見出し画像

フードスコーレ不定期連載『食の未来仮説』#017 食事を「味わえる」ことに価値がある (書き手:玉木春那)

説:より「味わえる」食事の価値が高まっていく。

作る人はどれだけ味わってもらえるかを考えて作るようになり、食べる人は味わって食べることに価値を見出すのではないかと思う。

この先より余剰が生まれる世の中になっていく。なぜなら大量に生産できるような技術は発展し続けているから。例えば、肉は牛からじゃなくても作れるし、野菜も土から育てなくてよくなってくる。同時に世界人口は減少していくから胃袋の総量は小さくなる。食糧の全体量にはさらに余裕が出るのでは?このように私たちは食べ物が溢れさせられる道もある中で、本当に必要な食を増やしていくことが大事だと思う。

また、幸運なことに、日本にいるとどこでもある程度おいしいものが食べられる。まずは食べれて生きることができるのだから、効率的で合理的に食べることよりも、五感で感動できる食体験に価値が生まれるのではないだろうか?食べる行為は動物的な行為だけれど、文化や習慣と結びついているからこそ、人だから作れる食事は増えていくべきだと考える。単においしいだけじゃなくて、背景にある物語に共感したりできることが大事だと思う。

今でも食糧は選びきれないほどあるのに、未来はもっと生むことができるようになる。とすると、食糧を確保することに価値があるのではなく、本当に必要な食材を生産したり、食事を作ることが大事になってくるのではないか。何を食べるかを選ぶことを大事にするべきだと思う。食べるものによって豊かさの度合いが変わるからだ。流行とかに惑わされず、意味と価値を決めるのは自分自身。胃袋にも限度があるのだから、食べることでより豊かになる食事を選択していくべきだ。

噛み締めるほどに味わい深くなる食に惹かれる

色んな食がある。食べるもの、見るもの、飾るもの、健康的なもの、ストレス発散のためのもの。コンビニやファストフードが嫌だと思っていたけれど、忙しい人にとっては味方となる良いものだし、タピオカのようなストリートフードは気分を高めてくれるじゃないかと思うようになった。そう思うと、私は素材にこだわることや、環境に配慮して生産や消費されることはいいと思っているけれど、別軸に価値を感じる人にとってはタピオカの方が価値がある。ならば食のどこに価値があるのだろう?と考えるようになった。私なりの考えの一つに、味わい深く、感じる総量が多いものがいいと思う。

様々な食の役割

食には様々な機能がある。例えば、飾るための食。会食や友人と食事に行く時、食事があるから話が盛り上がったり、また友人との時間が華やかになる。食事の時間自体を飾るような食事があることは素晴らしいと感じている。でもその一方で、食事そのものに興味がもたれないことを悲しく感じていた。食事中、おいしいねとか、食べ物がどう作られてるのか想像したり話たりされず、インスタ映えだけで終わってしまう食べ物とか。食べきることが優先ではないがゆえに、食べ放題あとの散らかったテーブルの光景とか。総じて、作られるストーリーが一切分からないことに違和感があるが、でもその代わりに食事があることによって、会話が弾んだり華やかな記憶を残してくれる。このように様々な役割があるのだと理解することは大事だと思う。食に求めるものは、人や店それぞれによって異なるからだ。

私が感じる食の価値

食は誰もを幸せにする。何よりもおいしく食べる時、幸福感を感じる。また共食することには社会的意義があった。昔から私たちは食を囲むことによって家族や仲間との繋がりを作ってきた。現代でも会食や飲み会があるように初めて会う人とだって食事を共にすれば仲良くなれる。食を囲むことは、コミュニケーションを円滑にする役割がある。国や文化が違えばおいしいは違うけれど、それでも食事には、違いを越えてフラットになり、みんなが幸せになれる力がある。だからおいしい食事を食べることは正義だと思っている。

また自然を感じられるものでもある。旬のものを食べたりその彩りを見ることで季節を感じる。夏になると自然と夏野菜が食べたくなるように、食べたくなるものと生きている環境は相互作用し合っている。肉や魚を食べることからは命をもらっていることを感じる。様々な生物が共存し合っていることを実感する。その土地にしかない料理を食べることは、食べることを通じてそこだけの自然や文化に触れられる。食べることで繋がりを感じられる。

