戸板康二『歌舞伎ちょっといい話』

戸板康二(1915〜1993)といへば『ちょっといい話』あり。随分と昔の本の気がしたが昭和53年に文芸春秋社刊でかなり評判に。自分が実際には知らない九代目と五代目の団菊から十五代目と六代目、十一代目などの逸話がとても面白く何度も読み返してゐたが戸板康二には、その歌舞伎版で『歌舞伎ちょっといい話』といふのもあつた。昭和58年1月から平成5年2月まで歌舞伎座の筋書きに連載されたもの。この平成5(1993)年1月に戸板は逝去で、つまり同年2月の原稿がまさに遺稿。この昭和の最後6年と平成にかけては歌舞伎が本当に素晴らしかつた時代。その頃に毎月、歌舞伎座に通へたのはアタシもありがたいことだつたが財布と相談でいつも三階の東扉の席からで筋書きなんて買へなかつたから戸板先生のこの連載も当時全く知らず。筋書きを買はないかはりに当時はA4の三折りだつたか無料の簡単な芝居案内もロビーに置かれてゐたが毎日、部数限定ですぐになくなるから入場と同時にこれを貰ふものだつた。今になつて、この『歌舞伎ちょっといい話』を読んでみると当月出演の役者の名前は書いてなくとも「あ、これは大成駒と大松嶋の吉野川」「これは大成駒と神谷町の二人道成寺」と芝居が思ひ浮かぶから。昭和の終はりからアタシが香港に出るまでの間だけでも今でも印象に残る舞台を並べれば、こんな具合。
昭和63年(1月)播磨屋の弁慶、高麗屋の冨樫に大和屋の義経で勧進帳、澤瀉屋の四の切、先代勘三郎の俊寛、成田屋の助六で大和屋の揚巻(2月)菅原伝授手習鑑の通しで先代松嶋屋の菅丞相、橘屋の源蔵と大成駒の御台、梅幸の覚寿(3月)忠臣蔵通しで播磨屋の師直、道行は孝夫の勘平と大和屋のおかる、播磨屋の由良之助(5月)妹背山は大成駒の定高と松嶋屋の入鹿(7月)澤瀉屋の昼、夜、義経千本桜の通し(9月)播磨屋の直実、大成駒の八ツ橋と高麗屋の次郎左衛門で籠釣瓶、播磨屋の井伊大老(10月)梅幸の保名、京屋の鷺娘、澤瀉屋の再岩藤(11月)大成駒と神谷町の二人道成寺(12月)成田屋の与三郎、大和屋のお富、市蔵の蝙蝠安で源氏店
平成元(2月)楼門五三桐は紀尾井町の五右衛門と梅幸の羽柴久吉、重扇縁絵競は梅幸の弁天小僧、紀尾井町の駄右衛門、橘屋の南郷力丸、忠信利平は久朗右衛門で赤星に神谷町(3月)大成駒の関扉、播磨屋の文七元結、女殺油地獄は与兵衛が孝夫で父徳兵衛に大松嶋でお吉に京屋、勘九郎と八十助の棒しぼり(4月)孝夫と播磨屋の寺子屋、大成駒の静か午前に勘九郎の忠信で吉野山、播磨屋の一本刀土俵入、勘九郎の髪結新三(5月)大成駒と大橘の摂州合邦辻(7月)澤瀉屋昼夜で亀治郎の独楽(9月)勘九郎の六歌仙、成田屋の熊谷陣屋、(10月)孝夫の忠兵衛、京屋の梅川と大松嶋の孫右衛門で封印切り、新口村、勘九郎と倅二人の鏡獅子(11月)大成駒の政子で将軍頼家
平成2(1月)歌右衛門の常盤御前と播磨屋の一條大蔵卿、澤瀉屋と梅幸の吉野山(2月)高麗屋、播磨屋と音羽屋の車引と三人吉三、播磨屋の鬼平犯科帳(3月)成田屋の直次郎と京屋の三千歳
……といつた具合。なんて歌舞伎座が華々しい時代だつたのかしら。かうした芝居の筋書きに戸板先生の「ちょっといい話」が添へられる。

  • 弁天小僧で六代目の放つた手拭ひがシュートして十五代目の前に落ちた。「野球をやつてゐたものですから」と六代目。

  • 九代目團十郎の次の家康役者は五代目歌右衛門である。この人、不思議なことに十六代目となるはずだつた家達公によく似てゐた。

  • 四の切りで宙乗りを始めた猿之助、木下サーカスにかけて「キノシサーカス」と先輩にいはれた。猿之助の名前は喜熨斗(きのし)。

  • 昭和54年の夏、千葉県の寺で虎が檻から逃げ出して騒ぎに。「筆で描き消せばいいんだが」と戸板は言つたが、そこにゐた人は誰も〈吃又〉を知らず。

  • 七代目幸四郎の弁慶、十五代目の富樫、六代目の義経の〈勧進帳〉が記録映画となり四天王には若き十一代目も。戦後この映画が日比谷で公開に。橘屋の富樫が下手から出てきたとき客席から声がかかつた。「お久しぶり!」

