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私の好きな「渋沢栄一」のエピソード、ベスト3

フォレスト出版の石黒です。
『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』(齋藤孝・著)を企画・編集するまで、実は渋沢栄一のことを私はほとんど知りませんでした。歴史教科書での扱いも小さいですよね。

●渋沢栄一の教えは「当たり前」か?

最初に渋沢栄一に興味を持ったのが、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団した大阪桐蔭(当時)の根尾選手の愛読書が渋沢栄一『論語と算盤』だという報道を見たときでした。
試しに買って、読んでみました。
「うーん、まあ、普通?」「これを素直に受け止めるって、根尾選手は素直だな」というのが率直な感想。

「お金を稼ぐこともいいけど、ちゃんと社会に還元しようね」
「女性にも教育が必要だよ」
「会社にも仁義道徳が必要なんだよ」...etc.

間違ったことは言っていなし、正論だけど、現代から見たら当たり前のことを言っているよね、と受け取ったわけです。
もちろん、それが古典の読み方として間違っているということは自分でも承知していました。そうした正論を素直に受け取り、腹落ちさせるには、読者は古典が書かれた時代背景や、著者の人生を知る必要があります。
そこで、『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』では、(1)栄一の人生、(2)不朽の名作『論語と算盤』、(3)栄一の関連人物、という3つの角度から栄一の教えを掘り下げたわけなのですが、編集するにあたり、さまざまな資料を読み込んだり、齋藤孝先生のお話を聞いてビックリ。
「こんなスゴイ人だったのか」「この人が言っているんだから、そりゃそうだ」と完全に納得しました。
人物の評伝を読んで涙した経験は、渋沢栄一がはじめてでした。再度読んだ『論語の算盤』の説得力は10倍増しです。
そんな栄一の心に残ったエピソードを、独断と私見に基づいてベスト3を紹介します。これらは栄一が主人公の来年の大河ドラマ『晴天を衝け』でも、きっと描かれるはずです


●第3位 転向に次ぐ転向、だがそれがいい

渋沢栄一は時代に翻弄されまくりました。激しすぎるので、ドラマのネタには困らないはずです。たとえば、次のような変遷をたどります。


農民でありながら武士を志す
   ↓
倒幕の志士としてテロを計画、そして失敗
   ↓
幕府に近い一橋家(慶喜)の家来に
   ↓
慶喜が将軍になったことで幕臣に
   ↓
渡仏の間に徳川幕府消滅
   ↓
大隈重信に誘われて明治政府の官僚に
   ↓
官僚を辞めて実業家に

倒幕を計画をしていたのに、いつの間にか幕臣に、さらにその後は幕府を倒した明治政府の官僚になるという、凄まじい変わり身。年譜だけを追えば無節操な日和見主義者にしか見えません。志もクソもあったもんじゃない、と。
しかし、立場を変えようとも、栄一には絶対に変わることのない信念がありました。それは、「日本のために尽くす」ということ。その業績を追えば、誰もが納得することでしょう。政界渡り鳥などと揶揄される現代の政治家とは一線を画しているのです。


●第2位 岩崎弥太郎との屋形船会合事件

坂本龍馬の盟友であり、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎と渋沢栄一はほぼ同時代を生きました。その2人のやりとりは、歴史好きな人にとっては胸熱なはず。
当時、日本の実業界を席巻していた弥太郎は、実業家として頭角を現していた栄一を屋形船の宴席に誘います。その目的を端的にいえば、「弥太郎と栄一で強者連合を組んで、日本の実業界を牛耳ろう」というものでした。

要するに2人で富を独占しようじゃないかという話です。これは栄一の考えと正反対の考え方です。栄一がいろいろな会社を興すのは日本の経済界を発展させ、国を富ませ、同時に多くの人に富が行き渡るようにするためでした。岩崎の考え方とはまったく異なります。
2人はお互いに主張を譲らず、激しい言い合いになり、栄一は腹を立ててその場を立ち去ったといいます。栄一の「道徳経済合一論」という信念はまったく揺るぎませんでした。
しかし、そうした提案に対し、栄一は毅然と拒否します。
――『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』より

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この結果、弥太郎と栄一は激しく対立することになるのですが、その結末は果たして……?
のちに栄一が語ったという次の言葉が、それを象徴しています。

「私が自分の富だけ築こうとしたら、三井にも岩崎にも負けなかったはず。これは負け惜しみじゃないよ」

●第1位 養育院の設立と運営

養育院とは、東京の生活困窮者、孤児、障害者などを保護する施設です。渋沢栄一は養育院の院長を、91歳の天寿を全うするまで約50年間も努めます。養育院は、現在は東京都健康長寿医療センターに業態を変えて残っています。

この仕事は、栄一の業績のなかでも最も評価されるべきことの1つではないかと思います。実業家は慈善事業をすべきだという考え方をもち、それを自ら実践したのです。
――『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』より

実業家として数々の偉大な功績を残している栄一ですが、齋藤孝先生はその中でも「最も評価されるべきこと」として慈善事業をあげました。
当時は「慈善事業は利益はなく、怠け者を生み出すだけで害にしかならない」などの意見で廃止の危機もあったそうです。
そんな考えが当たり前だった100年以上も前に、実業家として弱者に手を差し伸べた栄一は本当にすごい。
「慈善事業は害にしかならない」というのは、極論に聞こえるかもしれませんが、「自分だけが儲かればいい」「貧乏は自己責任」「勝ち組になる」「生活保護は甘え」などというネオリベ思想として形を変えて今も残っていると私は感じます。ぜひ、現代の大実業家の方に、栄一のような活動を期待したいところです。

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栄一は病床にふせってもなお、「少年少女たちの将来の福祉を頼んだよ」と、養育院の子どもたちを気にかけていたそうです。
最期まで他人のことを心配するなんて、なんという優しい人!
私は栄一が亡くなってから書かれた、養育院の子どもたちの作文を読んで、思わず目に涙が溢れました。本当に親身になって面倒を見ていたことが伝わってくるのです。

「私たとは院長さんのために偉くなり、どうかしてご恩を返したいといつもいつも思っていました。私どもはどんなに悲しいかわかりません」
「院長さんは日本国民のお手本だということです」
「ぼくは本当に偉い院長さんがなくなられましたので悲しいです。ぼくは大きくなって奉公に行っても院長さんのご恩を忘れません」
――守屋淳編訳『現代語訳 渋沢栄一自伝』(平凡社新書)から表記を変更した上で一部抜粋



完全に私の個人的なランキングなので、当然のこと、人によって感動ポイントは違うはず。ぜひ、『図解 渋沢栄一と「論語と算盤」』の中から、あなたの胸を揺さぶるエピソードを探してみてください。





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