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#BLM


1... ネット型抗議運動の風土的越境とその正当性について


世界の様々な地域で報告される非人道的な事件や社会的状態に対し、ネット上で人々が風土を超えて共感を示し抗議の運動が世界的に広がることが現代では時折起こります。ネット以前はそのような事件報道は基本的にはマスメディアを経由して広がっていたため、その時間的な遅延や編集によるフレーミング作用で時間的にも、感情的な勢いとその方向性もより緩やかなものだったように思います。

 近年見られるその勢いと広がりはインターネットが普及した現代特有の、風土を超えた個人がSNSを経由しての直接に近いコミュニケーションが可能になった故の現象と言えるのかもしれません。厳密にはSNSプラットフォームの規制があるためダイレクトなコミュニケーションではありませんが、タコツボ的に情報環境が過剰化するネット空間特有の性質もあって、ネット型の抗議運動は感情的な勢いと瞬間的な爆発力がネット以前の運動とは大きく変化したように思います。

 そのような現象が起こるたび、私はその発端となった事件や社会的状態そのものに対しては酷いことだと感じ、そのようなことが誰にであれ起こらなければ良いと思うことはあっても、それに対する抗議の運動に参加することには常に躊躇がありました。

 その理由は風土にあります。かつて哲学者の和辻哲郎は、風土とは人間の自己了解の仕方だと言いました。その個人的な解釈ではありますが、風土はヒトという動物に空間的、時間的、差異的という三つの限定性を与えることで規定し、その規定によってヒトは固有の偏性(言語、文化、習慣、善悪道徳などの価値観など)を獲得し、自身を一個の人間として見出すということだろうと思います。そのために普遍的人間というのは実在せず、いかなる人間も自身に内在する固有の風土がその人間性/個性/偏性となって個人として存在するのだと思います。

 そう考えますと人間というのは非常に従属的かつ受動的な存在であり、自分では自らの意志や価値観だと感じるものもそれは視座を変えれば風土の意志であり、人間は風土の意志を体現する存在でしかないということになります。
 しかしながら、人間には風土を超えて共感し、風土的限定性を超えてあり続けたい、生き続けたいと望む普遍性への希求があることもまた確かだろうと思います。それはあらゆる人類に共通の生物的、遺伝的な部分から発する希求と言えるのかもしれません。

 人間存在は風土によって自己を了解しながらも、その風土的限定性を超えて普遍性を求めるという、風土性(局所性)と普遍性の間で場所により時代により大きく揺れ動く常に未決定の存在なのだろうと思います。

 そのように人間存在を考えた時、私は世界で起こる一見非人道的な事件や状態に対して、自身の固有の風土に了解された価値観や善悪、正義、不正義の感覚を風土を超えて適用し意見表明することにどの程度の正当性があるのかということに疑問を持たざるを得ませんでした。

 もしかしたら、その事件や状態を人間存在の普遍的性質への冒涜であると批判することは可能かもしれません。しかし自身の価値観のどれが風土的偏性に由来し、どれが普遍的性質に由来するのかを見極めるのは非常に困難なことだろうと思います。それどころか自らを規定する偏性そのものの偏りを自覚するというのは本来的に不可能なのかもしれません。例えればそれは物心ついた時から自分が一度も外すことなく掛け続けている色眼鏡が何色なのかを、それを外さずに知るようなものだからです。

 異なる風土で起きたことに対しそれが一瞥には明らかな不正義に感じたとしても、自分のその不正義の感覚もまた自身の偏性に由来する可能性を考えれば、異なる風土の異なる偏性を持つ人々や社会にそれをそのまま適用することは、相手の風土(空間的、時間的、差異的規定)への敬意を欠く行為であるように感じます。

