風土考 - ネットに関する風土的諸々


1…時間的、空間的、差異的規定としての風土



 和辻哲郎という哲学者が『風土 人間学的考察』という本をかいたのは戦前の1930年頃です。和辻はその著作のなかで“風土とは、人間の自己了解の仕方である”と述べました。そして“人間”と“風土”という二つの異なる対象を取って論じるのは間違いであり、人間という存在のなかに風土は不可分に含まれる関係にあるとしました。

 それは“ヒト”という動物が、固有の風土(空間性)と固有の歴史(時間性)を獲得することにより、それに由来する固有の偏性をもった“人間という存在”として自己を見出すという意味だろうと思います。この“偏性”というのは固有の価値観、文化、言語、習慣のような一般には“個性”や“人間らしさ”と呼ばれる、個人あるいは集団ごとに偏る人間の性質の全体です。

 和辻は上記のように人間を成立させる風土と歴史を、それぞれ空間性と時間性に対応させて扱っています。
和辻は著作のなかで“時間と空間”および“歴史と風土”は切っても切れない相即不離の関係にあると述べており、それであればそれらを一つの概念として、“風土”という概念で扱う方がよいだろうと思います。 風土という言葉の定義として、 ヒトを空間と共に時間的にも規定し人間に至らせる存在として、“時間性”もその意味に含めて考えてよいように思います。

 この風土的な規定ですが、これは人間の視点からみれば自らの可能性を限定することによって自らを実在化するものとして、風土的な限定性とも見ることができます。この空間的、時間的な2つの限定性をヒトが風土から獲得することで、固有の偏性をもった人間が成立すると考えることができますが、風土から獲得される限定性はこの時間と空間の2つだけではありません。結論から言えばそれは“差異性”です。
固有の風土に由来する空間性と時間性を獲得することで、固有の人間が成立するということは、当然異なる風土には異なる偏性をもった人間が成立することになります。その結果として発生する異なる風土、および異なる人間同士の“差異”、これもまた人間が風土から結果的に獲得する限定性の一つと考えることができます。
これらをまとめて言えば、風土はヒトという動物に風土的限定性(空間的、時間的、差異的)を与え、それによってヒトは固有の偏性(価値観、文化、言語、習慣 .etc)をもった人間と、その自己を了解するということができます。
またそれが故に、基本的にあらゆる偏性はそれが規定した風土の中においてのみ、根拠と正当性を持つことになります。


 和辻の著作には現代から言えば人間の類型に関して大枠で断定的な部分や、人間の偏性における遺伝的要因が考慮されていないなどの点があり、人間への適用は十分と言えないように思います。ですが人間に内在する風土というその重複的関係性への理解はそれが書かれて80数年が経った今でも妥当だろうと思います。
そのために非常に興味深いのは、もし現代に和辻が生きていたらインターネット空間についてどのように考えたのだろうかということです。



2…インターネット的風土



 インターネット空間を、比喩ではなく本当に空間として扱ってもよいのかという疑問は当然あります。ですが人々が日々情報を取得、発信してコミュニケーションを行う場として実質的に機能している以上、インターネット空間という場には、その固有の空間性と時間性そしてそれが生む差異性があると考えることにはある程度の妥当性があるように思います。そうであればその空間で日々活動する私たちは、そのインターネット的風土に、私たちの身体が在る物理空間の風土とは異なる私たち自身を了解し、見出している可能性は十分にあるように思います。


 そこでインターネット的風土(空間性、時間性、差異性)は物理的風土と比較してどのような違いを持っているのかが問題になります。

 第一に、その空間性は大きく拡張され現状その範囲の目安と言えるのは各言語圏の規模だろうと思います。またその時間性も蓄積する情報のアーカイブ化によってタイムシフト的に拡張しており、現状その範囲はデジタル化技術やデータ容量あるいは電力などの技術的限界によって作られています。これらの範囲は今後見込まれる翻訳やIT技術の発展によりさらに拡張されていくだろうと考えられます。

