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原点は何?って聞かれるので

起業しているといろんな事が起こります。時々、なぜ今の仕事をしようと思ったのかを自分で思い起こして原点に戻るようにしています。

国内航空会社パイロット試験に失敗し渡米

国内でのパイロット試験に失敗すると一生パイロットになれないという烙印を押されるような意識がある時代でした。海外に行くとパイロット資格が取得できる情報を入手し渡米を決意しました。闇の中で少し光が見えた瞬間でした。

就労ビザが取得できず帰国

経験ゼロからスタートして教官パイロット資格を取得することができたものの、就労ビザがなく帰国せざるを得ませんでした。アメリカで夢が実現できるかもと思っていたのに.... そんな中帰国して日本の資格に切り替えてプロパイロットになっている人たちが出始めているという情報を聞き、国内訓練を決意しました。闇の中で少し光が見えた瞬間でした。

日本国内でのダブルパンチ、いやトリプル?

日本国内の訓練スタイルに戸惑いながらなんとか日本の事業用操縦士を取得することができたものの、バブル経済が弾けていて、自費で計器飛行証明まで取得していないと受験できない状況に変化していました。日本での就職のチャンスを2度も失いました。短期のアルバイトで食いつなぎ、やっと見つけた米軍横田基地の教官職のチャンス!見事面接で不合格... 横田があるってことは嘉手納もあるのでは?と思い連絡するとなんとありました!闇の中で少し光が見えた瞬間でした。

念願のパイロット職!でも厳しい現実

面接も無事合格し、書類手続きや研修も終わりようやく独り立ち。担当する訓練生やグランドスクールも決まり、薄給ながらも初めてお金をもらってフライトする感動を味わいながら、長かったなあとまるでゴールしたかのような勘違い。

担当した訓練生は去っていき、担当したグランドスクールでは毎回生徒が減っていく、最後に残った生徒同士で教えあって自習している始末。そりゃそうですよね。英語を母国語としない「変な英語の新米教官」ですから。厳しい現実を突きつけられました。

なんとか乗り越え始めた頃にスクール閉鎖

当時のチーフインストラクターからのアドバイスを聞き、試行錯誤を続けながら教育技法を模索していました。訓練生一人一人みんな違うことを実体験で理解しました。教官なりたての頃は、自分が受けた方法が基準です。そこからどれだけ広げられるかが教官の面白みであり醍醐味です。と段々その段階にきたところでバッドニュース。今月いっぱいでスクールを閉鎖しますと。幾度とあった試練もここまでと観念しました。

スクール復活・チーフ昇格・試験官昇格、でも掴めない渡米のチャンス、そして病気

キッパリ諦めて地上職に就職。半年後元の上司チーフインストラクターが私のオフィスへ遊びにきて一言。復活するぞ。戻ってこいと。キッパリ諦めていたはずが、メラメラと再燃して復帰への道へまっしぐら。

スクールの復活、チーフへ昇格、数年間指導していただいた上司もアメリカに帰国し、その後任として試験官へ昇格。順風満帆とはこのことだったんでしょう。これまで教えてきたアメリカ人訓練生たちが就職するアメリカ国内の就職の可能性を探りました。面接や試験で合格するも、またもや就労ビザが関門でした。いろんなビザの種類の可能性を探りました。最終的にこれならいける!と渡米が決定した途端。アメリカ同時多発テロ。

しぶとさだけは自信があったのですが、さすがに折れました。目の前の仕事、目の前の訓練生に目を向けて、日々業務をこなしていました。しかし心のどこかでアメリカへの夢は諦め切れていない自分がいる中、突然の病気。人生初の入院生活。しかも入退院を繰り返すこと1年。完全にパイロット人生を諦めるしかない状況。パイロット業務に必要な身体検査証明書を取得することもできない状況。人生を考え直しました。再設計が必要だったのです。

教官パイロットとして生きていく

夢見ていたエアラインパイロットを選択肢から完全に外しました。目の前の訓練生の成長ぶりが間近に見れて感動を味わえる教官パイロットという仕事に集中する。人間やりたいこととできることは違う。教えることが好きで大学も教育学を専攻し、好きな飛行機に携われることに改めて恵まれた人生である現実に感謝しました。病気になる前にはフライトシミュレーター教育についてFAAの審査官と共に新教育技法について調査や実験をしていましたので、フライトシミュレーターを使って、これまでの知識と経験をパイロット育成に貢献したいと考え始めました。

私を拾ってくれた上司からの教えを踏襲した考え方。カスタマーにはとことん楽しませるサービス精神。楽しませながらも厳しく教えていく。安全を第一にしながらも経験値を広げていく。

そんな考え方を常に意識していくと、不思議なことに体調もよくなっていき、難病と言われた病気も再発もせず、薬も服用せず、今では医者から不思議がられるほど寛解を維持しています。私の使命は自分がエアラインパイロットになることではなく、パイロットを育てる教官パイロットという生き方の方が正解なんだとはっきりとわかった頃でした。

これまでの失敗や紆余曲折が教官パイロットとしての引き出しをたくさん持つことにつながっていることにも気付きました。操縦を教えることはもちろん、キャリアを積む時のハードルやそれらの乗り越え方など、改めてこれまでのことが全て糧になっていることに気付きました。どんな訓練生が来ても教える自信が出てきました。上司からも言われてました。それぞれのレベルにあった教え方を身に付けろ。それができて本当のプロ教官パイロットだぞと。

アメリカの空を日本でも

まだまだ日本の空は閉鎖的です。飛行機を楽しむって人は限られています。そんな壁を壊したい。そんなチャンスがやってきたのが沖縄県下地島空港利活用事業でした。審査プレゼンでは私の夢を語りました。私の経験値を全てかけて沖縄でそれを実現したい。私が見てきたたくさんのパイロットの卵たちのような満面の笑顔の国内外のカスタマーを沖縄で見たい。

アメリカのフライトスクールにはたくさんの笑顔があります。日本のスクールには顔さえ見ないところがたくさんあります。なので私は自分の会社のホームページでも笑顔を見せています。だって楽しいところなのですから。

フライトシミュレーターというツールを使って、私がアメリカで体験した世界を伝えています。空の世界を伝えるという大事な使命を持ってやっています。そしてパイロット資格という命に直結する大切な訓練としても使っています。アメリカではその楽しむという側面と訓練という側面を実機で実施しているノウハウを持って実施しています。

今後は下地島空港で実機を導入して 「アメリカのような空」を実現する予定です。シミュレーターで学び実機で確認する。Simulator is the classroom and Airplane is the showroomを実現します。


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