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新聞記事で追いかけるFM(1)

※この記事はATKの勉強会をベースにしました。
※写真は2017年に撮影したワラタの町です。奥にビショフ山が見えます。

はじめに

アレクサンダーが登場するのは1886年からだ。彼は1885年にワラタへ行き、ビショフ山スズ鉱業会社に務めた。彼の趣味はヴァイオリン、演劇、競馬だった。ヴァイオリンに関連した彼の記事は見つからないため、ここでは演劇と競馬をまとめる。

演劇

彼が最初に現れた記事は主に二つ。まずは1886年3月にアマチュア演劇に参加した記録がある。彼は「F. Alexander」で活動していた。

彼の演じた「ポール」は第二幕に登場し、郵便物を運ぶ奴隷の少年だ。借金取りからの手紙を運んできた彼は、元テレボンヌ提督のマクロスキーに取り押さえられ、殺される、そんな役だ。

次に登場したのは、同年9月11日の記事だ。

トム=テイラー作『The Ticket of Leave Man』は、アレクサンダーが気に入っていた脚本の一つ。後にジェームス=カスカート氏にも脚本をもらってレパートリーとなった。一緒に出演したF=A=ホーンは彼の会計事務所の上司だ。彼の演じたサム=ウィロビーは第二幕と第三幕に登場する。

これらの記事が示したのは、彼が移住当初から演劇クラブに参加していたことだ。しかし、これ以外の期間で彼が演劇に参加した記事はまだ見つけられていない。

競馬

彼が生涯の趣味としていた競馬がある。彼は1886年末の競馬に調教した馬を出走させた。彼の訓練していた馬は青鹿毛の牝馬で「エステル」と呼んでいた。

彼の馬は敗者復活戦で優勝し、7ポンド10シリングを得たが、本戦では2着だった。エステルが出走したレースはこれだけで、高齢馬だったため引退したかもしれない。

その他

1886年5月26日の記事によると、ワラタ道路公社で料金徴収人に任命された。しかし、1887年12月13日の記事では退任し、ビショフ山スズ鉱業会社の支配人が後任に就いたとある。

1886年6月19日の記事によると、ワラタ体操クラブで書記を務めたとある。ワラタの待ち自体が鉱業によって発展し、鉱業会社の支配人カイザー氏が町全体のまとめ役のようなものだった。自伝では思い出しておらず、自らの意思か定かではないが、そんな地域活動にアレクサンダーは一員として参加していた。

おわりに

1888年の新聞ではアレクサンダーの名を見つけられていない。

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