 インターネット技術はよくツナグ技術と言われますが、その時一般にイメージされるのは空間的ということかもしれません。しかしそれは現在(2020)がまだインターネットが一般に普及しはじめて20数年しか経っていない、歴史的にみればまだ黎明期のためだろうと思います。
今後数十年と時が経つにしたがいその“アーカイブ”としての役割が時間的に膨大な過去と現在をつなぎ、現在を拡張させる技術として認識されていく可能性が大きいように思います。
それは現在までにインターネットが“ココ(此処)”を拡張してきたように“イマ(現在)”を拡張させるということですが、地球上のつなぐことが出来る空間は限られますが過去は際限なく増えていくため、インターネット技術の社会的な役割はやがて“アーカイブ”として時間的につなぐことの影響力の方が大きくなる可能性さえあるかもしれません。それどころか幾世代も先のインターネット空間においては、時間も空間も大した違いは無く、ただ私たちは“ドコ(何処)”という座標を指定するだけかもしれません。その違いは情報が双方向か一方向かだけです。

 しかしそのような技術の発展を待たずしても2020年前半現在においてさえ、インターネット的風土の時空間的限定性は物理空間と比べて大きく拡張され、物理的風土の偏性からも大きく解放された、より普遍性に近い性質を持っていると考えることができます。


 しかしそこで一つ不思議なのはインターネット的風土の“差異性”です。少なくとも現在の日本語圏と英語圏のインターネット空間においては、物理空間の風土的偏性に由来する偏性(特に自分とは異なもの、非道徳、非正義)と見做される偏りへの過敏さや不寛容さはその度合いを増しているように見られ、むしろその“差異性”は強まっているように感じられます。

 そのことを私たちがインターネット空間に親しむにつれて、インターネット的風土から時空間的に拡張された普遍的性質や視座を獲得しつつあり、その新しく獲得された視座から物理的風土に由来する様々な偏性を改めて見たとき、その“非普遍性”に強く反応しているのだと考えることは可能だろうと思います。

 ですが、それでもその反応の仕方は非常に寛容さに欠け攻撃的である例が多いのをみると、その“差異性”の強まりに注目せずには入られません。
インターネット的風土において、空間的、時間的限定性が拡張されてその規定(限定性)が弱まっているにもかかわらず、差異的限定性だけは逆に強まっているように見えます。これはとても不思議で興味深いことだと思います。


 この現象の理解のためのヒントになるかもしれないことは、二つあります。
一つはインターネットが非常に意識的な空間だということ。
もう一つはダンバー数のような情報処理に関する認知的なキャパシティーが人間には存在し、それが人間の空間性や時間性にもあると考えることです。



3…意識的空間とダンバー数



 まず意識的空間ですが、インターネット空間はこれまで物理空間では見られなかったものや、探せなかったものに辿り着くことができ、一見それは広大な印象を受けます。しかしそれは別の見方をすれば意識的に見なかったもの、探さなかったものには出会わない空間ということです。物理空間での活動では偶然や予想外に人、もの、情報に無意識的に出会う機会が多くありますが、少なくとも現在のインターネット空間はそれが非常に少ない環境にあります。インターネット空間は自分が見渡す限りには広大ですが、見渡さなかった空間、あるいは意識しなかったモノは自分には存在しないと同義です。

 この現象は一般にタコツボ化、エコーチェンバー、フィルターバブルと呼ばれるものです。主にこの3つの名称で呼ばれるこの現象は実質的には同じもので、エコーチェンバーは個人が自分の見たいものだけを選択することで、自分に都合の良い情報空間を周囲に作り、その結果いつの間にかそれが社会の平均的な情報環境、価値観や常識と大きくズレる現象です。フィルターバブルは現象としては同じですが、それをインターネットのプラットフォームなどのシステム側が個人の好むであろうものを提示し、嫌うであろうものを排除することで、個人が受動的にタコツボ化することを言います。それは共にタコツボ化現象ですが、個人がそれに陥る過程が受動的か能動的かの違いです。

 この意識的空間ということを考えると、意識的時空はインターネット空間では確かに拡張されており、結果個人は空間的に拡張された意識と、時間的に拡張された意識の中に自己を了解するだろうと言えます。

 次にダンバー数ですが、これは“人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限”とされるものでロビン・ダンバーという人類学者が提案したものです。それは親しい仲間意識を持てる人数の上限と言い換えてもよいもので、ダンバーはそれを150人程度ではないかとし、その原因を大脳新皮質の情報処理能力そのものの上限に求めています。
このダンバー数のような認知的なキャパシティーが、人間が自己を了解し見出す空間性と時間性の規模にもあると仮定すると、インターネット空間において拡張された意識的時空の影響によりそれ以外の領域、すなわち無意識的な時空が失われることになる可能性があり、それがタコツボ化減少の一側面と考えることもできます。