 風土が人間の自己了解の仕方であるならば、あらゆる風土的偏性に根を持つ善悪や正義不正義などの価値観は、それが見出された風土(空間性、時間性、差異性)においてのみ根拠と正当性を持つと言えます。それは異なる風土から観察して明らかな不正義に見えることも、それが見出された空間性、時間性、差異性の範疇においては正当性と根拠を持ち、また自分には明らかな正義と感じることでさえそれが見出された空間性、時間性、差異性を逸脱すればその根拠も正当性も失いうるということです。現代のようにインターネットによって行為や言動が容易に風土を超えて拡散する社会においては正義、不正義、道徳や善悪などの価値観が問題になる時に最も重要なことは、風土的リテラシーとしての空間感覚、時間感覚、差異感覚を持つことなのかもしれません。それは異なる風土に対する敬意であり、またあらゆる風土的偏性由来の価値観の正当性と根拠は風土を超えるときに全て失われることを前提に振舞うという慎重さだろうと思います。

 そしてさらにことを難しくするのは全ての価値観はそれが風土的偏性由来の価値観ではなく、人間の普遍的性質に由来する可能性があり、しかしそれが個人には容易に判断し難いことにあります。

 そのような理由から、これまで風土を超えた世界的規模の抗議運動や価値表明に賛同することに躊躇を感じていました。



2… "痛み"の普遍性



 先日あるyoutubeの動画を見てその考えが少し変化しました。それは“ダースレイダーx宮台真司 #100分de宮台 第4回”という動画でした。そのなかで社会学者の宮台真司さんが、リベラリズムに関する対話のなかで、人間の幸福の多様さと不幸の多様さは異なるという話しをされていました。幸福は人間によってヴァリエーションが様々にあり、普遍的幸福のようなものを合意するのは難しいが、一方不幸というのは多様さが少ない。それは基本的には“人間としての存在が失われる”ことであり、それは場合により身体的な死、精神的な死、社会的な死であり、具体的な形としては差別、飢餓、病、孤立、貧困などとして現れるけれども、それらは総じて人間としての存在が失われるということに集約される、というような話しだったと思います。
 様々な風土(局所的偏性)を内在する人々が一つの社会や国家に含まれる現代においては、それらの多様な人々を政治的につなぐための手段として、幸福の分配ではなく不幸の配分が、その不幸の普遍性ゆえに共通の前提として機能するという話しだったと思います。
 それはかつて国家という枠組みが力強かった時代は、豊かさを分配するのが政治の役割だったがその時代が終わり、皆に行き渡る豊かさが失われた結果、今度は国家という枠組みを維持するために貧しさ/不幸の再配分が政治の役割となって異なる人々をなんとか国家という体裁に収めている、というような話しの中ででてきたことだったように思います。
 これはこの動画シリーズの前回の宗教に関する対話で、宗教はなぜこの喜びがあるのかではなく、なぜこの痛みがあるのかを問題とするのかという話しにも通じる、“痛み”の普遍性のことだと思います。

 このことはとても面白いことに思えます。これまで人間の持つ価値観のなかでどれが風土的偏性由来でどれが普遍的性質に由来するのかを判断するのは難しく、そのために世界的な抗議運動などでの風土を超えた価値の越境の正当性が常に疑問でした。しかし人間の不幸に関する多様さは少なく、もし概念的には“人間という存在が失われること”という一点に集約できるのであれば、なにが幸福でありなにが正義であるかという価値の風土的規定の越境は困難であっても、なにが不幸でなにが不正義だという価値の風土的越境は可能なのかもしれません。
 すくなくともなにかを人間にとっての普遍的な幸福であると主張するよりは、なにを普遍的不幸と主張することの方が容易に思えます。
そして人間の不幸が一様であり、幸福が多様であるならば、人間の幸福は風土的偏性に由来し、不幸は人間の普遍的性質に由来すると考えることができるのかもしれません。

 もしそうであれば世界的に風土を超えて広がる様々な抗議運動が、それは人間の普遍的性質に対する冒涜であり人間存在にとっての不幸であり、不正義だと、風土を超えて批判し主張することには一定の正当性があるかもしれません。しかしそのような抗議の表明の際に慎重でなければならないのは、なにが幸福であり、なにが正義であるかには言及してはならないし、主張してはならないということです。それは幸福や正義などのポジティブな価値観はその風土的規定(空間的限定性、時間的限定性、差異的限定性)においてそれを内在する人々だけが見出すことができる多様な価値観だからです。しかし不正義の主張と正義の主張は表裏一体であり、ともすればそれはこれが正義なのだという主張に変化してしまう可能性が常にあることを認識することは重要なことだろうと思います。

