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猫の校舎

雨の朝

まぶたも体も重い。薄っすらと目を開けても自室が私を包み込んでいるのは、いつものとおりであった。ようやく半身を起こし、左側の窓から世間を覗くとやはり雨で、ぽつぽつと雫が金属を打ち付ける音だけが雑音の中に浮いていた。

そんな日に、馬鹿なのだろうか。隣の家の前ではせっせとキャンプ道具を車に積み込んでいるところだった。もう立てた計画を種々の事情をも鑑みて中止とせざるのも難しく、ただ予定を消化すべくいやいや準備しているものと思ったが、そこに集まっている若い男女、数にして十人ほどはお互いに笑いかけながら和気あいあいと準備を勧めているのだった。その表情は晴れた日と何一つ変わりなく、そして彼らの誰もが傘もさしているでもなく、雨具の類を使用してはいなかった。

テントを包む布袋が雨に濡れて光っていた。ずぶ濡れになった薄い服が体に貼り付き下着が透けている女が無邪気に笑っていた。透明感のある女とはそういうことなんだろうかと思った。

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彼ら彼女らが数台の車に乗り込んで出ていったあと、部屋に目を戻すとテレビの電源が入っている。昔人気だった古い据え置きテレビゲームのディスクが回っていた。安っぽい画面を見つめながら面倒くさそうにゲームをしているのは兄だった。兄は3次元的に這わされた特設コース内で空中に浮く車を操り競争している最中であった。私もやったことがあるから分かるが、あのゲームは中盤に進出先を選べるステージが存在し、そこの選択を間違うと大変に難しいことになってしまうのだった。

兄に会うのは数年ぶりだった気がする。雨の薄暗い部屋の中、電気もつけずにただ、ひたすらにレトロな空間が広がっていた。心地の悪い空間だ。青春のゲームもいまやレトロゲーってね。

兄が二、三、何かを言って出かけていった。部屋を片付けておけとか、なにか生活用品を買っておけとか、そんな内容であった気がする。

ベッドに寝たままそばにある酒瓶を手探りで探した。重量を判別してまだ入ってるやつを見つけ、口を付けてからまた寝ることとした。小便に行くことだけが面倒だ。

大きな坂

毎日毎日、大してやることがあるわけでもなかった。だから、最初は写真を撮って過ごしていたが、それも飽きてしまった。あくる日もあくる日も近所をぶらぶら散歩して歩いた。それくらいしかやることが無かった。

しかし生来、出不精で人付き合いも億劫な私にとってはありがたかいことだった。世間が朝起きてスーツを来て、世間が駅まで一直線に歩き、世間が満員電車に乗って世間がオフィスビルに吸い込まれていく様をまったく関係のない第三者の立場から眺めるのはとても気分が良かった。端的に言うと私は働かなくて良い人種だったのだ。

河原、光り輝く水面。金木犀のにおい。木漏れ日。古くなったレンガ道。中学生が乗る自転車。お気に入りの散歩道、お気に入りのカフェ。いずれも贅沢な光景であった。そのなかで世間だけがあいつはろくな大人じゃないという目で見ていた。しかしその瞳の奥に羨望があるのも私は知っていた。

世間は至るところに潜み、私も観察していた。朝夕のニュース、スーパーのレジ、駅やショッピングモール。インターネットとSNS。その潜む世間を私も観察していた。

人は自分に持っていないものを持っている人を、妬み、羨む。本能で隣の家の青い芝を羨んでいる。そして本当にそれが青いかどうかは関係ない。青く見えるのが問題なんだ。その非建設的な営みから抜け出せるためには自分自身に価値を見出して、世間の価値観を捨てる必要がある。しかし世間の中に居るとそんな単純なこともわからないのだ。その点、私は世間と隔絶しているからこそ、世間のことを知っているという自負があった。

家の近くにはものすごい坂があった。世間はそこでも駅の方向に向かって進んでいた。ヨレヨレのスーツにパンパンになったビジネスバックを抱えて登っていっていた。私はその坂の前の交差点を横切ることだった。そこで、いつもとは違うことが起きた。

さっきからうすうす感づいてはいたが、私の後ろを歩いている人が、ちょっと、なんだかおかしい。あまり関わり合いになりたくない人だな、と思った。何がおかしいかというまず独り言が多い。何を喋っているのだろうと聞き耳を立てていたら、それはおそらく、最近よくテレビで目にする芸能人二人組の掛け合いのセリフの一式を暗記したものであった。そして足音が異常で、たたたんとテンポよく接近して来ることもあれば大きく垂直跳びして両足からびたん、びたんと着地しているかのような音も聞こえた。

信号が変わった瞬間、私は早足で立ち去ろうとしたのだが、だめだった。

「うわっ、きたねぇ」

一気に心臓が締め付けられる感覚があり、反射的に後ろを振り向くと異様な姿の人間が笑いながら吐瀉物を撒き散らしていた。額にはゴム製の鉢巻のようなものを巻き、無地のTシャツに青い短パン、白いハイソックスを履いている男が暴れていた。

「ちょっと、あの、付いてますよ」

そう、先程「きたねぇ」と言った世間、具体的には関わり合いになりたくない感を滲み出させているおっさんが私のふくらはぎを指差したのだ。その瞬間、足にまとわりつく嫌な温かみを感じた。それですべてを察した。

文句を言っても仕方ないだろうなと思いつつ言わないと気がすまなかったので、「なんだてめーはよ、このやろう」の「なン」まで言ったところでその短パンが抱きついてきたのであった。そればかりか、腰をぐりぐりとねじり込んで足に擦り付けて来るので非常に気色が悪い。足についたぬるぬるは短パンの擦り付けによってズボンの繊維の奥底まで染み渡ってしまった。

絶対許さねぇ、と思った。

やっと引き離したところで野郎の襟の部分をしっかりと掴み、すぐさま警察に連絡をとった。警察が到着するまで絶対に逃さないからなと睨みつけていたが、上の空でヘラヘラと笑い、また独り言をつぶやき始めるのだった。

人の良さそうな小太りでメガネをかけた中年の警察官が来たところ、やはりというか知った顔らしく、「だめだよ〜、小谷さん」などと開口一番、本当に困り果てましたといった調子でため息混じりに口から言葉をひねり出した。小谷さんは界隈の有名人らしい。

結局、その警官の話をまとめるとクリーニング代や衣服などの弁済を要求すること自体は可能であるが、現実的にその金額に見合う手続きではないこと、それでも要求するのであれば自ら然るべき請求の手続きを行わなくてはならいないこと、警察としては都度注意する以外になく、保健福祉法の緊急措置にも該当させにくいという現状などを説明された。

結局のこったのは吐瀉物の残骸だけで、私は坂の下で途方にくれていた。どうすればいいのか…。嫌な匂いが漂っていた。

ひとまず、このまま家に帰るのは嫌であった。玄関から着替えがある部屋まで汚れたまま歩くのも嫌であった。というか一刻も早く、この穢れを多少なりとも流し去りたいと考えたのだった。

そうして思い出した。そうだ、この坂の上には公園がある。公園の中には蛇口があったはずだ。そこで洗えばいいじゃないか。朝のまだこの時間ならば誰も居ないし、不信がられることもないだろう。よし、そうしよう。坂を登ればすぐに公園だ。

そうして坂を登り始めた。日がじりじりと背中を温めていた。秋に差し掛かったというのに、暑い日だった。

その坂は非常に急で、冬場など凍結した日には自動車がブレーキをかけたまま、タイヤをロックさせて滑り降りてきて事故が起きる有様だった。また、坂上からは自転車が勢いに任せ凄まじい速度で狭い歩道を走ってきて危ないことこの上ない。反対に登りだと彼ら自転車の連中は、たいていは自転車を下り、はあはあ言いながら自転車を押して登っていく。たまに坊主の中学生が歩くよりも遅い速度で自転車に乗ったまま登っていくのも見るが、あれは凄いと思うな。私は。

強い日差しを睨みつけ、早くしないと穢れが乾いてしまって落ちなくなるんじゃないかと思い、先を急いだ。つもりだった。しかしいつまで経っても坂を登りきることがない。こんなに長かったかな。おかしいな。坂の上までは歩くのも大変で、バイクも車も廃車にしてしまってからはあまり行っていない。だから忘れてしまったのかも知れないな。

途中、何度か戻ろうかなとも思った。けれど、途中で戻ってしまったらいよいよ老人に足を踏み入れたという事実を突きつけられる気がして、それが不快で登った。

坂の上に着くと、もう真夏のようだった。自分自身の体温が高くなってるというのもあるだろう。汗をかき服が体に張り付いている。そうだ、キャンプ…。あの準備のときも、女はあんな感じだったな…。しかし疲れた…。

ようやく公園に入っていくと、あったはずの蛇口が見つからない。普通は目立つ所、たとえばトイレがあればその近くに併設されてたりするような気もするけどな。もしかして無かったんだっけ…。いや、あったと思うなと奥へ奥へ進んでいった。

そこにあったのは、公民館か、学校のような建物であった。入り口には草がたくさん生えていて、最近も使用されているような雰囲気ではなかった。こんな建物があったのか…と様子をうかがっていると、猫が横を通り過ぎて建物のほうに向かっていった。白くて毛並みの整った、野良猫には見えない綺麗な猫だった。しかし、首輪はなかった。

その猫はあんまり人間を恐れるふうではなく、むしろ何度かこちらを振り返り、付いてこいとでも言っているようだった。

まるで漫画の一シーンのようだな、と思った。なんだったかな、あの、猫が楽器屋の前を通り過ぎる、みたいな…。私は猫が逃げるまではゆっくり歩いて追いかけてみようかな、と思った。急に近づいたら逃げるからな。