 そう考えるとインターネット的風土は、人間の意識的な空間的限定性と時間的限定性を拡張することで、意識的には普遍的な性質と視座を獲得する一方、 物理空間における風土的規定と比べてその時空間認知のキャパシティー自体は拡張されるわけではないため、結果的に、意識的時空は拡張され無意識的時空が縮小するという、物理的風土と異なる構造と性質の偏性をもった風土ということができるのかもしれません。

 意識的とは条理の領域と言え、無意識的を不条理の領域とすれば、インターネット的風土は条理的時空間が拡張され、不条理的時空間が縮小した風土的規定を持っているとも言えます。


 その場合個人の感覚としてはネット空間からは見渡す限りの広大な印象を受け、そこから獲得されるインターネット的風土の偏性は意識的にはより普遍性に近く条理的で偏性の弱いものに向かいます。
しかし自身の自己了解の総体は空間と時間感覚のダンバー的上限の影響により、普遍性に近づくのではなく意識的、条理的に優位で無意識的、不条理的には劣位な偏性をタコツボ化の結果として獲得すると考えることができます。

 そう考えれば意識的には普遍的な性質や視座を獲得すると同時に無意識的、そしてその表出としての感情は“差異性”を強め、異なる偏性に強く反応し、それを普遍性あるいは条理からの逸脱であると厳しく糾弾する行為態度に説明がつくかもしれません。


4…自己了解の二重性



 もしこのようなインターネット的風土と、その中に了解される自己があるのだとすると、次に問題となるのは、もともと存在する物理的風土の自己了解との関わりです。

 物理空間で物理的身体を持ちながら、同時にインターネット空間という意識的時空の拡張された空間を生きる現代人は、その結果として二重の自己了解を有すると考えられます。ただし、先にも述べたように現在はまだインターネット黎明期であり、個人あるいは集団ごとのインターネット的風土への親しみや馴染みに大きな差があります。
デジタルネイティヴとネット以前の環境に生まれ育った人々が共存する現代は、黎明期ゆえの個人と集団ごとの風土の二重性、自己了解の二重性の程度におおきな差があると考えられます。

 物理的風土の偏性は、その局所的な規定(時間と空間と差異の限定性)に見出される個人と集団の自己了解であり、その規定の時空には意識と無意識、あるいは条理と不条理のどちらか一方に優位性はなく、それぞれの風土的規定に応じて多様であると考えられ、それは結果として正義と幸福の多様性など、価値感の多様性につながると考えられます。

 一方インターネット的風土の偏性は、意識的領域が拡張され無意識的領域の縮小したタコツボ的局所性から見出される、意識と条理に優位な性質を持った自己了解と言えます。この偏性は普遍性に寄った意識と視座、かたやダンバー的認知の上限によって縮小した無意識的時空を特徴とし、縮小した時空が無意識的であるが故に、自己の偏性の意識的歪みに対する無自覚を特徴とし、意識的普遍性と無意識的局所性というねじれた性質持つと考えられます。結果としてそれは拡張された時空間的規定と、それに反して強まる差異的規定を特徴とします。(*ここで拡張と縮小、限定と規定、強い弱い、という言葉の使い方が分かりづらくなりますが、拡張は普遍性に向かうことであり、縮小は風土および局所性向かうこととします。また限定と規定は同じものをどちら側から観察するかの違いであり、差異性が強まるとは、時空間的規定の縮小であり風土と局所性に向かうこととします。)

 これら物理とネットの二つの風土的規定の規模そのものは、そこに自己を了解する個人あるいは集団自身の時空間的規模のキャパシティーに依存するため、その規模自体に差はないと考えられます。ですがどちらの規定により強く親和性を持つかは個人や集団ごとに多様です。ただし物理的身体を持たない人間はおらず、インターネット空間で一切の活動をしない個人と集団は存在するため、全ての個人と集団は物理的風土を有するが、一方インターネット的風土への親密さの有無および程度は大きく異なります。