 そうなると今度は、もしその抗議運動の発生した風土の当事者に、その世界的抗議運動に対してこれは我々の風土の正義なのだからなにも知らない余所者が口出しするなと主張された場合にはどう考えれば良いのかが問題になります。
 確かに、その固有の風土においてなにも問題がなく成立している社会に対して、それを異なる風土の人間からどれほど異様に見えたとしても、突然押しかけて行ってその価値観は不正義であり人間の普遍的性質への冒涜だと主張することには、正当性はないだろうと思います。そこに痛みがないのであれば、それは人間の普遍的性質への痛みとは見なせないからです。

 しかしその風土において社会的な対立が内側から発生した場合においては、異なる風土の人間であっても、自らの置かれた状態を人間存在の普遍的性質にとっての不幸や不正義と主張し抗議する人々に対して、応援と賛同を表明することには、一定の正当性はあるだろうと思います。しかしもちろん、どのような場合であっても異なる風土における正義と幸福の構築には一切干渉してはならないことにかわりはないだろうと思います。

 繰り返しになりますが、その根拠は人間の幸福の多様性と不幸の一様性にあります。人間の幸福や正義は風土的規定に由来し、その風土の局所的偏性の中に見出されるが故に多様であり、現代のような大規模定住社会で共通の合意を見出すのは困難ですが、不幸は人間の普遍的性質、それは永続性や普遍性を希求し、端的に言えば人間としてあり続けたい、生き続けたいという大規模定住社会においてさえ合意可能な一様な性質をもつからだろうと思います。

 現在アメリカで起きているB.L.M.の抗議運動ですが、日本など異なる風土に生きる人々が、そこにある不正義と不幸に抵抗する人々に同情と賛同を表明することに一定の正当性はあると思います。それが人間の普遍的性質に対する不正義であり不幸であるならば、たとえ異なる風土の人間であったとしてもその問題の当事者であると考えることができるからです。



3… アメリカの困難



 しかしこの抗議運動やそれに対するアメリカ大統領の国民を分断するような振る舞いを大局的に見たとき、それをどう評価すべきなのかは、簡単に決められるものではないだろうと思います。

 基礎的なことから考えると、そもそも国家という枠組みが何のために作られたかと言えばそれは戦争を行うためであり、政治とは戦争で得た戦利品を分配するための仕組みと考えることができると思います。戦勝の利益のために異なる人々が力を合わせ、共通の規則に合意して保たれているのが国家だろうと思います。戦勝によって得られる利益は、例えで言えば100人の人々が300人分の豊かさを分け合うことになるため、皆が納得できる余剰の豊かさの配分の仕方を合意できる仕組みが必要となり、それが政治と言えます。そのため政治とは“豊かさの配分”ということがその始まりであり本質だろうと思います。

 今起きていることは一言で言えば戦争が困難になった時代に、国家と政治がその根拠を失いつつあるということだと思います。
なぜ戦争が困難になったかと言えばそれは人権運動や平和運動ではなく、メディアの発達による情報統制の難しさもありますが、第一には核兵器の影響だと思います。
この兵器は非常に不公平な兵器であり、それを戦争に用いると国力が戦争の結果にうまく反映されなくなります。明らかに国力と戦力に差のある大国と小国が戦争をしたとき、核兵器がない時代であれば互いにその戦力に応じた被害を与え、その結果はちゃんと国力を反映したものになることを期待できました。
 しかし核兵器以後は例えどんなに国力も戦力もない小国であっても、一発でも相手国に核による攻撃を成功させれば甚大な被害を与えることができるようになりました。そのため核兵器の誕生によって最も利益を得たのは、核兵器をかろうじて持てるような小国であり、彼らはそれによって本来ならば持てないような国家間の交渉力や発言権を獲得しました。一方大国は核拡散の結果として、容易には戦争を起こすことができなくなりました。そのために代理戦争や戦争以外の形での資本主義経済的な侵略など、様々な工夫を第二次大戦以後模索してきましたが、そのような国際的な“見えない搾取と侵略の構造”は結果的にテロリズムという形での反発を引き起こし、それはテロとの戦争という“相手の見えない戦争”となり、これもまた困難な状況に大国を追い込みました。もしも核兵器もメディアの発達もなく自由に戦争行為ができていたならばラストベルトや落ちぶれた白人中間層などなかったろうと思います。