猫は建物のほうに近づいていく。その入り口の一つは大きく開いていた。もしかしたらまだ使われてるのかな?と一瞬思った。もしそうであれば不法侵入ということになるが、いや、それはないだろうな。だって、公園との境界が無かったから。もしここが私有地であったとしても、色んな人が出入りしている土地だろう。そしたら多めに見てくれるさ、と「赤信号、みんなで渡ればこわくない」理論を心の中で振りかざしながら進んだ。

大きな入り口(引き戸になっていて正面玄関という感じではなかった)から覗くと、建物の中は非常に広い部屋になっているが、倉庫なのだろうか、ゴミとも判断が付かない大きな箱や木材の類が積み重なっており、さらに床には猫が沢山いた。これが猫の集会というやつだろうか。

私は珍しくなって、ポケットからスマートフォンを取り出し、写真を撮った。が、明暗差が激しすぎて露出がおかしなことになっている。私は写真にはこだわるのでちょっとこれは納得がいかなかった。写真にこだわるならカメラの一つくらい持ち歩けって?その通り。お前が持って付いてこい。

中から撮らなければきれいに撮れないな…と思って覗いてみると、なんだ、やはり廃墟だった。壁は崩れ落ち、至るところに建材の切れ端みたいなものや、良くわからないオフィス機器のようなものが積み上げられて捨てられている。とりあえず写真を撮るだけなら良いだろう、場合によってはちょっと探索しても良いかもしれん、などと思って中に靴のまま入った。とても素足で入れるような環境ではなかった。

中は体育館のようだった。するとやはり学校だったのだろうか。猫は入ってきた侵入者を物珍しそうに、距離を保って観察していた。不思議と、どの猫も人に慣れていた。誰かが餌や何かをやっているのかもしれない。

ふと、上を見ると中二階のような構造物があり、近くに階段もあったので、とりあえず見れるところまでは見てみようと先を進んだ。中二階の方は床が朽ちているところも多く、また跳び箱や木材の類が散らばっているので慎重に歩いた。

すると、唐突に人の話し声が聞こえ、私は青くなった。誰だ。場合によってはいよいよ不法侵入になる。いや、不法侵入にはもう既に違いないのだが、それが人間の観察によって顕在化するというか。ゆらぎをもった量子みたいだな。いや、ちがう。そうじゃなくて、私の使命は見つからないようにここを抜け出すことであると今決定したということが重要だ。

警備会社の人かもしれない。そう思い、ゆっくり音を立てないように歩いたがこれは不可能だった。歩く度に何かを踏みつけ、パキパキといろんな音がする。もしかしたら気づかれているかもしれない。だめかな。話し声はまだ続いている。

中二階からそっと下を覗くと、衝撃的な光景が広がっていた。先生と思しき中年のおばちゃんが立っていてこちらを驚いたように見つめており、その前には30人か40人位の制服を着た女子高生か女子中学生か、が、一点を見つめていた。その一点とは私の目だ。見つかってしまったのだ。

というか、ここは廃墟じゃなかったのか、汚いだけで普通に使用されている学校だったのだな。ちょっとは掃除しろ。いやまずいぞ、昼間から足にゲロを付着させて異臭を漂わせた無職のおっさんが女子校に忍び込むなど一番まずいパターンだ。不法侵入どころではないかもしれない。ニュースになるかも。ニュースになったら世間が…。

逃げるしか無い。一瞬のうちに判断して体が反射的に動いた。

「あーちょっとちょっと!!」

おそらくおばちゃん先生の叫びと思しき声がこだました。それと同時に、驚きと笑いが入り混じったようなざわついた声も聞こえた。ただし、それが聞こえたときにはもう中二階から廊下に続く扉に手をかけているところだった。

廊下に続く?

そうだった、扉を開けると確かにそこは廊下だった。左には扉があるが、そこは開かないことを知っている。誰がそうしたのか、ただ単に壁に扉が埋め込まれているだけで部屋など無いのだ。ドアを開けてもそこにあるのは壁だけだ。

校舎全体は木造であった。廊下にもう西日が差し込んでいるように思える。いや、秋だから西日のように見えるだけかな…そもそも西は…。いや違うな。緊急時でも要らないことを深く考えてしまうのが私の癖だ。と、自己分析するのも私の癖だ。だめだ、ちがう、今は…。どうやって一階に降りればいいんだっけ…。そうだ、階段だ。

逃げるには廊下を突っ切って奥にある階段から降りるしか無いが、その廊下の先には踊り場のような広い空間があり…そこにはまた驚いたような顔でこちらを見つめる女子生徒が立っている。まずい。右側には三階の一部に続く階段があり、それを登った。なにか身を隠す所は無いか。

三階は誰が設計したのだろう、立ち上がることも難しい天井の低さで、腰を曲げて私は進んだ。

右は行き止まりで、なぜか壁全体が三面鏡のようになっていた。その三面鏡の一枚をくっと手前に引くと、その奥には明るい空間が広がっている。なるほど、ここは隠れるのに都合が良いかも知れないと思い、狭い入り口を四つん這いになって進んで中に入った。

しかしすぐ後ろには「どこどこ?」などとまるで鬼ごっこをする子供のような無邪気な声が聞こえる。生徒をも動員して探し始めたのだろうか。もしかしたら見つかっているかも知れないが、その場合はもう後ろは絶たれているということなので、いずれにせよ進むしかなかった。

中は思った以上に広い部屋で、ここも木の端材などが散らかっていた。三面鏡の裏側にあたる板には丸いドアノブと、ドアノブに安っぽい便所でよく見るような鍵が付いている。とっさにそれもかけておいた。

すると、突然ドアが開き、二人の女生徒がなだれ込むように飛び込んできた。なんと、三面鏡の左に位置するところには通常のドアが据え付けられていたのだった。じゃあ、この鍵は何なんだよ、何の意味があるんだよと怒りが湧く。

しかし対象的に飛び込んできた二人の表情は楽しそうで…というか、とても良く似ている。双子か姉妹なのだろうか。その目に敵意はなかったし、私はダメ元で許しを乞うように話しかけてみた

「あのね、間違って入ってきちゃっただけなんだよ。大事にしたくないんだ。誰も居なくなったらこっそり外に出ていくから、お願いだから放っておいてくれないかな」

二人は話を聞いているのか聞いていないのか、しかし興味深そうに、まん丸の目をこちらに向けて硬直していた。返答はどうだ。長い沈黙のあと、二人は目を見合わせてふふふ、くすくす、といたずらっぽい笑い声を立ててばたばたと帰っていった。

私の願いは伝わったのだろうか?

ともかく、次にまた誰が来るかもわからない、逃げたほうが良いだろう。最悪、窓から飛び降りるのでも良しとしよう、2階くらいからならばまぁ骨折はしないかも知れない…場所を選べば…などと行動し始めようとした矢先、ドアからもう一人がなだれ込んでくる、あ、もうだめだ。終わった。今度は大人だ。どうにもならない。

「綾瀬くん」

自分の名を読んだそのおばちゃん先生は、見たことのある顔だった。そうだ。文子先生であった。

猫の先生

私は中庭が見える位置に椅子を置き、そこで本を読んでいた。最近はそれが日課になりつつある。校庭や中庭では皆が思い思いに遊んでいた。と言っても、走り回ったり砂を掘ったり草花を摘んで集めたりしているだけだ。

見た目は高校生くらいであるのに、やっている事はほとんど小学生と変わらないそのギャップがまた可愛らしかった。

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「先生、今日は何するの」

まんまるの黒目がちな女子生徒が聞いてきた。名前は知らない。もしかしたら無いのかも知れない。聞いたことも無いし聞く必要もない。

「そうだな、今度は中庭でスケッチでもしてみるか」

そう言うと、はーい、と尋常の調子で駆けていった。その声の調子からはあまりお気に入りではないのかも知れない。

生徒たち、あるいは、猫。私はその呼び方しか知らない。見た目は可愛らしい女子高生(年齢も不詳だが、私にはその多くが高校生くらいに見えた)のようにしか見えなかった。ただし、普通の人間とはやはり違う感も強い。端的に言うと、言動が非常に幼く、また自意識も希薄だ。言葉は通じるが、あまりむずかしい言葉は理解できず、社会性といったものも感じなかった。話している内容も幼い子供のようで、常に主語は物や景色、行為、食べ物だった。

ただ、それが私には楽だった。彼女ら、猫達は放っておいても何か手がかかるわけでもなく、気が向いたら先程のように私に話しかけてくることもある。

だから各々が、日がな、やりたいことをやりたいようにやっていればよかった。散歩の延長だ。始まりも終わりもない。自然と人が集まってきて、飽きれば散っていくだけだ。ときどき、熱心な生徒は何人かでずっと私の話を聞いていた。

つまりここには世間が無かった。彼女らは幼く、その体と脳にはまだ世間が存在しなかった。そして、それ以外の人間は存在しなかった。だから私は早々に馴染めて戸惑いも無かったのだと思う。

文子先生が去ってからおそらく1ヶ月くらいは経っただろうか。

文子先生とはおよそ二十年来の再開だったはずだ。文子先生は昔のように私に一つずつ、ゆっくりとこの校舎のことを教えてくれた。

その成り立ち、しくみ、先生の仕事…。メモは取っていたけど、あれは机の中にあるんだったかな。まあ、どこかにはあるだろうな。

突拍子もない、夢のような話が続くので私は最初は信じられなかった。猫だの、人の魂だの、三途の川だの。

それでも信じはじめたのは、文子先生がまったく年をとっていなかったことからだった。その事実に気づいたときには鳥肌が立った。

そもそも、文子先生が私を担任していた時は、まだ若かった私にとってはとても年上な感じ、大人な感じ、人生経験豊かな感じ、が、した。もちろん、それは世間向けの言い方だ。私の中で簡潔に言えば「おばちゃん」という感じだった。