5…現代の世代、社会の地平



 現代のIT環境では個人間と集団間のインターネット空間への親和性の違いを決めるのは、単純な年齢差という意味での世代ではありません。この現代的世代感に関しては、“年齢差では無くどのような技術をどの程度使いこなせるかが現代における世代というものを定義する”と、N.Y.の流行予測集団K-HOLEはそのテキスト”YOUTH MODE A REPORT ON FREEDOM”で述べています。それには一理あり、インターネットが意識的な空間と時間を拡張した結果、これまで世代というものを定義していた風土的規定の“時間差”と“地域差”と“差異差”の絶対性が失われ、遠く離れた10代と70代の個人が同程度のインターネット的風土への親和性や文化、思想、すなわちK-HOLEのいう現代的な意味での“世代”に属するということを可能にし、また同時に共通項をほとんど持たない同年齢の個人たちも生み出しました。


 世代とは、社会の人々を規定する風土的限定性である時間、空間、差異という三つの変数のいずれかまたは複数を固定することで得られる集団であり、それはその集団を特徴づける共通項を持ちます。その集団に属する個人は社会の様々な場所と状況で生きる異なる人々です。ですがその固定された変数を定めることで見出される彼らの共通項は彼らが持つ共通の社会の地平といえます。 彼らの日々具体的な生活は様々ですが、共通の地平を持つかれらは、そのためにいわゆる“あるあるネタ”を共有し、共通の話題や、流行歌、同じ遊びをやったなどの共通の“生活の背景”を持つ人々です。
一般に世代という言葉を使う時、それは時間という変数で使われますが、“世代”という概念はその限りでは無く、空間や差異という風土的規定の変数を用いることも可能です。ですが時間的変数による世代が一般的に使われるのは、それが社会について理解する時に最も用途があって使い勝手の良い人々の区切り方だからにすぎません。


 次に、インターネット的風土を獲得した現代社会において最も有用な意味での世代とは何かということが問題になります。それは現代社会に生きる人々はどのような風土的規定の変数において、共通の社会の地平を見るのかということです。

 物理的風土の三つの規定に加え、インターネット的風土の三つの規定が加わり変数が六つになるようになるように見えますが、実際加わる変数は1つだけと考えられます。それは、まだインターネット空間には独自の風土を生み出すほどの時間性、空間性、差異性は無く、人々は自らの物理的風土に由来する偏性をインターネット空間に持ち込み、そこでインターネット空間的な意識的偏性の影響をその物理的風土由来の偏性に受けるという形でインターネット的風土が成立すると考えられるからです。
もちろん今後のインターネット空間の発展次第では、ネット空間が独自の風土を獲得する可能性は十分にあり得ます。


 インターネット空間に物理空間に由来する風土的規定が持ち込まれ、それがインターネット空間の意識性の拡張と無意識性の縮小という作用を受けたものをインターネット空間の風土的規定とすることができるならば、技術の理解や環境的要因などによる、インターネット空間への親和性という変数こそが、現代社会を考える時に非常に有効な意味での世代を定義すると考えることができます。

 それは私たちが現代社会に生きる中で、同じ年代に生まれた、同じ場所に育った、同じ社会的境遇にあるなどでは無く、どのようなインターネット空間への親和性を持つかが現代の世代を定義するということです。どの言語を使い、どのような接続方法で、どのSNSを使い、どのデバイスを使い、どのメディアから情報を得るのか、といったインターネット空間への親和性の強弱以上のその変数のありようが、現代における共通の社会的地平であり、世代を定義すると考えることができます。



6…風土と道具




 実際に和辻がインターネット空間をどう考えただろうかは想像するしかありませんが、その著作内の“風土の基礎理論”という章で風土と道具の関係について述べている部分にそのヒントがあるかもしれません。その章で和辻は道具について、“風土における自己の了解は同時に道具を己れに対立するものとして見いださしめる“とし、自己と道具の対立関係に風土と道具の対立関係を見ています。

 和辻は人間が寒さを感じて服を着るという単純な構図を例にあげて述べています。
寒さの中に自己を了解した人間が、その寒さに対抗する手段として服という道具を用いる時、風土と人間の自己了解は一体であり、それによって了解された自己がその寒さに対抗する手段として服を用いる。
これを表層的にみれば、風土に対抗する手段として人間が道具を用いる構図に見えますが、その人間はもとより風土によって自己了解を獲得しているため、その人間が生き続けるために風土に対抗する手段として道具を用いる時、そこにある構図は風土対道具であり、かつそのどちら側にも人間が存在することになります。
それは風土対人間であると同時に、道具対人間であり、また風土対道具となります。ここには独立した三者はおらず存在する対抗関係は風土対道具であり、存在するのはただ人間のみです。その人間の中に風土と道具の対抗関係が内在的に埋め込まれているため、どちらか一方が相手を駆逐し勝利するということはありません。