 そのような理由から戦争が困難になった時代には国家という枠組みの根拠が失われ、また当然の結果として戦利品という豊かさの分配もなくなり政治の根拠も失われます。
そのような状況において惰性的になんとか国家という枠組みを維持するために、国家は貧しさの分配ということを政治の役割に置き換えようとしますが、それは簡単なことではありません。
 そもそも異なる人々が戦勝による利益の分配を目的として、それぞれに我慢をして国家の規則に合意し、普遍的な正しさを尊重してきたのが、戦勝による豊かさの分配が期待できなくなり、国家という枠組みを維持するために貧しさの再配分、すなわち豊かな人々から貧しい人々への豊さの移転が行われるようになると、期待した利益は無いうえに、誰かの正しさを押し付けられ、さらには自らの豊さをどこかの誰かの貧しさを埋め合わせるために奪われるということになり、そんなんだったらそこに属しているメリットなど無いと判断し、国家という枠組みを離脱して自分達の風土で自分達の正しさと幸福と豊さを第一にして生きていこうと考える人々が現れるのは当然の流れだろうと思います。

 このままの流れで進めば、EUとそこに属する各国のような関係にUSAとその各州の関係も近づいていくだろうと思います。もしその流れが変わりまたユナイテッドステイツに向かうことがあるとすれば、それはなんらかの変化によってまた戦争が可能となり、国力に応じた戦果を期待できるようになり、国家事業としての戦争のコスパが良いと算段できる状況になることでしかありえないだろうと思います。
そう考えますと、“戦争以後”の時代を期待するのであればUSA的なものが分割され各州の力がより強まりその風土に応じた幸福と正義に各州が回帰することは決して悪いことではないだろうと思います。
そう考えればアメリカを分断/分割する大統領としてのトランプの振る舞いの見え方も変わってくるかもしれません。

 今回のB.L.M.の発端となった事件も、これまでポリコレ的な普遍的正しさを強いられてきた人々がコロナ的ストレスも相まって我慢の限界を向かえ、自分達の風土的偏性における正義をSNS上で風土を超えて拡散されるのを承知で露骨に行使し始めたのが一因と見ることもできます。もちろんトランプ大統領時代そのものが既にその流れの中にあると思いますが、今回のコロナによる経済的な疲弊はそれに拍車をかける結果になったのだろうと思います。
 今回の事件に見られるように局所的な風土的偏性における正義は、その偏性故に時に誰かの貧しさや差別などの不幸を過剰に正当化しかねません。戦争以後の時代に国家という枠組みの役割があるとすれば、基本的には国家よりも小さい、人々の身の丈にあった規模の共同体の枠組みにそれぞれの風土の正しさと幸福の追求を認め、その上で人間の普遍的性質に対する冒涜とみなされる程の貧しさ、差別、といった不幸が生じた場合にはそれに介入するということなのかもしれません。



4… 風土と国家の意思



 風土とは特定の領域の、空間的、時間的、そして差異的な規定であり、その風土の意思というものは、その規定に内在する個々の要素から創発するその領域の特質だろうと思います。

 その規定をどのように設定するかで多様にその領域と特質は変化し、かつそれは重複的に設定できると考えた場合、州、群、県、市、村、町などの規定にはそれぞれの風土の意思があるだろうと考えられます。