ある日、隣の席の女子(名前はなんだったかな、やっぱり思い出せない。人の名前を覚えるのは嫌いだ)が「文子先生、たぶん妊娠してるよね」と言っていた。それで私は、ええっ、おばちゃんじゃないか。子供を妊娠するはずないだろうと言ったのだった。今考えると失礼な話だった。私はまだ世間なんて知らなかったし、子供というのは高校を卒業したばかりで地元のちょっと悪い先輩と付き合っていた女子が結婚して作るもんだとくらいしか考えていなかった。そこまで深くまで考えていなかったのだった。

文子先生は実際、妊娠していたと後に自ら私達に伝えたのだが、そのときに私は本当に恥ずかしくなったのを覚えている。その時の文子先生が三十代後半か四十歳くらい…。しかし20年たった今、文子先生は私と同い年、少なくとも同世代くらいに見えた。


文子先生が言うには、この校舎は猫と人をつなぐ世界ということだ。

文子先生はまだ幼い子供と夫を亡くして一人になった。峠で片側交互通行になっている信号のまえで停車していた際に後続する車が文子先生の車に追突し、先生の車は崖から落ちた。

気づいたときには夫と子供はおらず、先生だけが車の中に残されていたそうだ。夫とまだ幼い、生まれたばかりの息子は崖下で見つかった。損傷が酷く、遺体も見せてはもらえなかった。

病院では虚ろな意識の中、いつも夫とまだ幼い息子を薄霧のかかった森の中で探す夢を見た。ようやく見つけても、二人はまるで他人を見るかのような冷たい目で一瞥し、また森の奥底に歩いてしまうのだった。

ようやく歩けるようになったころになっても、看護師は要望したテレビを用意してくれなかった。だから、その当時携帯電話に付いていたテレビ機能を使ってようやくニュースを見ることが出来た。

飲酒運転の車が峠道の工事用信号前で停車していた家族の車に追突し、崖下に落下。連日報道されるテレビを病室で見ても他人事のように思え現実感がなかった。退院して家族と再会したときには家族はもう骨壷の中だった。

長引く裁判に疲れ果てたとき、先生は猫の校舎と出会った。

そもそも、猫の校舎を作ったのは先生の「友達」だそうだ。その友達とは先生がまだ大学生だったときに亡くなった親友だった。文子先生が猫の校舎にやってきたとき、若くして死んだはずの友達が校舎の中の唯一の「先生」をしていた。亡くなったときと同じままの姿で年をとっていなかった。

友達は、若くして亡くなったからまだやりたいことが沢山あり、成仏したくなかった。どうしてもまだこの世界にとどまっていたかったのだという。

「私は猫が好きでしょ、だから野良猫や迷い猫が殺処分されるのがかわいそうだと思って。同じように死んだ人間にも未練が残っていて迷い猫や野良猫のように行き場をなくした人がいる。だから、迷ってる人と猫、ふたりとも幸せに過ごせたらな、と思って」

それで、「魔法」を使ってできたのがこの校舎だったそうだ。

それを受け継いで二代目の先生になったのが文子先生。

魔法が具体的に何なのかはわからない。ただ、文子先生が言うには「夢の中で夢だと気づくと、夢を思い通りに操れることがあるでしょう。それと似ていると思う」だそうだ。

実際、文子先生が話していた部屋の壁にはその魔法の一部があった。それは壁に書かれた落書きのように思えたが、文子先生はその一部を指でつまむと、まるでそこに操作盤があるかのように移動させた。アニメーションを見ているかのようだった。それは、校舎全体のクライメットコントロールだと言っていた。

そして重要な説明がここからだ。ここの先生としての役割は、生徒を連れてきて、そしていつか学校から卒業するまで学校で生活させること。

これが具体的に何なのか、正確に説明するのは難しい。文子先生にも隅々まで正確にはわかっていないのだから、ここに来たばかりの私がわかるはずがない。

ただ、文子先生の話をまとめて私が解釈する限り、次の通りの仕組みであった。

まず、生徒とは「猫の力を借りてこの空間に存在している人間の魂」と思われる。現実に存在しているのは猫だけだが、そこに人間の魂という、概念としての存在が加わることで生徒になって見えるのだ。数学的に言えば人間の魂が関数で、猫の写像が生徒ということになる。もうすこし物理的に言うと猫という光源があり、それに照らされた人が落とした影が生徒。今の所、それが最もわかりやすい説明と考えている。

ここからがややこしい。この関数とは当然、全射ではない。部分関数だ。つまり、あらゆる人間の魂に対して対応する影、生徒が存在するわけではない。

では、それが存在するかしないかの違いは何だろうか―――そこに、先生としての役割がある。

つまり、死んだ人間が霊魂となって世間をさまよっている状態のときに、先生はその霊魂を校舎に連れてくる役割を担う。

具体的には、「あっ、ちょっとすいませんね。霊魂としてさまよってる所、恐れ入ります。私、猫と人間の霊魂をマッチングしているものでして。いやいや、怪しいものじゃないんです」という上野駅周辺みたいなことをやってるかどうか分からないけど、まあ、そういう事を経由してもしさまよっている人間の魂がうまく猫とマッチしたときに、生徒が生まれるらしい。生まれるという表現が正しいかもわからないけど。

そしてそれが行われる場所というのを「三途の川」と呼ぶそうだ。その名付け親は初代の先生。ただし、その場所が必ずしも川であるとは限らず、便宜的にそう呼んでいるとのことだった。

また、ここの生徒がすべて女子である理由もそこから来るそうで、文子先生が言うには「男の人はスパッと成仏するから。未練がましいのは女」らしい。その断定的な言い方にはちょっと違和感を感ずることもあるが。

そして、猫の方も影響を受ける。具体的には、人間と猫がここで生徒として生活している間は、穏やかな時間がお互いに流れ、平和な暮らしが約束されるとのことだ。

なぜそうなっているのか?それはつまり、文子先生の友達、すなわち初代の先生がそのように魔法を設計したからに違いないと私は踏んでいる。文子先生の友達は猫好きで、おそらく道に迷った猫も人間も、あわせて幸せであってほしいと願った。そのような人が設計したのだから、猫も人間も幸せな世界にしないはずがないのだ。まあこれは私の願望も含まれている。

そして最後。生徒の「卒業」とは何か。三途の川から連れてきた魂はいずれ卒業し、校舎を後にする。その後、生徒、猫がどうなるかは文子先生もわからないらしい。ある日、生徒はふらっと校門から出ていく。そして二度とは戻ってこない。これを便宜的に卒業と呼んでいるとのことだった。生徒が出ていく理由も不明だし、出ていったあとどうなるかも分からない。文子先生は、「たぶん、その時が成仏ってやつなのかもね」と言っていた。

そして一番重要なことを文子先生に伝えられた。

私は、人生の一番つらいときに猫の校舎に出会った。私は、自分が明確に死んだという記憶はないけれど、多分死んでると思う。そして、ここにきてまた先生をやって、多分、何十年も経ったような気がする。本当にそんな年数が経ったかどうかは分からないよ。ただ、ここの時間の流れは現実とは違う気がするの。そして、ずっとここで先生をしていて、綾瀬くんのようにたまに迷い込んでくる人を見かけた。その人たちは、なぜか私の知り合いばかりだった。

簡単に言うと、私はもう成仏したいの。この世の未練は遠い昔に消え去った。安住の地を捨ててでも、家族の元に行きたい…。そう思うようになった。つまり、「卒業」ってことね。綾瀬くんが嫌なら無理にとは言わないけど、もしよかったら、ここの先生を継いでくれないかな。

そうして、文子先生は旅立っていった。私は先生になった。

なぜここにとどまったのか?理由は、特に、無い。私は現実世界でもすでに世間を捨てていた人間だからかも知れない。どこに居ても変わらないという気持ちがある。それに、文子先生みたいな人の境遇を聞かせられて、断れる人間が居るとは思わないな。

はざま

猫達の名前は知らないし、聞いても答えてはくれない。名前の知らない猫たちであるから、私がたまに思いつきで名前をつけることもある。つまり、猫にブチとかミケとか付けるようなものを思っていただきたい。そして、それぞれにある程度の個性や性格の存在も感じた。

例えばメガネちゃん。メガネをかけていたからメガネちゃんだった。この子の絵は地獄と思われるほどに下手だった。

メガネちゃんの絵は原型をある程度とどめているという点が凶悪であった。つまり、例えば幼い子供であれば何が何だかわからない色彩と線の暴力のような絵になるが、メガネちゃんの絵はそれが何なのかある程度分かるし、一応は子供ではないので直線も曲線も綺麗に引けるのがまたたちが悪かった。

そこに描かれた空間は元々の中にはとは似ても似つかない地獄のようなものだったのだ。

それでもメガネちゃんは出来た!!と満面の笑みで宣言した後、他の猫たちにそれを見せていた。他の猫たちもすごいね!上手だね!と手放しで褒めていた。ひたすらに笑顔で、それもお世辞ではなくて心から凄くて上手であると認めている声だった。


晴れた日は、屋上で寝転んで本を読んで過ごした。猫の校舎にある本はすべて現実世界にもある本であった。温かい日は同じように猫達も屋上に上がってきて私の真似をして本を読んでいたのだが、読んでいるのは大体絵本や図鑑の類であって、文章が多い本は苦手なようであった。

猫達が喧嘩することも無いわけではなかったが、大体は険悪なムードが数秒続いたら、お互いに反対方向に駆け出してそれで終わりだった。他の猫が仲裁に入ることもあった。

つまり、彼女らの見た目は女子高生か、女子中学生か、そんなように見えたが、行動パターンの多くは猫の影響を多く受けているように思えた。

彼女らの事は全体的には「猫」、と呼ぶことにした。言動はいかにも猫であるし、あとは、とあるイギリスの小説に出てくる、友人知人の事を「猫」と表現する登場人物が好きだったことも影響している。