 この風土と道具の対抗関係の間に人間の自己了解はあり、その反発し合う勢力の間で揺らぎ続けるのが人間であると言えます。
風土によって人間として自己を了解したヒトという動物が、生き続けるため、即ち人間であり続けるために風土的限定性(和辻の例で言えば寒さ)に対抗する手段が道具であり技術と考えられ、この和辻が言及した“道具”という概念の背景にあるのは、人間が人間としてあり続ける“ために”自身が自己を了解した風土的限定性に抗う欲求と技術、であり、それはあり続け生き続ける“ため”という、人間の永続性や普遍性への希求です。

 ここに初めて風土と道具、“風土の意思と道具の意思”の対抗関係という人間存在を常に揺り動かす二つの勢力の面影が現れます。この二つの勢力は風土性対普遍性、局所的偏性対普遍性とも必要によって言い換えることが可能です。

 和辻はその著作で道具という概念で風土と対抗する勢力に言及しましたが、この2大勢力の対抗関係は経済的視点を用いることによってその関係と性質をより明らかにできる可能性があるように思います。



7…風土の意思と貨幣の意思



 あらゆる一次的な経済的価値は風土より生まれ、それゆえにその経済的価値は風土的な限定性を内包します。例えばりんごという果物は一ヶ月も経てば腐ってその価値を失い、遠く離れた場所に輸送するには輸送費がかかり、また異なる風土で生産された肉や魚などの異なる経済的価値との交換の際にどの程度の比率で交換すれば良いのかが問題になります。すべての一次的経済価値はこの時間的、空間的、差異的な風土的限定性を持ちます。

 これは人間がその固有の風土の生産物のみに依拠して生きるのであれば構いませんが、その場合は様々な災害やそれによる飢饉や疫病などに対して脆弱にならざるを得ずその生活の豊かさや安定性は限られ、いずれその集団は存続の危機に直面せざるをえません。人間はそのような危機を乗り越えるために、経済的価値から風土的限定性を解放する手段を生み出しました。それが貨幣という道具です。

 貨幣は経済的価値から風土的限定性を解放し、経済的価値に時間的、空間的、差異的な流動性を与える手段として作られました。
貨幣の機能は価値貯蔵、流通手段、価値尺度とされますが、その三つの機能はそれぞれ風土的限定性である時間的、空間的そして差異的限定性に対応しています。
このことが示すのは、風土と貨幣の本質的な対抗関係です。厳密には風土と貨幣そのものというよりも、その背景にある根源的性質の対抗関係であり、風土の局所的偏性と貨幣の設計思想であり、それは風土の意思と貨幣の意思と呼べるように思います。

 この貨幣の意思は、人間が人種や風土を超越して持つ普遍性や永続性への希求であり、それが生み出したものは貨幣だけではなく数学や科学、様々な技術や普遍的な真理を求める哲学や倫理といったものから経済や政治など社会の仕組みや構造まで人間が風土的限定性を超えて存続し続けるために作ったありとあらゆる“手段”であり、それは和辻が指摘した“道具”という概念を背景に持ちます。そしてそれが今日の国家や社会、文化文明を築く原動力であったと考えることができると思います。

 和辻は“道具”とは常に、『〜するためのもの』であり、ゆえに道具はその目的を内在し、それを『ための連関』を持つと呼びました。そして『ための連関』は人間存在の風土的規定から発するとしました。
その人間存在の風土的規定から発した『ための連関』は様々な過程を経由したとしても、最終的には人間存在があり続けるため、という普遍性の希求に辿りつくと考えることができます。あらゆる道具とは、人間存在が存続し続けるためであり、その『ための連関』の最も単純なものの一つが和辻が例として用いた『寒さに抗するために服を着る』ということだろうと思います。