 そして国家という枠組みを規定する時、もちろんその領域にも固有の風土(空間、時間、差異)的規定は見出されると考えられ、その時その風土の意思はその国家の意思としての憲法の根源となるのだろうと思います。
和辻の言ったように人間存在は風土によって規定され、ゆえに風土に対して従属的な存在と見る視座から言えば、 国家の憲法意思の源は人間ではなくその空間的、時間的、差異的規定としての風土にあり、それはその風土に成立する国家をその意思から逸脱しないように制限するものであり、憲法は国民による風土の意思の解釈と考えられるように思います。

 人間はその風土に生まれ、生き、死ぬことを繰り返し、その風土の時間性、空間性、差異性から言外にその意思を了解するのだろうと思います。ゆえにその明文化は非常に困難であり、憲法の明文はその空間性が変われば変化し、空間性が変わらずとも歴史とともにその時間性が変わることでも変化しますが、それを体現する人間が世代交代して総入れ替えしても、その根源としての風土の意思は確かに、しかし言外に存在するのだろうと思います。

 憲法の根源は明文化されたその字面にはなく、また起草者ふくめいずれの人間の中にもなく、ただその風土的規定にあるがために憲法は常に改正され続けるのだろうと思います。その過程は国民がその国家の風土的規定を獲得し発見する過程なのだろうと思います。
 そして今、B.L.M.運動として問われていることは、アメリカという国家の枠組みの時間的、空間的そして差異的な規定から創発するその風土の意思としての憲法意思は、この人々の不幸、そしてこの不正義にどう対応するのかという問題だろうと思います。



5…共感の範囲



 そもそも人間という動物が自然に営める共同体の規模(そこに属する人々を自分のことのように感じ共感できるという意味での共感可能性の範囲)はせいぜい数百人程度だろうと言われ、ダンバー数というものがその根拠として引き合いに出されることがあります。これは“人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限”とされるものでロビン・ダンバーという人類学者が提案したものだそうです。それは親しい仲間意識を持てる人数の上限と言い換えてもよいもので、ダンバーはそれを150人程度ではないかとし、その原因を大脳新皮質の情報処理能力そのものの上限に求めています。

 そのような人間が本来自然に持っている共感可能性の範囲の上限を、これまで人間は様々な手段を使って空間的、時間的、差異的に補助することで、何億人という規模にまでその共同体の規模を拡張してきました。そのための手段とは文字や数字、貨幣や法律、神話などの物語や音楽、美術のような基礎的あるいは文化的なものから、最先端のIT技術のようなものまであらゆるものが使われてきました。ですがそうやって拡張してきた共同体の規模は、その手段の一部でも問題を起こして機能しなくなると、すぐに人間という動物本来の上限に引き戻されるのは当然だろうと思います。そしてそれは必ずしも悪いことだとは言えないことなのかもしれません。

 確かに共同体の規模が大きくなればなるほど、工業や農業など社会の生産性は増え、それによって様々な職種が発生して学問や文化の発展は促進されます。そして人口が増大してもなおすべての人に配っても余りあるほどの衣食住等の豊かさを生産することができるようになりました。しかし今度はその共同体の大規模化を可能にしたシステムそのものによって配っても余りある衣食住は配られることなく一部の人々に独占されています。そうであれば生産性や豊かさなどの経済力は落ちるかもしれないが、そこにあるものを皆に配ろうと意思決定できる範囲にまで、共同体の規模を縮小調整しようという考えは妥当なのかもしれません。

 それが現在アメリカで起きている分断の一面である可能性を考えると、その大局的な流れもトランプ大統領の振る舞いも、どの視座を取るかで大きく変わるように思います。

 B.L.M.運動に関して言えば、そのような大きな変革期にはその過程で様々な社会の問題が露呈し、これまで見えにくかった苦しい状況に直面する人々が顕在化することは確かであり、いかにその大局的な流れが必然かつ正しいとしても、それらの人々をどう手当するかということは大きな問題であり、そしてまさにそれにどう対処するかがその変革の道筋を定め、その変革のたどり着く先を左右するように思います。

2020/6/11th




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