すでに「知られすぎた」写真家だった。当時の熱狂ぶりに鑑みれば、今日の写真史では「忘れられすぎた」写真家といっていいほどだ。
ヴォルフが何者かといわれれば、「ライカの伝道師」というのがもっとも的を射ているだろう。1913年または14年、エルンスト・ライツ社は、それまで映画に用いられていた35ミリフィルムを用いたカメラを開発、1925年に「ライカ」として発売する。ライカが採用した24×36ミリというフォーマットは、現代では「ライカ判」とも通称され、フィルムカメラのみならずデジタルカメラのセンサーサイズの規格にも踏襲されるほど一般化しているが、当時としては斬新なもので、こうした新たな写真の視覚システムの登場が、ドイツモダニズム写真の基礎となるモホイ=ナジらの表現 理論を生みだす契機ともなった。
だが、この画期的な発明品も当初から評価が盤石だったわけではない。ネガが小さいために、プリントする際の引き伸ばし倍率が上がることで目につく粒状感、いわゆる「粗れ」が問題とされていたのだ。それまでも、小型カメラのフォーマットとしては、たとえばアマチュア写真家に人気のあった「アトム判」(4.5×6センチ)などがあったが、それと比較しても一回り小さい。ヴォルフは、暗室作業中に現像液の調合ミスが幸運を招いて微粒子現像法を発見し、今日でもモノクロフィルムの撮影・現像理論の“呪文”として語り継がれる「たっぷり露光・あっさり現像」を確立させた人物として知られていく。
これほど小さなネガ1コマから40センチ×60センチ大の全紙印画紙に引き伸ばしても鮮明な画質を保てるというのは、木村伊兵衛が回想しているように「ライカ判から全紙くらいに伸ばしたということが奇跡だった」(「木村伊兵衛放談室・16」『アサヒカメラ』1973年4月号)。ヴォルフはこの理論と作例をまとめた『ライカによる私の経験(Meine Erfahrungen mit der Leica)』を上梓し、ドイツはもとより、各国でも翻訳版が出版されて一大ベストセラーになった。そして、そこに掲載された作例の全紙のオリジナル・プリントが、エルンスト・ライツ社の主催の展覧会として全世界を巡回したのだった(図3)。日本では1935年にライツの東洋総代理店だったシュミット商会を介して開催され、その直前には『アサヒカメラ』と名取洋之助率いる日本工房による個展も開催されている。
その後、ヴォルフは展覧会、雑誌掲載、写真集の出版などを通じて日本の写真界を席巻していく。その評価の過程と影響力の大きさは、2019年にドイツで行われた大回顧展のカタログ『パウル・ヴォルフ博士とトリッチュラー:光と影-1920年から1950年の写真(Dr. Paul Wolff & Tritschler: Light and Shadow – Photographs from 1920 to 1950)』に掲載された拙稿 “Forgotten Phenomenon(忘れられた現象)”に詳しいが、「新興写真」さえその影響力を5年と保てなかったのに、ヴォルフは戦時下で次第に自由な写真表現のありかたが制約を受けていく中においても、8年以上ものあいだ影響力をもっていた。
だが、そこには一つの「仕掛け」があったのである。
というのは、同盟国ドイツでは、ヴォルフがナチスの対外宣伝に利用されていたことがあげられる。例えば、ヴォルフの『スキー仲間のトーニ』という、タイトルも内容もいたって穏健な写真集が1936年にドイツで出版されている。これは、ドイツとイタリアの同盟が背景にあり、ドイツにイタリアのスキーリゾートを紹介するという役目を担っていた。日本においては、ヴォルフによるベルリンオリンピックの記録写真集『私が1936年のオリンピックで見たこと(What I saw at the Olympic Games 1936)』が同年秋に丸善から出版されている。この写真集は、まさに当時の日本人が熱狂していたライカ・ヴォルフ・オリンピックを結びつけた“ライカの伝道師ヴォルフ”の名を知らしめたものでもあった。しかしそこに、すでにドイツ対外宣伝とヴォルフの関係を見いだすことができよう。
こうした経緯は、やがてドイツの対外宣伝だけでなく、ヴォルフが国内のプロパガンダに利用されていく土壌を準備するものだった。同盟国で人気のある写真家であることや、本人がそのことを一切知り得ていなかったことが、当局にとっては都合のいいことだったわけだが、それは1930〜40年代の日本におけるヴォルフの国民的ともいえる人気を背景にしたものだったのである。
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