猫達に生前のことを聞いてもわからないようなので、おそらくはここに閉じ込められている間は人間だったことは忘れているんだろう。未練があって三途の川を漂っていた魂なのだから、生前のことは覚えていないほうが幸せだろうし、良いことだ。

もしかしたら、その時の記憶を思い出したとき、それが卒業なのかもなとふと思った。普通の人間がこのような閉鎖的な空間で生活できるわけがないから。私はまだ見たことが無いのではっきりとは分からないけど。

私はというと、世間のことを全く思い出さないわけでも無かったが、あまり気になることもなかった。特に未練はない。文子先生のように家族が居たわけでもない。妹は結婚したし、両親も祖父母も死んでしまった。兄はやや不安が残るが、両親の遺産に加えて、私の遺産の取り分も追加されたわけだから、特段何か困ることも無いだろう。

そんなときだった。

猫達は夜になると、思い思いのところで丸まって眠っていた。特に着替えることもなく、制服のまま床に寝転がっていた。布団やクッションは取り合いになることが多く、何人かが折り重なるように寝ているのも珍しくは無かった。

私はというと、文子先生が使っていた部屋を使っていた。そこにはベッドも机も椅子もあったし、簡単な本棚もあった。生活に必要なものは揃っていた。

ただ、先生が使っていたベッドで眠るのは、すこし嫌な感じがした。そもそも私は他人が使った衣服や家具は受け付けなかったから。だが、他に新しい布団の類が見つかるのも稀だということだったので、それを使い続けているし、そもそも面倒なので探すようなこともしていない。

その日もベッドで眠った。そして夢を見た。いや、夢から覚めたと言うべきなのだろうか?

後ろには校舎があり、校門がある。ということはここは猫の校舎の外だ。空は星空が見えるが、周りの景色は明るく照らされて真昼のようだった。そう、月面がおそらくこんな感じだろう。

私はふらふらと校舎から遠ざかる方向に向かっていった。行くべき所が分かる、そんな感じだった。真正面には綺麗な天の川が流れていた。ということは、この世とあの世の狭間も太陽系にあるということなんだろう。

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不思議と、人の姿も無く、車も走っていなかった。片側3車線の道路をたった一人、歩行者天国のように歩いているのは変な気分であった。

大通りを過ぎ、細い道を幾つか折れ曲がって、綺麗めのアパートにたどり着いた。築浅で駅からも近い両物件だ。ただし、敷地内には改造を重ねた、うるさそうなマフラーを付けたバイクが止めてあったので、住民の質は良くないかも知れない。

その二階の202号室、嫌だ、会いたくないなという重苦しい気分で玄関の扉を開けた。それが私の人生の中で初めて遭遇する、三途の川と知っていたから。ドアを開けたらすぐにキッチンとトイレ・風呂と思しき扉、その暗い空間の向こうに明るい部屋。中にはTシャツ、下はパンツしか履いてない女がゲロを履きながら横たわっていた。またゲロだ、嫌になるな。

年齢は三十歳は行ってないだろうなという感じで、いかにも精神を病みそうな面構えだった。原型を留めない加工写真をインターネット上にアップロードしてちやほやされたい、そんな感情がにじみ出ている顔だった。知らない人が見たら可愛いという感想を持つかも知れないが、私は嫌と言うほどこういう人種を見てきているので、こういう人と関わり合いをもつとどういうことになるかよく分かっている。

それでも私は優しいので丁寧にゲロを拭い、下半身に布団をかけた上でベッドに寝かした。そうした上で顔を軽く叩き、起こそうとした。本当はズボンかなにかを履かせようとも思ったが、何だかその作業がいかがわしいものだと思ったのだった。そうだろう?

顔を叩かれて目覚めた女は「あなた誰」と酷く疲れた調子で答えた。私は単刀直入に答えた。

「俺のことは一旦置いといてくれ。多分だけど、あなたは死んだよ。鍵のかかった部屋におっさんが入ってきているという事実が不思議と感じ取ってくれたら話が早いな」

女は自分の吐瀉物と大量の薬品を横目に見て、ああ、なるほどと得心したようだった。最近のOTC医薬品はいくら飲んでも死なないと聞いたことはあるが、気絶した上に嘔吐物が気管に詰まったりしたんだろうな。

それより、自殺した人を見たことは無いが、意外と心穏やかなもんなのだな。とその時は思った。(そして事実、私は幾度と無く死んだ人に会いに行ったが、その誰もがこの女のような調子で、慌てる人は驚くほど少なかった。死因が事故であっても自殺であっても病死であっても、だ)

「そうか…。死んでも特に何か救われるわけでもなく、日常が続くだけなのかな」そう、女は私に対してなのか、自分に対してなのか、曖昧に独り言のようにつぶやいた。私は面倒になって口を挟んだ。

「そうだね、みんな現世と変わらないってびっくりするよ。あなたは自分で命を断ったのかも知らんけど、そして中には自分が死んだこともわからないままの人も居るよ。でもこれが現実っつうか、そう、本当の死後の世界ってやつなんだよね。死は平等だって言うでしょ?だからあれは本当なんだよ。まぁ言い出した人は良い人にも悪い人にも必ず訪れる、みたいな意味で言ったのかも分からんけどね。でも実際はこんな感じ、死んだところでなんにも変わらない。現実がそのまま続くだけ。そうでしょ?びっくりした?なんか羽の生えた天使が来てあなたの罪をすべて赦した上で天国に連れて行かれるもしくは地獄で閻魔大王と出会うとでも思った?ちょっと違うんだよね、期待してたなら残念でした」

と、早口でまくし立ててしまった。私の悪い癖だ。しかもでまかせが大量に混じっている。こんなのだから、どこに行っても相手にされなかった。

吐瀉物の女は私が喋っている最中も心ここにあらずという感じだった。黙ったままだった。しかしここでまた口を挟むとあまりよくないなと思って我慢した。無言のまま、女はきょろきょろと部屋を見渡したり、なにか考え込んでいるように見える。沈黙が辛い。待つのは嫌いだ。いつまで待たせるのか。困った。なんか喋って欲しい。なんかあるだろ。今お前は死んだんだから。なんもないのか。なんもないような女だから自殺したんか。そうか、そうかもしれないな。

「あなたは誰なんですか」

またそれか。「当然の質問だと思う。でも残念ながら私自身、よくわからないんだ。もともと普通に暮らしてた人間なんだけどね。いつだったか、昔、坂の下でゲロがかかってさ…いや…うん、まあ、色々あって普通の人間だったけど、こうして人が死んだあの世の世界に片足を突っ込んでるって感じかな」

「私はどうなるんですか?どうすればいいんですか?」

「うん、そう。その質問を待っていたんですよ。どうすればいいか、ね。ちょっと意味がわからないと思うんだけど説明するね。私、猫と人間の霊魂をマッチングしているものでして。いやいや、怪しいものじゃないんです。つまりどういうことかと申しますと、猫の力を借りてもう少しだけ、この現世にとどまる猶予を与えるというサービス業をしておるわけです」

女の表情は変わらなかった。どう説明すればいいというんだ。

「この世界で、最後に見ておきたいところがあるんです」

女はそう言った。ちょっとくらいは人の話を聞け。

ジャージを履いた女とやってきたのは、線路を伝って歩いた先にあった、また別のアパートだった。直線距離で歩けばおそらくもっと近かったのだろうと思うが、しかし女が言うには「電車でしか行ったことが無いから分からない、スマホも無いし」ということだった。確かに、私も土地勘については似たようなものだった。

そのアパートは先程のアパートが築浅の良物件であるのに対し、こちらは昭和の感じが漂う古臭いアパートという佇まいだった。自分の家のようにずかずかと侵入していく女を見てなんとなく察することができたが、入った一室の内部には案の定小奇麗にしている男が使っているであろう雰囲気の部屋があった。テーブルには食べ終わったあとの皿が山盛りになっていると思いきや、ゴミ箱には大量の食べ残しが乱雑に捨てられていた。いや、食べ残しではないかも知れないな。食べ残しにしては量が多いし、普通は三角コーナーとかに捨てるだろうから。捨てられてるのは居間にあるゴミ箱だ。

女はその皿を虚ろに見つめていた。少し気味が悪かった。突然叫び出したり泣き出したりしたら怖いな。きっと腕にも切り傷があるんだろう、見てないけど。

女が横髪を耳にかけた瞬間、その気味の悪さの原因が分かった。見たことある女だった。その顔立ちは…そうだ、黒川に似ている。

「まさか、黒川の妹さん?」

女はびくっと肩を震わせ、私を見た。質問には答えなかったが、その問に対する答えは理解できた。

「…困らせようと思ったんだけど、まさか死ぬなんて思わなかったな。馬鹿みたいだ」

黒川の妹は他人事のようにそう言った。黒川、お前の妹死んじゃったのか。黒川は中学と高校の時に仲の良かった友達だった。高校を卒業して以来、ほとんど会っていないけど。黒川の家に遊びに行くとよく黒川の妹が兄に対してじゃれていた。兄妹にしては気持ちがわるいほどに仲が良かったように覚えている。そういう女が大人になると病むのかな、などと勝手なことも想像した。

「なぜ死んだのかは聞かないよ。ただ、まだこの世に未練があるのかだけ知りたいんだよね。私の役目はまだ未練がある人を連れていくというだけだから。別に無理に来いとも言わないよ。来たけりゃ来て。考える時間が必要なら待つけど、私もいつまでここに滞在できるのかもよく分かってないからね」

