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読書感想 『食べることの哲学』 檜垣立哉著

※全文公開です。おひねりをいただければ幸いです。
日々精進していきます。

地球環境、自然との共生、いろいろ言われていますが、この檜垣さんの『食べることの哲学』を読んで、誰もが忘れながら生きている重要な問題を思い出した。その根幹を忘れて、自然を語ることはできないのではないか、と思ったのです。

読んだら、ざわざわするかもしれませんが、、注意。

「われわれは、何かを殺して食べている!」この本の帯に書かれているドキッとする言葉。
動物にせよ、植物にせよ、いのちあるものを食べることによって私たちの命は支えられている。

そのことは、日常の中で、忘れられている。魚が切り身でスーパーに並び、切り身の姿で海を泳いでいると思っている子どもがいるように。この高度に発達した人間社会では、スーパーにならぶ動物の死骸は、食材としてしか認識されない。その肉は、私たちの目の届かない屠殺場で殺されているのだ。
それを本気で想像すると食べる気にならないだろう。

著者は、それをカニバリズムから考える。自分に近いと感じるものは、食人行為ができないのと同様、食べることができないという。実際、ヴィーガンの友人などは、動物たちを友人であると感じているようだ。だから友人を食べることはできない。

この本で驚いたことは、実は食人は、法で裁けないということ。それはあまりに自明のことなので、法律で記載することすら憚られたからではないか、と書かれていた。
カニバリズムについて、いまだに法律では裁かれない領域。そのこと自身を罪に問うことはできない。殺人、 死体損壊としてはもちろん罪に問えるが。著者は、そのことが罪として規定される以前の、われわれ自身を構成する何かに触れているからなのである、と述べている。

その法の外について、アガンペンという哲学者の考察を引用し、説明している。
アガンペンは、人間の生の領域を「ゾーエー」と「ビオス」という二つの領域に分類している。
「ゾーエー」とは端的にいえばただ生きているだけの「剥きだしの生」である。最も原初的な形態を含むわれわれの自然的生がそれにあたる。「ビオス」とは、法や言語に代表される、制度化された生の側面を指す。
 アウシュビッツで生き残ったグリモ・レーヴィというイタリアの化学者がいる。彼は殺されなかったがゆえに、まさに言葉によってアウシュビッツの現実を知らしめ、しかし殺されなかったという「罪」に苦しめられた。(彼の最後は自死であると言われてもいる)
ここで露呈されるのは、「ゾーエー」と「ビオス」の中間領域そのものである。彼は、迫害された人間として言語で証言を行なっている。これは歴史的に見て重要なことである。しかし証言を行えるという時点で、彼は殺された幾多の人間にとって裏切り者であるという意識そのものに苛まれ続ける。彼の現出が、アウシュビッツが生み出した「グレイゾーン」なのである。

「グレイゾーン」とは、法で裁くことができない領域。アガンペンはそれをアウシュビッツを例にとりあげ、この文明社会で生きるわれわれの矛盾を指摘した。

それはますます近年大きくなり、堕胎や安楽死、脳死や生命テクノロジー、医療過誤や遺伝子レヴェルでの優生学の是非など、「法」と「法の外」の境界領域は、文明の装いをまといつけながら、実際には無尽蔵に拡がりつつある。ひとはそこでさまざまな法を作成し、生命倫理という学問分野を恥ずかしげもなくでっちあげる(生命倫理という学問分野がアメリカで成立したのは、そもそも医者が医療裁判で免責になる裁判上の技術を考案するためだということは誰もが知っている)。だが、いかようにしても人間は理不尽に生まれ、理不尽に死ぬ。そのことは誰も何の責任もとれない。・・・死の責任を問うたところで、その命は生き返るわけではない。あくまで「ビオス」的な死の領域での責任ということだ。

そして人間もまた、自然の中では、「食べられる存在」であるということ。それは、宮沢賢治の童話にも表れている。
童話の中では、動物たちが擬人化され、言葉を話す。そして、人と対等の関係にある。それでも、人は動物を食べる、そこにカニバリズム的な要素が存在する。
宮沢賢治は、「ほんたう」のこと、と表現する根源的な問題がそこにある。
人がなにかを食べる時、「いのち」という枠から見るならば、カニバリズム的であるということ。それが人として生きる抗えない原罪である。
賢治は、自然との共生などと生易しい自然感を持っていない。
「よだかの星」のよだかの苦しみ、生きることは実は羽虫の命を奪って生きていると気がついた苦しみ、またそんな自分自身も鷹に命を奪われてしまうかもしれない苦しみ。生きることも、死ぬことと同じ苦しみの中にある、と。
それを見ずに自然は語れないということなのだろう。