  • (初代猿翁と三代目段四郎の二十三回忌追善)昭和60年七月狂言。昭和30年の澤瀉屋による中国訪問公演についての戸板の思ひ出話はかなり出てくる。当時、国交もない中共に翫右衛門あり。不法出国となつてゐたが帰国の斡旋をあちこちに働きかけたのが澤瀉屋。翫右衛門が後日涙ぐんでかう語つた。「前進座のできたとき澤瀉屋さんとは気まずくなつてゐたので私は何となく、きまりが悪かつたんです。でも澤瀉屋はかう言ひました。何をいつてゐるんだ、日本ではみんなが君を待つてゐるんだ」。

  • 俳優祭では珍配役があるが三十年ほど前に菊五郎劇団の天地会で梅幸の直次郎、松緑の三千歳といふのを見た。火鉢にあたつてゐる直次郎のところに「知らせうれしく」で襖をあけた三千歳を見て直次郎はギョッとした顔のおかしなこと。

  • 二代目猿之助(猿翁)が北京公演で初日に勧進帳の弁慶で六方で引っ込んだあと観客は総立ちになつて拍手、舞台の袖から少女が花籠もつて現れる。この熱烈な反響に澤瀉屋もすつかり昂奮して花道を逆に駆けて出たが「うれしくて帰りも六方を踏みさうになつたよ」。文革前の中国の明るい時代のこと。

  • 大正の初年、東京では三座で勧進帳を競演して贔屓は狂喜。なにせ帝劇が幸四郎Ⅶ、梅幸Ⅵと宗十郎Ⅶで歌舞伎座が十五代目、中車Ⅶと歌右衛門Ⅴで市村座が六代目、播磨屋と三津五郎Ⅶとは。

  • 〈俊寛〉がこんなに始終、舞台にのるのは戦後のことで戸板の知つてゐる大正14年に復興再開の歌舞伎座では〈俊寛〉は昭和6年9月まで出てゐない。吉右衛門としても大正11年以来。

  • 昭和21年の〈助六〉は喜寿を超へた幸四郎Ⅶで六代目がくわんぺら門兵衛と揚巻を二役替はり。翌月の東京劇場で海老蔵(團十郎Ⅺ)が助六初演で、六代目が門兵衛、播磨屋が朝顔仙平。この助六で海老蔵ブームとなり昭和26年の歌舞伎座再開で光源氏となる。

  • 曾我廼家五郎の忠臣蔵では判官切腹のあとの門外で血気盛んな諸士の行動を由良助が制止する場面、当時の交差点で交通巡査が手動の信号機の「トマレ」といふのをポンと出して見栄をした。この「高速」忠臣蔵はなんと四十七分!で終はつたさう。

  • 「籠釣瓶」は刀の銘で籠の釣瓶だから「水もたまらない」つまり切れ味がよい。佐野次郎左衛門と八ツ橋の名前は南北が「佐野の八ツ橋」を書いて以来のもので五代目半四郎の俳名が杜若(かきつばた)ゆゑ杜若を歌題にした歌を業平が詠んだ三河の八ツ橋を思ひついた。

  • 五代目歌右衛門が〈孤城落月〉初演の前に淀君の狂乱ぶりを研究するため巣鴨の病院の精神科病棟を見に行つたところ廊下を歩いてゐたら病室から顔を出した女性の患者が声をかけてきて「おや、成駒屋さんもいらしてたんですか」。

  • 〈十六夜清心〉は大正から昭和にかけ十五代目、梅幸Ⅵと当時の清本延寿太夫の三人で、これと〈かさね〉〈入谷の大口寮〉の三つが絶品といはれた。歌舞伎にはいろんな破戒僧が出るが清心がいちばん魅力があり、但しこの清心が自殺を考へ月を見て考へが変はり悪党になるところで扮装が一変、これを十五代目は「与三郎が蝙蝠安になつたやうだぜ」と苦笑してゐたさう。

  • 戦後はじめて〈忠臣蔵〉が出ることになり松竹は当時の進駐軍の演劇課に念のため「配役」を届けたところパワーズ少佐から「判官と戸無瀬は梅玉に」と指示あり。松竹は梅玉に大阪から来てもらふのが大変で」と応へたら「列車もこちらで手配します」と。これで梅玉の二役が実現。

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