そう言うと黒川の妹は困ったように、そして若干、助けを求めるかのような顔でこちらを見上げた。やはり一般的には可愛いといわれる顔立ちだと思うが、友達の妹だと思うとやる気も失せるな、と思った。

「他に行くあても無いんで…」

という返事だった。私はこういう人間が嫌いだ。行くあても無いんで。だから、何?察して優しく連れていけよって感じ?自分で頼むのが嫌だから察してよってことなのか?甘えたやつだ。ずっとそうやって相手に察してもらって人生を送ってきたのだろう。だから、大人になっても能動的に自分から問題を解決しようともせず、相手に解決してもらおうと思う。そればかりか、いつしか上手く行かないのは相手のせいだと思い込む。完全に他人に依存してきたから、そもそも自分の頭と体をつかって行動するというオプションが存在しないのだ。

「じゃ、行くか」

面倒になった私は一瞥もくれず、黒川の妹が付いてきているかも確認しないまま猫の校舎に向かって歩き出した。道中はやはり無人で、何も会話がなかった。単純に私は腹が立っていて、今さっき死んだ人間に気を使った言動を心がけようという気持ちさえ失せていたのだ。黒川の妹もまた、話しかけられなければ自分でも何も話さなかった。

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こんなことを何度も繰り返すなら、車を用意したほうが良いなと思いつつ歩いたが、しかし「三途の川」で車が手に入るなら川を渡る六文銭も要らないような気もするな、と思った。そうやってとりあえずは夢の中…「三途の川」の中の校舎に戻った。

目覚めたとき、外はもう白み始めていた。ベッドの隣の床にはおそらく、初めて見るであろう猫が同じ制服を着て眠っていた。私が起きたのに気づいて半身を起こすと、まんまるな目で私を見つめた。その髪型、瞳はやはりどことなく、あの黒川の妹に似ていた。ただし、他の猫と混じってしまって、明日くらいになってしまうともう見分けが付かないかもしれない。

そうやって私の初仕事は終わった。不快感だけが残る仕事だった。

その後、同じようなことを何度か経験して確信したが、やはり私と繋がりのある人間と三途の川で出会うことが多いようだ。二、三回に一回は見たことがある人間だった。ただ、親しい人はほとんどおらず(これは単に確率の問題かも知れない)、はっきりと同一人物であると分からなかった人もいるが、しかしどこかで一度や二度会ったことのある人たちだった。

その程度の付き合いだったので、例え相手が死んでいようと特に辛い感情はなかった。しかしここで親しい人が出てきたら、そしてそれが続いたらキツいな、とは思った。

文子先生はそんな話は全然していなかった。あえてしなかったのか、隠していたのか、それとも私のときだけに特有の現象なのかは、もう文子先生は居ないので知りようもない。

子供の頃のにおい

「三途の川」にはもう10回ほど行っただろうか。すっかり手慣れてしまったし、最近は早く行きたいとすら思うようになった。変化が欲しかったのだった。

自我が希薄な猫達とはあまり高度は会話は出来なかったし、ただ彼女らが無邪気に裏庭で遊んでいるのなどをジジイになった気持ちで微笑ましく見つめていた。女子高生をじっと見つめる男なんか、世間的には許されなかっただろうな。ともかく、簡単に言うと飽きはじめていて、変化が欲しかった。

文子先生はおそらく、元々先生をしていたからだろう、その扱いも上手かった。猫達を集合させて整列させ、一緒に歌を歌ったりしていた。跳び箱や鉄棒を練習させることもあった。まさに学校といった感じだった。ただ私にはそういうことは出来ない。

私の方針は、本を読んだり絵を描いたり、荒れた部屋を片付けて改修したりということを思い思いにやって見せ、興味を持った猫達にそれを教えるという方法だった。特に校舎の中に荒れた部屋はたくさんあった。文子先生は掃除して綺麗にしたいが、重い木材やがらくたの類を持ち運びするのは難しく、綺麗にしたところで朽ち果てた部屋が残るだけなのでそのままにして居るということだった。

その点、私はある程度は日曜大工の経験もあるので少しずつではあるが作業を進められた。必要な資材は同じように朽ちた部屋から持ってくれば良い。すべての部屋を修繕することは出来ないが、二つの朽ちた部屋から一つの綺麗な部屋へ修繕することはできるということだな。

一方で魔法については皆目検討もつかなかった。例の、クライメットコントロールだか、あれを調整するのが精一杯だった。文子先生はいつか使えるようになると言っていた。

一番大事なのは、魔法がそこにあり、狙ったことが魔法によって可能になると信じること、だそうだ。出来ないと思ったり、魔法なんてありえないと思うと魔法は解けてしまう。だから、できるぞ、やるぞと信じることが大切、らしい。

では、そもそも魔法で構築されたこの校舎に疑いを持ったら、その時は校舎はどうなるのだろうか…。いや、このまま疑いを持って突然私もろとも消え去ったらそれは嫌だな、と考えないようにし、「今動いているのだから、余り触らないようにしよう」という方針で生活してきた。

それでも魔法の機嫌なのか調子なのか、時々あったはずの部屋が見当たらないと思ったら見知らぬドアが出現してそこに部屋が引越ししていることもあって、なんだか気まぐれな印象を受けた。

ある日。

校舎に猫が迷い込んできた。この「猫」というのは、学校にいる生徒たち、つまり制服を着て人間の姿をした猫達ではなくて、動物としての姿形をしてにゃあと鳴く、通常の猫だ。これは予兆であった。

何度も繰り返して手慣れてきたことで気づいたのだが、もうすぐ夢の中で三途の川に行くというときは、決まってこのように動物の猫が現れるのだ。しかし考えてみれば当然で、この学校は迷い猫や野良猫と人間の魂とをつなぐ空間なのだから、人間の魂を三途の川に迎えに行くが動物の猫は居ないということは有り得ないだろう。

だからそのときも、あと数日で三途の川の夢を見るだろうなと思っていた。が、その時はなかなかそれが訪れなかった。代わりに、違う夢を見た。昔の夢であった。

私は校舎の一室で折り鶴を折っている。同じように鶴を折っている生徒が4〜5人居た。折られた大量の鶴は半透明の袋に入れられて次工程に向かうことになっている。私は面倒くさいなと思いつつ作業をしているが、気分は悪くなかった。向かい側に座った女が喋っている。

「だから、先生きっと妊娠してるよね、お腹大きいもん」

「え、そうかな。あんまりでかく見えないな。というか、文子先生の年で子供ってできるの」

「何いってんの!失礼じゃん」

「本当に分かんないんだよ、そんな腹が大きいとか気づくのってやっぱり女だけだよな。男にはよく分からんし、そもそもそんなに詳しく先生を観察してない」

胸が締め付けられるほどに強烈な郷愁が襲ってくる。あの校舎、あの顔ぶれ。校門を通らずに裏から学校に入ってくる友達。それを教室から見て笑っていたあの空間。あの自転車。銀色の自転車。そこのカゴに入っていたバッグとオーディオプレーヤー。旧道を一人自転車で走っていた、あの空間…あの匂い…。

そこで目が覚める。この校舎に来てから、こんなに現実感のある夢を見るのは初めてのことだった。そしてそれは三晩に渡って続いた。

いつものように学校の教室でいつもの顔ぶれが並んでいて、プラスチック製の下敷きを団扇の代わりにしているのを先生が咎めていた。それが終わったら…いつものところで集まって…。

先生に向かって泣きながら反論している少女が居る。よく見たことのある顔だった。何故か一緒に行動することが多かったあの娘。折り鶴を折っていたときにも隣に居た。受験勉強をしていたときにも。カメラが好きだった。あの娘に写真を教えたのは私だった。部員が集まらず、廃部になりかけていた写真部に入ってきてくれたのは彼女だった。

「優秀賞、神室 結衣さん」

「はい」

拍手。

写真を初めたのは私よりもずっと後だったのに、賞をとったのは彼女のほうが先だった。同時に、私には大きな後悔があった。それに気づいたのは卒業した後だったが、後悔とは後から悔いるものだから、どうにもし難かったし、もう一度連絡を取るのが億劫になるほどには日常と世間に浸かってしまっていた。

夢から覚めるともうそこには誰も居ない。隔絶された空間に居るからではない。たとえ現実世界で、あのときの友達を連れて学校に行ったとしても、世間にまみれた大人が同じ気持ちを味わえるわけではない。

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私は顔を伏せ、手で覆い、まぶたを強く押して悶えた。どうにかしたい。目を開けたときにどうか違う世界であってほしい。何かをしたいけど何がしたいのか分からない。何かにまっすぐ取り組みたい。しかし、夢から覚めたら…いつものように星空に明るい景色が広がっていて…やがて…そのまま三途の川が始まった。

そこには私が使っていた銀色の自転車と、カゴの中には真新しいオーディオプレーヤーが入っていた。ボタンを押すと、長い待ち時間があって、昔聞いていた曲がイヤフォンから鳴り始めた。泣きたいような気分になりながら、嫌な予感を抑えて向かうべき場所に向かった。

一緒に待っていたバス停、古びたディーゼル車、後部座席。木の床の公共バス。それを通り過ぎたら白銀町。あの個人でやってる電器用品店に、学園祭で使うためのミニDVテープを買いに行った。27枚撮りISO400のフィルムも。

自転車と共に時は流れた。私は夢を見ていた。少女がカメラを手にして写真を撮っていた。賞も撮った。高校を卒業して、いつか東京に出ていって、社員寮に入ったのだった。先生に真っ向から涙を流して反論していた女は、そこの管理人のおばちゃんとも対立していた。いつどこにいっても、不条理があると対抗して一歩も引かない女だった。

その女は、いつしか出会った友達の友達の男と一緒に居ることが多くなり、それを恋と認識して、二人は結婚したのだった。

結婚しても女はカメラを手放すことはなく、昔はフォトコンでも賞を取ってたよ、と子供相手に話しかけ、スマートフォンで子供の寝顔を撮るのであった。それを幸せと認識した。

家族4人が手をつなぎ、駅から裏路地を回って、家に着いた。しかし、そこで一つの落とし物があることに気づいた。

私が急いだところで何も変わらなかった。しかし、息を切らして私は自転車を漕いだ。

君と手をとりあの満月は / はかなく、はかなく輝いて / 小さく私の中で消え去った /  今更になって後悔しても / 君といた星空は戻らない

陳腐な歌詞が耳元から脳に流れ込んできた。その陳腐な歌詞でさえ、私は心をえぐられて泣きそうになった。私の心は若く、先へ先へと急いだが、体がついていくことは出来なかった。私の心と身体は遊離し、細分化されて熱を持ったビームのようだった。

細い裏路地にある交差点で、呆然と立ち尽くしている。そばには原型を留めないほどに折れ曲がった自転車が転がっている。子供を載せるための座席が後ろに付いていた。

「神室さん」

綾瀬くん。何でここにいるの?