小さな世界を作ること。レストランやカフェ、居酒屋にはそれぞれの世界観が滲み出た空間がある。メニューや音楽、マスターの雰囲気などいろんな場所に宿っていたり、常連さんが集まって来るんじゃないかと思う。お店ごとに生きている様々な違う世界を感じられることは、食のおもしろいところだと思う。

他にも星の数ほど挙げられるだろう。これは食というものが秘めている可能性の数だと思うから、多ければ多いほど食を楽むことができる。

これらを踏まえて思うのが、「食べること」には、食べることそのものと、食べる先に感じられる物語の両方を味わっているのだということ。日本は飽食と恵まれているため、好きな食事を選択できる自由があるからこそ言えることではあるが、食べることは生命を維持させるためだけではなく、娯楽のように豊かにしてくれるものでもあると思う。

味わえる食事とは?

味わって食べることは、その食事の物語を味わうことだと思う。食事ができるまで、その食事にしかないストーリーを味わうこと。美味しく食べること、そして食事の時間を楽しむこと、だと思う。ただ美味しかったの一言だけに留まらない体験。例えるなら、映画を観賞するように、食べている最中には刺激や感動のある体験をして、終わってからも余韻に浸れるもの。美味しかったなあ、また食べたいなあという感動があるものや、あの食材はどんな人がどういう思いで作っているんだろう、ともっと知りたくなるもの。食べてお腹が満たされるだけではない、その瞬間だけでは終わらないものなのかな。知れば知るほど、噛めば噛むほど、味わい深くなるような食。

あるお茶屋さんに行った。各地のお茶が並んでいて、珍しいんです、九州でしか作られていないのだと伺った。また見慣れず、想像できない組み合わせのお茶のフレーバーがあったことから、どんな味なんだろう?なんで九州でしか作られていないのだろう?と私は知りたくなった。昔から茶は「余白」をもたらすものとして飲まれていたようだと知った。そこからお茶に対する見方が変わった。お茶を日常的なものとして飲んでいたが、地域性を感じたり、歴史と繋がる感覚を得たり、概念として捉えられたり、知れば知るほど深くまで味わえるもの。

これなんだろう?なんでだろう?と思わせられる食事は考えたくなる。

まずは何よりもおいしく食べることの幸福感を味わえて、そして食べることでより深く知りたくなったりすること。このお店にしかないおいしいごはんと体験があることに魅力があると思う。

考えさせてくれる余白のあるもの、それは情報が沢山詰まったものだと思う。知っていくごとに、それと同じだけ知らないことや考えたことのなかったことに出会う。

最後に:

より楽しく味わって食べるためにはどうしたらいいのだろう?

作る側は作品を作るように魂や思いが込められたものの価値が高まって欲しい。食べる側は味わおうとすることが大事かもしれない。こだわって作られて、その物語を味わえることは贅沢だなと思う。

とはいえ、物語を味わうことは、物に付与されたイメージを消費することであるから、終わらない消費には繋がってしまうのではというすっきりしない気持ちは残る。

パンか薔薇か、と言われるが、食べることはパンでもあり薔薇にもなる。物語の味わえる、哲学があり世の中が良くなることを願って作られた、発見あるもの、奥深い食にもっと出会いたいし増えていくのではと思う。食べることで世界を味わう贅沢をできることって幸せだな。

今回で、玉木春那さんによる連載は一旦終了となります。お読みいただきありがとうございました。

『食の未来仮説』は、さまざまなシーンで活躍されている方たちが、いま食について思うことを寄稿していく、不定期連載のマガジンです。次回をお楽しみに!

今回の著者_
玉木春那
1999年生まれ。立命館大学経営学部4年生、デザインマネジメントを研究。フードロスの現状にショックを覚えたことから、食とサステナビリティを軸に取り組んでいる。食の背景にある物語や思想が伝わらないことに課題意識がある。食べることでサステナビリティに繋がるような生産と消費の関係性を模索したい。そして食に様々な視点を混ぜながら、次の食のカルチャーを作っていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?