8…U.P.&L.P.の対抗関係



 人は自身の生きる風土固有の時間的(歴史)と空間的(土地)、そして異なる風土との差異から発生する差異的限定性からその固有の価値観、人間性、民族性といった個人的、社会的、民族的な偏性、すなわち固有の同一性を得、そしてそれがその人の価値選択判断を左右すると考えられます。

 価値の選択判断は、個人の持ちうる限定的な情報の範疇で、合理的に優劣がつけられたものから、優とされるものを選択するという意味では総じて損得勘定と言えます。しかし同じ価値観であっても、時間感覚が短期の場合と長期の場合、空間感覚が狭い場合と広い場合、さらにそれらの時間と空間への共感感覚の外にあるものに対する視座を持つ場合とそうでない場合でその選択判断は異なります。
卑近な例で言えば同じ一万円の使い方も今日だけを考える場合と、一週間先までを考える場合で昼食の選択は変わりますし、また向こう三軒両隣だけを社会と感じるのか、市や都道府県、国までを社会と感じるのかでゴミの分別に対する意識と行為は変わります。
また自分の属さない文化や宗教の施設が近所にあり、自身の共感可能性の外にあるものや人と道端で出会ったときの態度に排他でも同化でもない一定の距離と敬意ある関係性を持てるか否かは、差異感覚に左右されると言えます。

 風土の持つ限定性(時間的、空間的、差異的)は“ヒト”という動物を固有の社会性や文化、価値観を持った“人間”たらしめるものであり、人間の個性、偏性、局所性や同一性の源です。
しかし風土に強く執着することは局所性を強化し、時間感覚や空間感覚を狭め、差異にたいする排他性を強めます。それは個や集団の風土的固有性を強化しますが、ヒトという動物、人類全体にとってはそうとは限りません。それは限定的な時間性と空間性を持った個人の利益の追求が、より長く広く普く時間と空間と差異性をもった人類全体の利益に反することがあり得るからです。


 しかし個人の人間が自分自身の問題として現実感や肌感覚を持てる空間感覚と時間感覚には限りがあります。時間的に言えばヒトの寿命はせいぜい100年程度であり、子供や孫のことを親身に感じたとしてもせいぜい120年程度の時間感覚しか自身の切実な問題として捉えることは難しく、空間感覚も同様に顔見知りの隣近所と、行ったこともなく友人知人もいない地球の果ての他国を同等に感じることは多くの人には困難だろうと思います。
しかし人間社会や人類の規模で考えた場合には地球規模の空間感覚と千年万年の時間感覚が必要になります。具体的に言えば核廃棄物や遺伝子組み換えなどの環境問題や国の長期の政策は、100年の規模で考えれば損ですが千年や万年の規模で考えれば得または必要となる選択というものが存在します。
人類の損得勘定としてはそれを選択せねばなりませんが、その選択をするのは限られた時間と空間感覚で合理を判断(損得勘定)するしかない個人の人間とその集団です。
そこで必要になるのが共感に依存しない価値観です。自分の肌感覚としての空間感覚と時間感覚の外、自分の共感可能性の外にある差異、異物に対する感覚をどう補完するのかが問題になります。それがなければ人間が人間としてあり、そしてあり続けるという普遍性への希求が果たされることはないだろうと思います。

 数字は連続性から時間感覚の拡張を、言語は概念(見えなくとも存在するもの)から空間感覚の拡張を人に与えました。そして倫理がそれらの拡張された時間感覚と空間感覚によって拡大された共感可能性のさらに外にあるもの、自身の空間、時間感覚の外にあるもの、共感し得ないものに対する、共感に依存しない関係性を構築するための差異的感覚を拡張させたと言えます。それは主観を越えた客観の視座であり、普遍性や正義の感覚であり、自身とその対象の関係性に依存せずに、世界に対峙する視座です。
見えない過去と未来、いったことのない場所、共感の外にあるものに、個人の限定性を超えてリアリティーを与える数字と言語と倫理はUniversal Public 的といえ、それに対抗する力としての風土の限定性はLimited Public 的といえます。

 そして価値観だけではなく、経済的価値もまた風土の限定性から生まれ、そしてすべての一時的経済価値はそれの生まれた風土固有の時間的、空間的、差異的限定性を持ちます。その経済的価値から、時間的、空間的、差異的限定性を解放する手段である“貨幣”は、その機能である“貯蔵”、“流通”、“交換”がそれぞれに風土的限定性に対抗するように設計されているため、貨幣の設計思想はUniversal Public的と言えます。


