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気楽さ、活き活きさ、多様性、ありのまま、そして勇気づけ

“家庭には介入しない方針なんだよね?!”
そうそう、おおかたその通りなんですが、全体を言い得てもいない感じがあります・・・

いくつかのモデルを参考に

この活動をするにあたって、いくつかモデルになっている場があったりしますが、それらを足して二で割ったとでもいうのか、私たちはこの辺りでいきたい、という方針がありました。

それが、「家庭には介入しない」です。

でもどうもこの表現がしっくりきていません。
肯定的な表現にしたらいいのか?
一言で言い表しきれないだけなのか・・・?

気楽さを大切にしたい

家庭にはそれぞれに、いろんなスタイルや信念・信条があったり、
さまざまなタイミングやライフサイクルがあるものだと思います。
介護の必要性や、夫の単身赴任、転職、引っ越し、家族の病気や受験・・あげればきりがないですが、いろんなことが日常的に起きていると思います。

そんな中で、有機的に動く気楽さを持ち合わせたいと思っています。

“週に5日、毎日決まった時間に同じ教室の椅子に座っている”
このこと自体にも、少し不自然さを感じてしまうほど・・

話はそれましたが、
各家庭ごとにいろんな事情がありながら、この活動への参加を決めて準備して送迎してくれている、と思うので、こちらからのリクエストを必要最小限にしたいと思っています。

持ち物への記名なども基本は、お家の方にお願いすることはありません。
困ったら、メンバーと一緒に考えて対応すればいいと思っているからです。

それと同じ線上にあるのが、「家庭に介入しない」なのかもしれません。

こどもの活き活きさが親の喜び

これは、私も長男を通して、いやというほど味わってきたことです。こどもが活き活きしているか、あるいは幸せそうに生きてくれているか、それが親の何よりの喜びです。

子が学校に行けないだけならまだしも、そのことを通じて、元気と勇気がくじかれていく時、親は何とか助けになりたいと思うものだと思います。

この時点で、社会から親は、無言かそれとも直接的にか、
“親がしっかりしないと”とか、“親が甘やかすからでは?”などといった、
「親のあなたが問題だから変わりさない」というメッセージを受け取ると思うのです。
問題だと言われて変われたら、今頃、社会課題は良い方向にいっぺんにクリアしていますね。

だから、この無言のプレッシャーからも親御さん自身が開放されるといいなと願いました。

多様な社会と言われながらも

多様性という言葉がこんなに耳馴染みになる時代が来るとは思ってもみませんでした。
その一方で、憲法24条の改正草案などをみると、
家庭への介入の度が過ぎていかないかと心配にもなります。
「家庭のあり方」を国が論じるのは、変だと思うのです。
家庭のあり方は、家庭の構成員で決めていけばいい、って。

私たちの団体と国のありようとは、比較するものでもありませんが、いくつかの問いを投げかけられているとは感じます。
家庭への介入は必要なのか?(何等かの侵害にならないか?)
その意図は何か?あるいは、
介入のつもりではなくても、そこに操作性はないのか?
それをすることで勇気づくか、勇気がくじかれるのか?
等々。

ありのままをうけとめる

たとえば、メンバーがお家の不満を言ったとします。
「家のお母さんさー」とか「お兄ちゃんがさー」とか。
その時、そのメンバーがそう感じていることを100%受け止めながらも、その話題にあがる対象者が、言うまでもなく、
100%いつもそうであると捉えないことが大切だと思います。

メンバーにとって大切な人やモノ、ことを私たちも大切にすること、
そのことでもたらされるのは、
話した本人への「勇気づけ」だと思うのです。

仮に自分がお母さんの悪口を言っても、聴いたスタッフが、お母さんのことを否定しないとわかっているからこそ、安心して言えるのだということです。
「思ったこと言ってもいい」が「勇気づけ」を支えていると感じます。

昨日は、そう言ったけど、
さっきはそう言ったけど、
それを修正しても受け止めてもらえること、
それも、ありのまま・・・

家庭に介入しない方針に隠されていた大切なこと。
それは、
気楽さ、活き活きさ、多様性、ありのまま、そして勇気づけ。





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