虚空への想像

そこにないものを観る妄想を育て、それを互いに共有する狂った方法から私たちの文明がスタートしている以上、その文明はないものを追求して果てしなく進んで行くことになる。そのシステムはある時点までは進化あるいは進歩と呼べる方向へと人間を導く。しかしどこかの時点で、その方向は反転する。文明があらゆるもので一旦満ち足りてしまうと、今度は満ち足りていない状態を渇望するようになるのだ。

そこにないものへまなざしを向ける妄想をやめない限り、それを無限に繰り返すだろう。

 妄想とはどこにも「ない」ものを「ある」として想像することである。しかし私たちの頭は「ない」ものを「ない」として認識することは本来できない。「ある」ものを「ない」として想像することはできる。しかしそれは「ない」という状態が「ある」ことを発見するのである。何も「ない」という状態をそのまま想像することは元々できないのである。

 数字のゼロもゼロという存在を「ある」として発見することである。「ない」ということを発見することは私たちの脳では不可能なのである。だから妄想を持っている以上、常にないものを「ある」として生み出していく方向にしか進んでいくことはできない。例え何かを取り去っていく方向であったとしても、それは「ある」ものが「ない」状態として「ある」ようにするという認識でしかないのである。虚空そのものを想像することはできないのである。 

 全ての物事は生まれては消えていくというのがこの宇宙の本質である。ずっととどまっているものは何一つない。とどまっているというように妄想するだけであり、長いスパンで見ると実際には永続していくものなど何もない。それは広大な宇宙の動きから電子のスピンに至るまで、どのスケールにおいても変わらない真実である。あらゆるものは常に生まれては消えていくことを繰り返しているのである。

 分子生物学的に見ると私たちの身体などというのはない。数十兆個の細胞の塊である私たちの身体は常に代謝を繰り返している。細胞が生成され、そして消滅していくプロセスしかそこにはない。十年前の自分の身体と今を比べると、その大半の細胞は入れ替わってしまっている。同じ身体であると私たちはしているが、本来それは妄想である。

 もっともスケールを上げて量子力学的に見てみるとさらに奇怪なことになる。全ての物質は原子という最小単位が集まってできているとされるが、その原子は原子核を中心に電子が動き回っている。私たちには硬く動かないと思っている物質を構成する原子の中でさらに電子が動き回るという段階で、もう想像することも難しいが、止まっている物質などないことは理解出来る。さらにその電子がどこに存在しているのかは確率的にしか存在しないと今の物理学ではされている。電子そのものがものすごい速度で生まれては消えているのかもしれないが、私たちでは想像することも理解することも及ばないことが起こっている。

 いずれにせよこの宇宙にある全ての物事は常に生成と消滅を繰り返しており、永続するものなど何もない。それは私たちが望もうと望まざると変わらない真実であり、民主的に決まるわけではない。妄想という能力をもった私たちは、そこになかった何かが生まれることを理解することはできる。それが妄想であったとしても、何かが生まれることの原因があるからだ。そしてあるものをあるものとして認識することもできる。あるものが消えてなくなることも想像することができる。しかしないものをないものとして理解することができない。実はこのないものをないとして理解できないことが、私たちの本質にかかわっている。ないということには理由も原因もないからである。

 私たちは誕生を経験することができるが、死は経験することができない。誕生には原因があるが、死には原因はないのだ。私たちが生まれたのは両親が交配して卵細胞に精子が結合したからである。その小さな卵細胞が細胞分裂を繰り返して、今の私たちの身体になっている。両親という原因があって結果として私たちがいることは想像することが可能である。

 一方で私たちが死んでいくことにはどのような理由があるだろうか。細胞が壊れていくから死んでいくのではあるが、なぜ死ぬのかという本当の原因については理解できない。細胞が死んでいくアポトーシスというメカニズムは理解されている。しかしそれがなぜ引き起こされるのかという本質的な理由は説明できないのである。理解出来るのはあるものがなくなるという想像と、死へのメカニズムだけである。ないという本当の状態は想像することすらできない。

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