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メイクで繋がる女性の在り方の歴史

もしも最初から女性社会だったとしたら
または男女という比較社会じゃなかったとしたら
美容、特にメイクアップというカテゴリーは存在したのだろうか?

と、ふと今朝思った。

今となっては、自己表現、とか美しくなるための道具だと思うけれど、メイクって、仮面となったり武装にもなるとも思う。

男性に選ばれる必要があってすること、だったり
自分の感情を隠すものだったり
自分をまもるために生まれたものなんじゃないかって。

女性は自己防衛本能が特に強いと思う。
自分の体調を予測したり、供えたり
男性よりも強く危機感を持っていると感じる。

例えば、血糖値管理のための甘いもの、とかもそうだし
冷えないためのレッグウォーマーとか
健康グッズが発展したのは、ビジネス的には男性の力が大きいと思うけれど、根底にあるニーズとして女性の力が強い気がする。

必要以上に心配するのは、子供を産み育てるからこその本能の一つでもあるだろうし、たとえ子供がいなくても、肉体的に弱者になりがちな女性は常に自分を守るという本能が強い。

よく精神的男性異常者が狙うのは、女性や子供や動物、というけれど、それは弱者を狙っているからで、誰でもいいわけじゃない。つまり負けないであろう相手、自分が優位に立てる相手を選んでいる。それくらい力の差はある中で、弱者カテゴリーとなる存在の私たちは、私たちなりの闘い方を身につけてきたのではないだろうか、とメイクで感じたりする。


見た目の印象で、人からの扱われ方って、すごく変わる。
本当の姿を見せることの重要さを説きながらも、実際綺麗で優秀な人の方が皆好きだし、丁寧に扱おうとする。

それを戦略的に行う人もいれば、ナチュラルに行なっている人もいて、この人間社会で生きていくための知恵、とも言える。でもこれはあくまでも男性社会と言われる価値観での話。

例えば、天照大神が崇められていた頃からとか、例えば、縄文や弥生時代の頃から、物質的な力や権力、差別、所有欲ではなくて、シェアする世界から始まっていたら。女性に力があり、男性とバランスよく生きていける時代だったとしたら。男性が狩りをして、女性が家を守るのではなく、男女共に能力次第だったとしたら。平安時代に着物を着ることもなく、女性も男性も顔を見せ合えていたとしたら。光源氏物語は生まれていないだろうし、何層も顔を見るためのお部屋にもなっていないはず。そして自由に社会的同等な力を持っていたら、何が優劣の価値観になっていたんだろう?着飾ることは楽しいことではあるけれど、それがないと見てもらえない世界じゃなかったとしたら、メイクは存在したのだろうか?


舞台などでのメイクだと、そこは異世界で、幻想を見る世界を作っているからこそのメイクだろうし、お能であればお面にもなる。当時は男性しか立てない芸能だったからこそなのかもしれないけれど、基本的にメイクやお面(仮面)って、自分以外の何かになるためのものなのかもしれない。


実社会でも、自分のアイデンティティを表現するためのメイクをする人もいれば、自分の顔を好きになれなくてしている人もいて、メイク一つでも、意味が多種多様になっている。


ただ、そもそもの価値観を疑うことをしてみてもいいのではないか、とふと思い、そしてそれは女性の在り方の歴史なのではないか、と感じたのです。


疲れている時、落ち込んでいる時、メイクをすることで元気になれることがある。まだ頑張れる、と魂を入れるようにメイクをすることだってある。
可愛い綺麗な自分を見ると自信がついて、表に出たり、人と関わりたくなる心も生まれる。
心を彩り、サプリメントのような元気にしてくれるツールにもなっている。リアルな状態がベスト、と言っているわけじゃなくて、男性や社会に認められるためのものだけじゃなくて、自分自身のためにやっているものでもある。


現代社会に生きているからこそ、それが思えているのかもしれないけれど、でも、ここまでの歴史がその価値観まで成長した、とも言えるのかもしれない。そしてこれからは男性もメイクをする。ここからどんなメイクの歴史が始まるのだろうと思うのです。



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