 Universal PublicとLimited Publicの対抗関係は、別の言い方をすれば、風土の意思と道具の意思、局所性と普遍性の対抗関係が持つ価値の対抗関係です。



9…劣化とみなされるもの



 社会の価値観が問題になる時、それを突き詰めれば時間と空間そして差異感覚の問題になり、その要は風土( 時間的、空間的そして差異的な限定性)にあるといえます。時間感覚、空間感覚&差異的感覚の減退はU.P.的なものの減退です。それはL.P.的なものの台頭であり、局所的感覚を強め、時間的に短く空間的に狭く、差異に過敏になるといえます。現代社会で起きているFake newsや正しさからの撤退と見受けられる事象は、俯瞰的には普遍的正しさからの後退と、局所的正しさの台頭であり、U.P.からL.P.への勢力バランスの移行です。


 人口が減少し、豊かさが失われ、緩やかにしかし確実に貧しくなりゆく社会で、現状の維持さえ簡単ではなくなり、時間的には100年先より30年、4年先より半年後というように優先されるものが次第に短期化し、空間的にも狭く、仲間とみなせる人々の数も縮小し、優先して守れるものの規模が縮小していく共感可能性の範囲の縮小を、人間の劣化と見ることはある意味正しくもありますが、しかしその評価は一面的だろうと思います。
 近年インターネット上で見られる言論も時間的、空間的、差異的な意味でも共感感覚の縮小したものが目立つように思われます。それらにおもわず劣化という言葉を連想するのはある意味自然なことだろうとは思います。

 貧すれば鈍するという言葉は、時間感覚、空間感覚、差異感覚の縮小を、高潔さや才気が失われ劣化することといいますが、それは主観的視座からの評価であり、その変化の本質はネガティブでもポジティブでもなく、ただU.P.的なものからL.P.的なものへの感覚の移行と言えます。

 そしてU.P.的なもの、L.P.的なもの、そのどちらもヒトという動物が人間としてあり、そしてあり続けるために生まれた価値観であるため、そのどちらにも必要性と正当性、そして問題点があり、優劣をつけるのは困難です。

 その意味でU.P的なものL.P.的なものの間で人間社会はゆらぎ続け、どちらか一方の価値の台頭が起きるとき様々な社会問題が生じますが、そのいずれかの価値観、そしてその台頭を劣化と呼ぶのはふさわしいとは言えず、劣化とはどちらか一方への過剰な偏りとゆらぎの停滞をこそそう呼べるように思います。

 U.P.とL.P.いずれかが時により場所により過剰になる際、その現れとして社会に発生する問題の源はそのいずれかへの力の移行であり、それへの不満と反発は新たなより戻しを生む力となるだろうと思います。ですが俯瞰の視座として見たとき普遍性からの後退と局所性への回帰、またその逆は、人間存在に内在する根源的な対抗関係の現れなのだろうと思います。


 そしてインターネット技術とその空間も、それを可能にした様々な技術は人間の普遍性への希求に突き動かされて発展してきた数学、科学、工学、軍事技術などの通過点であるためU.P.的と言えます。それゆえにインターネットと風土の対抗関係や、インターネットと貨幣の親和性は、“風土と道具”そして“局所性と普遍性”という人間に内在する本質的な対抗関係をその根拠とするための必然と言わざるをえないだろうと思います。

 今後数十年〜百年〜とインターネット的なものが社会の基礎的な基盤として持続発展する可能性は大いにあると思いますが、それがどのような形になるのか確かなことは誰にもわからないだろうと思います。技術の発展の方向性を想像することはできても、それがどのような形で人々の生活に関わり影響を与えるかは皆目検討つきません。      
そもそも今と同じような形で社会や国家、経済や政治があるかさえ確かではなく、それらと未来のインターネット技術がどのような関係性にあるかを予測するのは、90年前の人が昨今のSNSの諸問題を予測するくらいには難しいことだろうと思います。
ですが、どのような形で現れるかはわかりませんが、局所性と普遍性、風土と道具の対抗関係は人間に内在する対抗関係であるため、インターネットがあるならば風土とインターネットの対抗関係は100年の未来においてもいずれかの形で存在するだろうと思います。


2020/6/15th


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