「呼ばれたから来たんだよ」

私が?呼んでないよ。早く家に帰って夕ごはんの支度をしなきゃ

「神室さん…。気づいてないかも知れないけど、死んじゃったんだよ」

綾瀬くん、もう私は神室じゃないんだよ。高尾結衣、になったんだよ。同窓会では会えなかったからね。まだ伝えてなかったよね。でもね、ごめん。今ちょっと急いでるんだ。また連絡取って、皆で集まろうよ

「神室さん」

神室じゃないってば。ちがう、違うのに。早く家に帰ってご飯を作らないと、みんな帰って来ちゃうよ。急ぎたいのに、自転車が壊れてるし、もう歩けない。どこにもいけない。子供たちにも会えない。何で?何も悪い事はしてこなかったよ。私がこうなるなんて思ってなかった。こうなるって知ってたら怒らなきゃよかったよ。ごめん、ごめんね。ごめんね。もうご飯作ってあげられない。卒園式も行けない。勉強もピアノも教えてあげられない。写真も撮ろうって約束してたのに、もうとれない。大きくなったらカメラをあげるって言ってたのに、それもできない。おおきくなって、ランドセルを買うこともできない。制服をかうことも出来ない。こんなはずじゃなかったのに、なんでわたしじゃなきゃだめだったの。

空がぐるんと周り、天の川が姿を消した。街も景色も色彩を失って暗くなった。それは通常の夜のようであった。街灯だけが神室さんを虚しく照らしていた。劇場のステージで絶望に打ちひしがれる女優のようであったが、恐ろしいことにそれは演技ではなかった。そこはただ一つの宇宙のようにも思えた。悲しみをまとった世界が沼にゆっくりと沈むかのように落ち込んでいく。この夜が明けることはないだろう。街灯には蛾の一匹も群がっては居なかった。子供の頃、お祭りの晩に焼き鳥を食べながら見上げた空とは何もかもが違うのだ。そこで膝を抱えて子供のように泣きわめく母親を見つめる傍観者が私だった。そこで唯一、他人と違って過去に好きだったという気持ちがあったとして、それに一体なんの意味があるだろうか。ただ一方的な感情が人を幸せにすることが果たしてあるだろうか。

耐え難い孤独を感じた。同じように涙を流せば気持ちは分かり合えるだろうかと思って、泣こうとした。子供を残して死んでしまった母親の気持ちを想像してみた。泣いたほうが世間体は良いのだろうかとも思った。私の大嫌いな世間のために泣こうとした。分かろうとした。だめであった。何も分からなかった。涙は流れなかった。泣こうと思っても泣けなかった。私には人の気持ちは分からない。私は世間を捨てた人間であるから。最後まで私は凡人であった。

突如、世界が草木に包まれた。山は青く、桜は咲き、散った。交差点は元の記憶を辿るかのように里山へと移り変わり、アスファルトは砕け散った。私は神室さんの手を握り、歩いた。降るような星が流れ、星空に濡れた草むらをかき分けて進んだ。草木の水滴一つ一つに世界があるのが分かった。一歩進む度に思い出があふれた。思い出は一瞬光り輝いてすぐに消えた。まるで花火のようで、世間は闇であった。

もう歩けないという神室さんの手を引き、河原までやってきた。河川敷の階段に座った。

月がぐるぐると回っていた。何度も何度も地球の周りを周り、一年が一分ででやってきた。私たちはその世界の終わりのような光景を眺めていた。月明かりに照らされた川の流れのなかで、鮎が跳ねた。私は宇宙に打ちのめされ、気を失いそうだった。

「綾瀬くんは何でここに居るの?綾瀬くんも死んじゃったの」

何でこんな世界でそんな尋常の質問ができるんだろうか。神室結衣は強い女だな。昔からそうだったよ、先生に詰めてかかって…

「いや、違うんだ。俺は…。昔…。いや、死んじゃっているのかもな。自分でも良くわからない」

酔っ払ったかのような酩酊感があり、目の前に半透膜の薄皮が張ったようで現実感がなかった。私は、ちゃんと質問に答えられているだろうか質問に答えることに意味があるだろうかそれが神室さんの役に立っているだろうか。

「とりあえず、何年か前からこうやって、死んだ人を迎えに来てるんだ。でも、まさか神室さんがくると思わなかったよ」

「神室って呼ばれるの、久しぶりだな。懐かしい」

…。こんなところで会いたくなかったよ。結婚してたんだな。そりゃそうだよな、昔は可愛かったからな。いや、昔は余計だったな。かける言葉が見つからない。私には何も言えない。言えることが無い…。このまますぐに家に帰って、夕飯を作りながら家族の帰りを待つはずだった人に何が言えるだろう。失ってそれがいかに贅沢で幸せであったかに人は気づく。魔法が本当にあるならば、もう一度チャンスをあげることができればよかったのに。

でも。私は役目を果たさなければならなかった。

「神室さん、俺の役目は。死んじゃったけどまだあの世には行きたくない人を、待合室みたいなところに連れて行くことなんだ」

「待合室…」

「そう、待合室。学校みたいなところだよ。変な話だけど、猫と人間の魂が一緒になって暮らしてる学校なんだ。みんな毎日、絵を描いたり走り回ったりして遊んでる」

「猫の学校。なにそれ」


「…全然想像が付かないけど、ゆるい場所なんだろうなっていうのはわかるよ」

「そう、思い思いのことをして過ごしてる」

「行ってみたい気もするけど…もしそこに行かなかったらどうすればいいのかな」

「ごめん、それは俺には分からない。どこに行けばいいのかわからない人たちにしか会わなかったから」

「…いまは一人でいたくない。綾瀬くんが居るなら、私も行ってみても良いかな。そこに行ったら、もうこの世界には戻れないの?」

「おそらくは」

「なら、最後に家族に別れを言いたいんだけど良いかな」

ぐっと心臓が掴まれるような感覚があった。その光景は見たくない。見たくないけれど、嫌だとは言えない。拒否できない。その光景を見たら私は未来永劫それを忘れることはないだろう。事ある度にそれを思い出して苦しくなるだろう。私が苦しむのと、この母親が家族にさよならをすることと、どっちが重いんだろう。天秤にかけたとき、私の気持ちのほうが重かったら、拒否してもいいかな。そう考える私は性格が悪いだろうか。

…いや、それを含めて私の役目なんだろうな。仕方ないな。今まで逃げてきた分、我侭にも対応してあげなきゃ。サービス残業だ。

「どこに行っても良いけど、おそらく誰にも会えないと思う。家族にもきっと会えないよ。今までがそうだった。でも、家に帰ってみてそれで気持ちの整理がつくならば」

神室さんは頷いた。

いつだったか、何年か前にゲロまみれになった黒川の妹を連れたときと同じように、線路の上を歩いて神室さんの家に向かった。大きなマンションだった。

エレベータで五階へと上がり、角の部屋の扉をあける。そう、家族が居るわけない、誰も居ない、ただ生活感のある空間が無造作に広がってるだけなんだ…。私はそう言い聞かせた。

しかし開けた所は思いもよらない空間だった。そこは葬儀場であった。俯いて遺影を抱える髭面の父親に、娘と息子が裾を引っ張りぶら下がっている。見てはいけないものを見ているが、しかし目をそらすことができなかった。

神室さんの姿は無かった。自分自身の体も見えなかった。空間に視点だけが存在していて、幽霊になったとはこんな気持ちなのだと思った。そう思うことによって目の前の光景から気持ちをそらそうとした。

父親を引っ張って揺らす娘が叫ぶ。もはや叫ぶという生易しいものではない。絶叫だった。その声は聞きたくない…聞きたくないんだ。しかしそれを止める術がない。

「ママを焼かないで。熱いよ。熱い熱いって泣いちゃうよ。可哀想だからやめて…。パパお願いだからやめて…。ママと一緒に帰ろう」

女児は泣いていた。男児は泣くのをこらえているように見えた。

まぶたを閉じた。耳を塞いだ。だめだった。まぶたを閉じてもその光景が頭に流れ込んでくる。

「やめて、やめて」

やめて、やめて。私もそんな気持ちになっていた。

母親を炎から守るために叫び、暴れる女児を、親族だろうか、別の若い母親が連れていった。どあを閉めた後も絶叫が聞こえる。残された男児と父親がスイッチを入れると、火が灯った。

「すみませんが、終わるまで家族だけにしてもらえますか」

髭面の父親が絞り出すような泣き声を出すと、黒い服を来た連中が控室へと吸い込まれて、男児と父親だけが残った。男児は目を何度もこすりながら、父親に言われ、扉の前に備えられたコップの水を何度も何度も取り替えていた。父親も何度も何度も、そのようにした。その地方のひとつの儀式であった。火葬中の母親の喉が乾かないように、何度も何度も水を替えた。