 現代の教育の場で実践的に学ぼうとした試みがあった。豚のPちゃんを教室で飼い、卒業する3年後にみんなで食べるという授業だ。卒業が近づき3年たち、自分たちで食べるかどうか、クラスが真っ二つになり話し合う。答えのでない「問い」に最後は先生が決断を下す。この現代社会でアガンペンのいう「ゾーエー」的生、賢治のいう「ほんたう」を見ようとしたということだろう。著者の檜垣さんは、この授業は教育として失敗だったと言われる、でも失敗が悪いわけではないとも言われている。そもそも「ゾーエー」や「ほんたう」は、現代ではないこととして見て見ぬ振りをして生きていくべきものだったのかもしれない。その深い闇を見てしまった子どもたちはその後の人生はどうなったのだろうか、。

 また、太地町のイルカクジラ漁を撮った映画『ザ・コーヴ』を取り上げている。その映画は、動物への虐待批判の映画であろうが、白人至上主義的、啓蒙的な白人による人種差別的な監督の目線があると感じるそうだ。なぜ日本の中でもローカルな小さな漁村がターゲットになったのか、他にも同じようないるか漁は世界にあるにもかかわらず。
エコテロリズムは本来、西洋中心主義、西洋近代主義を批判すべきものであるはずが、それが機能せず、シーシェパードや、オバリー監督自身は、自分たちを善と見做し、その矛盾に無自覚であることが問題であると。ただし、檜垣さんは、オバリー監督は、この映画をイルカ漁への批判というより同じ海の人間として映像に納めていて、実際、漁の映像を太地町の人たちも認めるぐらいすごい映像にしている。それは、オバリー監督自身が過去に自死で死なせてしまったイルカへの鎮魂として、また自分自身を責めていたから映画を撮られたのではないか、と書かれている。

 そこには、現在の資本主義文明を作ってきた植民地主義的思考と人間存在の根源的問いが、重層的に混在している。それはいるか漁をするものも、また糾弾するものも同様に持つ自己矛盾である。

 人間は、同種のものを食べず、「他」のものを食べる。カニバリズムは忌避しなければならない、という深く刻まれた無意識がある。
「他」のものとは、ある種「毒」でもある。生の肉は食べられないし、植物でも調理をしなくては食べられないものもある。それは、人間にとって毒だからだ。農薬や放射能、公害など、外的要因によって毒はくると思っているが、そもそも人間は「毒」を食べている。それは構造的必然である。
「殺生」「毒」・・・人の命を支える「食」は、実は悪と思われるものがその本質だ。

檜垣さんの言われる「うしろ暗い」「ほんたう」の姿。このうしろ暗さを心の奥底に置き、蓋をして、環境問題について、その表層的問題のみを語ってきたのではないのか。

 最後に檜垣さんは、こう語っている。「ポジティブなはなしとして言えば、もう毒を喰えばよいのではないか。われわれはすでに、太古から他者という毒を喰らっている。農業という原罪を迎えたときから、漁業を管理しはじめたときから、すでに自然にコントロールをかけた罪を平気でひきうけている。文明とはもちろん隠蔽の構造である。グローバル社会になり、別種の毒、つまりファストフードの毒、スーパーの惣菜の食品添加物の毒という新たな文明の毒が加わったとき、それはそもそも「毒」を食べることを業として負わされたわれわれが、そうした別種の毒を文字どおりあらたにどう「咀嚼」するかという問題でしかない。・・・最初から毒を喰い続けてきた人類は、別種の毒に適合するほど強い。それだけのことかもしれない。・・・」

「食べる」ということは今後もサプリや宇宙食のようにどんな形になろうと続く人間の営みであり、食べるということが、文化という覆いをまといながらも、その根底にうしろ暗さを抱えながら、止めることができない。人間がその境界線上を生きるアンビバレントな存在であるという認識を持つことから始めるしかないのではないかと思う。

 私たちは、エコロジーや環境保全について語り、思考するが、もし本気で自然と向き合おうとするならば、「ほんたう」は、私たちは自然をコントロールできるわけもなく、安全な場所に生きているわけでもなく、今も喰われる存在としてここにいるということを忘れてはならないだろう。




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