そうしている間にも控室へ連れられて行った女児は泣き喚いて、最後には泣きつかれて眠ってしまった。眠っている間も、何度か飛び起きてその都度大声で泣き、また眠ってしまった。

夢の中で、ママがさよならを言う夢を何度も見た。そして、そのさよならは夢ではなかったのだった。女児はほんの少しではあるが生と死の狭間の世界で、自らの母親と触れ合っていたのだった。

気づくと私はドアノブに手をかけたまま硬直していた。目の前には雑然とした散らかった部屋が現れた。

足音が立つわけでもないが、慎重にゆっくりと部屋の中に入っていった。

キッチンには大鍋にカレーがこびりついたままになっていて、床には脱ぎ散らかした服があった。コルクボードに貼った写真の半分には母親が写っているが、後の半分は父親だけが写っていた。父親も子供も、笑顔であった。写真に写っている子供はほんの少し、身長が伸びたように見えた。

風呂場からは、父親の声と、二人の子供の笑い声が聞こえた。居間は薄暗く、風呂場を照らす黄色い光だけが漏れていた。そうやって、遊び疲れて今日も同じように同じ布団に入り、眠りにつくのだろう。まだ起きていたい、明日にならないで欲しい。そう思いながら、眠りにつく。

そして、いつの日かきっと母親の事を思い出し、また泣いてしまうんだろう。でもそのときにはもう、大人になっているはずだ。

「神室さん、もういいかな」

神室さんは声を押し殺して泣いたまま、頷いた。そして、絞り出すような声で言った。

「分かったから」

「私が居なくても、みんなまた笑えるようになったんだな、って」

私はまた考えてしまいそうになるのをこらえた。そうだ、こんなことは現代社会では毎日のように起きていることなんだ。特別なことじゃないんだ。知らないだけで、普通のことなんだ。ニュースで交通事故が報じられる度に…そうでなくても、病院でも同じようなことが…。この世に何億人も人間が居て、毎日毎日、こんなことが起きていて、その人たちそれぞれに神室さんと同じような人生があって、生きてきた記憶、残してきた思い出や形があって、そう考えると、気が狂いそうになる。そして思い出した私が世間と隔絶して生きてきたのは世間の悲しみに耐えられないからだった。


目が覚めると私は涙を流していた。何かが悲しかったのだが、おそらくその感情すら数分のうちには失せてしまうだろう。外はもう明るかった。

ベッドの横の床には、昔、先生のお腹大きいよね、と言った女の子がいた。あのときの姿、あのときの若さのまま、同じ制服を着て眠っていた。目を覚ました神室さんはこちらを不思議そうに見つめていた。その顔は、私が好きだったあのときの神室さんそのものだった。

「神室さん」

そう呼びかけると、神室さんは何かを思い出したかのように、突然、涙をぼろぼろとこぼし、えーん、えーん、わーんわーんとまるで子供のように泣いた。その声がまるであの女児と同じようで辛かった。

おそらく神室さんは愛娘の悲しみまで連れてきてしまったんだろう。だから、子供たちは母親を失った悲しみを乗り越えられたんだ。あのとき、母親は愛する子供たちのために自らの心を犠牲にしたのだとわかった。その悲しみすら、きっと、家族だったら堪えられたのに。

ふと神室さんを抱きしめたい欲求に駆られた。けれども、とどまった。私が彼女に何をしてあげられるのだろう。

そして時が逆行した神室さんは若く、私は年をとっていた。私はどうしたいのだろうか。家族を失った美しい少女をその悲しみに付け込んで我がものとしたい?それとも、その奥に潜んでいるだろう、大人になった神室さんを抱きしめたい?あんな光景を見たあとで?ちょっとお前頭おかしいんじゃないかな、と思う自分自身がいた。

しかし、一番の理由は先生と生徒だから思いとどまったのだった。そういう理の世界で、我々は過ごしていた。

魔法の世界であっても、人々の立場や感情は遮ることができなかった。それが人として死んだ後もなお残る仕組みだったんだ。そのような雑な仕事をした、初代の先生を私は恨んだ。

永遠の果て

もう何度目かも分からない冬を迎えた。猫達は相変わらずだった。いつまでも平和な空間が続いていた。それは時空が宇宙の始まりから連続して続いているのと同じ仕組みに思えた。ただ、たった一つ異なるのは私の気持ちだった。連続して流れる時空の中にぽつんとアンカーをおろした船のように取り残されていた。私はあの光景を絶対に忘れることは出来ないだろう。

私は毎日のように神室さんに話しかける。内容はとりとめのないことだ。どの部屋が壊れているから直さないといけないとか、こないだ読んだ本にはこういうことが書かれていたとか、私がまだ世間で仕事をしていた頃にはどんなことがあったとか。意図的に、二人の共通の思い出は語らないようにしていた。

神室さんは私の話を、うんうんと頷きながら聞く。その顔は必ず外を見つめていた。私は不安になって顔を覗き込み、目が合うと神室さんは思い出したように優しく、しかし少し悲しそうに微笑む。その面影は大人の神室さんと似ていた。子供たちに話しかけられて微笑む、疲れ切った母親といったような。その表情を毎日見るのが辛かった。

神室さんは他の猫たちとはちがって、もう少し人間らしかった。走り回るのを嫌がり、日陰から日向を眺めるのを好んだ。裏庭の石を崩れないように高く積むような遊びをするのも他の猫はやらないことだった。しかし、三途の川と猫の校舎を行き来する私としては、正直なところ石を積むという行為がすこし不気味にも思えた。

年々、校舎は寒くなっていった。魔法によるクライメットコントロールとやらも限界が近いのかも知れない。最近はそれぞれの部屋に豆炭のこたつや薪ストーブを設置した。猫達にも薪ストーブの扱いを教えてあげると、薪を放り投げて押し込み火の粉が散るのは危なっかしいが、一応は使えるようになっていた。

ストーブの上で湯を沸かし、牛乳瓶を入れて温めて飲んだ。猫達も牛乳は好きだった。窓から降り積もる雪を長め、こたつに入りながら本を読み漁った。外はつららが伸び、透明感のあるモノクロの世界が広がっている。澄んだ空気があたりをただよい、肺を満たし、薪を燃え上がらせていた。晴れた日には外套を着込んで校庭に出て校舎を見ることもあった。高い青空に向かって、いくつもの煙突から煙が一直線に登っていた。猫達の笑い声と雪を踏みしめる音以外、なにも聞こえなかった。

あれから何度も季節が移り変わり、その度に何人もの猫が自然と校門から卒業していっては、新しい猫が迷い込んできた。何度も何度も入れ替わっても、神室さんは同じように部屋の隅にいて、窓から外を悲しそうに眺めているだけだった。

緩やかに世界が死んでいくかのようだった。私の命も、神室さんの意識も、雪解けに合わせて消えていくのではないかと思った。それでも、消えることなくまた春が訪れるだけだった。

私は密かに、次の先生がやってくるのを心待ちにするようになった。

もう疲れた。何度も何度も人の死を見てきた。その都度いろんなことを思い出した。神室さんの顔を見る度、その記憶が呼び起こされるような気がして辛かったのだった。

あの、全てを達観した上で飲み込むような悲しい笑顔が。

消え行く校舎

皆で卒業しようと思う。それが結論だった。

それは先生である私にしか言えないことだった。私が決断しないといけなかった。

長年待ったが、後継者は結局現れなかったのだった。なぜかはわからないが、魔法の力が弱っていることから察するに、人々が夢を見なくなったからかもしれないと思った。

そして、文子先生の友達、この校舎の初代の先生が本当はどんな意図でここを作ったのかも永遠の謎だった。

もし人間の命に輪廻転生というものであったり、あの世だったり天国みたいなものが関わっていたとするならば、その仕組みを人間の思いつきで引っかきまわし、いたずらに魂を留めておく行為が良いとも思えなかったのだ。

迷い猫は死に、未練を持った霊魂は狭間の世界を漂い続ける。その不幸な光景こそが自然の世界であって、それに人間が可哀想だからと手をかけてしまうこと自体がおこがましいんじゃないか。そう思うようになった。

ただ辛かったのは、自分の意志ではなく、まだここにとどまりたいと思う猫達を強制的に追い出してしまうようなその行為であった。はしごを差し伸べておいて、途中でそれを外すかの行為に思えた。

そもそも卒業して校門から出ていった猫達がその後どうなるのかというのも、依然として謎であった。おそらく、卒業とは仏教で言う成仏するみたいなことなんだろうと思う。気持ちの整理がついて、本来行くべきだったところに行くのだろう。もちろん、それが願望じみた考えだったというのも承知している。校門を出た瞬間に無の世界に回帰するのかも知れなかった。ただ、それが万人にとって不幸な結末とも思えないが。

つまり、私は皆を卒業させたいが、その卒業という行為が何なのかは私も分からないままそれを行おうとしているということが躊躇させていた。しかし、何度考えてもそうするしかないという結論に至った。ここに居る限り、進展はないからだ。

一番不安なのは神室さんだった。神室さんは既に猫達の中で一番の古顔となっていた。何人もの猫が卒業を迎えても、神室さんだけはここに残った。何年も何年も。相応の理由があって残っているのに違いない。だから、皆に卒業と話す前に神室さんにはそれを伝えようと思っていた。

その日、神室さんは中庭の椅子に座って空を眺めていた。白い肌が透き通っていて、時間が経つに連れますます美しくなっていくように思える。それを眺める私は、何だか自分が罪深いように感じた。

意を決して近づく私を見つけた神室さんは、またいつもの笑顔を見せた。心が見透かされているかのようだった。風が吹き込んで、枯れ葉を巻き上げて去っていく。

私は話を切り出すのが苦手だった。得意だったらこんな人生を送っていない。あの世間にまみれてツーブロックの髪型の優秀な営業マンとして生を謳歌していただろうと思う。

どう切り出したら良いものかと悩み、とりあえず鶴を折ってみようと、折り紙を持ってきていた。計画通りそれを取り出した。折り紙をもつ私は、きっと、馬鹿のような顔をしていたと思う。

遠くでは他の猫たちが遊んでいる声が聞こえた。いつもの通り、お互いを追いかけ回して走り回っているのだろう。心地よい声であった。

私は重々しく袋から折り紙を取り出し、青いやつを私の前に、赤いやつを神室さんの前に差し出した。いつだったか、世界が闇に包まれ、星空が流れたように、私の心が少しだけ洗われていくのを感じた。単純作業は一時的に苦痛を忘れさせてくれる。

三角を二つ折って、ここが難しいんだよねと折った三角を開いて畳むところを見せた。神室さんは下手だった。ちっとも角と角を合わせて折ることが出来ず、思わず笑ってしまった。

あのとき、千羽鶴を二つも三つも折った。つまり、何千個もの折り鶴を皆で折ったのに、それすら忘れてしまったのだろう。

「あのときの千羽鶴は、何だったかな。被災地の学校を元気づけるためとかいう名目だったよね」

「ふうん」

神室さんは会話よりも鶴に興味があるようで、私が折った鶴と自分が折った鶴の違いを見比べていた。

「いろんなことがあったな。自転車とオーディオプレーヤとカメラしか無かったけれど、それだけで楽しかった。あのバスあっただろう。床が木になってるやつ。あれ、小田急のバスとカラーリングが一緒だったんだ。東京に来てびっくりしたよ」

「うん」

「写真を撮っておけばよかったな。もうあのバスは走ってないから」

「うんうん」

「もう少し早く来れば、文子先生にも会えたかもしれないな。いや、それは可哀想か。早く死ねばいいって言ってるのと同じだからな」

「そうだね。」

「文子先生、何も変わってなかったよ。昔のままだった。子供を産んで…」

「産んで?」

一旦思考が停止する。空気が目の間にあるのを再確認して、その中の言葉を探した。

「…その後で、交通事故で家族を亡くしたんだ」

「ふうん」

「文子先生、悲しかっただろうな」

「そういう話を家族を残して死んだ私の目の前でするんだね、綾瀬くん。文子先生は年取ってるから妊娠しないだなんて無神経な事を言える人はやっぱり違うね。」

そう言った神室さんの手のひらには、私が折った鶴よりもずっと綺麗な鶴が載っていた。

「今日は、気分が良いの。普段話せなかったことも話せる気がする」

その顔は生気が戻ったかのように人間らしかった。

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「喋れたのか。ずるいな」

「ずるいんじゃなくて、単に忘れてたの。今日だけだよ、きっと。明日にはまた、自分が高尾結衣だったってことも忘れてると思う」

「そうか、そうだったな。君はもう神室じゃなかった」

「うん、そうだよ。そして君が卒業させたがってることも知ってる」

「何で」

「独り言でいつも言ってたよ」

「ええええ?俺、言ってたかなぁ。独り言。」

「言ってたよ。」

神室さんは笑った。それは、いつものような悲しい顔ではなかった。私は久しぶりに、世間と真面目に対面して付き合った気がした。

「卒業、良いんじゃない。私もそれが良いと思う。私、生まれ変わってもう一度、旦那さんと子供たちに会うよ。生まれ変わってまた旦那さんと結婚して、子供たちを産む。そして今度こそ、幸せに暮らすんだ。次なら、なんとなくできる気がする。子供たちにどうしても会いたいよ。その気持ちだけは忘れることが出来なかった」

「そうか、そう思えるようになったんだな。それなら良かった」

「綾瀬くんにも…。死んじゃってからもずっとそばに居てくれてありがとう」

私は固まった。固まった周りで水仙が咲いた。

「綾瀬くんには悪いけど…。いや、そういうのは自意識過剰かな。…やっぱり、いいや。やめとく」

「言いかけて止めるなよ」

「ごめん。――――来世の、そのまた来世がもしあったら、そのときにまだ綾瀬くんが私のことを覚えていてくれたらいいなって、少し思っただけ」

その言葉に安心する自分が女々しいと思った。世間と決別するなどと嘯いていた割には、何も決別することが出来ないばかりか、ずぶずぶと依存していたのをまざまざと見せつけられたのだった。結局全てを神室さんに言わせてしまったのだった。

人生を生きるにつれ世間を知るにつれ、私の心はどんどん弱くなった。その果てがこれだ。学生時代の記憶にも決別出来ずにいる。

案の定、綺麗な折り鶴ひとつを残して、神室さんはまたいつもの猫に戻ってしまった。その折り鶴は自室のベッドの脇に置いてある。私はこう見えてロマンチストだからな。

私はもう一度私の人生を最初から生きてみようと思う。その先に神室さんや出会った猫たちが待っているかどうかは関係ない。人生はめぐり合わせだから。

桜の蕾が膨らんだ頃に、猫達に卒業のことを伝えた。

卒業したら、死んじゃうの?卒業した後に、皆はまた会える?もうここには戻ってこれないの?猫達は珍しく不安そうな声で聞いてくる。

死ぬのかどうか、それは分からない。天国があるかもわからない。来世があるかもわからない。

でも、先生はこう思うんだ。みんなが残した記憶はゆらぎをもって、未来のどこかにきっと、結節点のようなものを作ると思う。周波数の違う波がかさなって唸りが起きるみたいにね。だから、きっとみんなが揃って幸せに笑える時が訪れると信じている。先生は何度生まれ変わっても皆と会って話をしたいよ。だから生まれ変わっても覚えていてくれると嬉しい。いつか遠い未来で、ここに居る皆、卒業していった猫、みんなといっしょにである日が必ず来るって信じてるんだ。これは願望でも宗教じみた話でもない。純粋に科学的に、数学的に、そういうことが起きうるって信じてるんだ。起きる可能性があって、時間が無限ならば、それは再び起きるってことなんだ。

そう伝えた。

猫達は言ったことを分かっているのか分かっていないのか、話が終わるといつものように思い思いの方向に散っていった。散っていく猫の中に神室さんの姿もあった。

桜が満開になったところで卒業式を初めた。

卒業の校歌を歌い終わって、皆が思い思いに友達と抱き合ったり、手を握ったりした。皆が笑顔でさようならをした。そう言えば、私が来てから皆で歌ったのはこれが最初で最後だったな。皆が一度も歌ったことも無いのに完璧に歌い切れたのは、これも魔法の効果なんだろうか。文子先生みたいに、もっと真面目に授業らしいことをしていればよかったと思った。とても上手な歌だった。

玄関で手製の卒業証書を一人ひとりに手渡した。形だけでも、そうした方が雰囲気が出るし、私の気持ちにも区切りがつくとおもったのだった。

先生、ありがとう、ありがとうと笑顔で過ぎ去っていく生徒を横目に見ながら、私は涙が止まらなかった。ありがとう、本当にありがとう。一人ずつと握手をして、校門の外の木漏れ日に向かって歩いていくのを見送った。

元気でね。

またね。

また遊ぼうね。

友達でいようね。

夏休みを迎える前のように明るく猫達は旅立っていった。

神室さんは列の一番後ろに残っていた。この日、涙を流していたのは私と神室さんだけだった。私は涙を抑えることが出来なかった。なんで泣いてるのかもわからない。ただ単に卒業という雰囲気がそうさせているのかも知れない。でも、私の我侭な世界にこんなにも長い間付き合ってくれて、みんな、ありがとう。

「先生、行こう」

神室さんが手を引っ張る。冷たくて、細い指だった。

「信じていれば魔法は解けない」いつか、文子先生がそんなことを言っていた。私は神室さんと校門を抜け、校舎を後にした。草花が風に揺れて木々からは新緑が。

お気に入りの散歩道。白い坂、白い校舎、木漏れ日と陽の光を反射する河原の水面…。すべてが決別したときのままだった。

おわり

その日、旧校舎の取り壊し工事にあたって体育館の一つの壁を取り壊したところ、おびただしい数の猫の死骸が発見された。初めに気づいたのは重機を操作していた作業員であった。死後、まだ時間も経っておらず、腐敗はなかった。野良猫のすみかになっていたと思われるが、縄張り意識の強い猫がなぜ一箇所に集まっていたのかは謎であった。

通常の廃棄物と同じように焼却処理すべきで特別な対応は必要ないとか、いいや感染症の疑いが濃厚だから保健所に連絡すべきであるとか、しかし工程が詰まっているとか、一通りのやり取りがあった。そのあと、たまたま居合わせた用地課の職員が敷地内の一角に埋葬しようと提案し、同意を得た。

重機で掘った穴に猫達は埋葬された。埋葬の際は1匹ずつ、丁寧に人の手で並べられた。若い作業員の一人が進んでそれをしたのだった。

埋めるとき、敷地境界を示すのに使用する小さなコンクリート柱が墓標の代わりに立てられた。言わば秘密裏のうちに行われた作業であるが、墓標を立てて記憶を残してしまう行為に異を唱える人間は誰も居なかった。

新しい校舎が建った後もその墓標は残ったままで、東京都下のとある校庭にまだ存在している。それが何なのかを知っていた人たちも、何年かしてやがてその記憶を忘れ去った。こうして魔法は解け、猫の校舎は夢から覚めた。

補足

これは筆者が2019年9月26日の朝に見た夢を脚色し、小説にしたものである。

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