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"Body in Food"

バルセロナでパフォーマンスをする
 バルセロナのグラシアの中心部にあるアートギャラリー"Souvenir"でインスタレーションとパフォーマンスをすることになった。ギャラリーのファウンダーでもあり現代アートのキュレーターでもあるHerman Bashiron Mendolicchioのコーディネートで実現した。僕がこちらにいる間に何か作品を作る機会をということでお声がけいただいたのだ。
 今回は高村聡子とのコラボユニット"muzero"でのパフォーマンスでもある。ポルトガル滞在中にアイデアを練り、戻ってから作品制作をスタートさせた。あいにくバルセロナに戻ってきた日に、Hermanはマドリッドでのアートカンファレンスへ行ったので、本日まで会えず先に見切り発車で作品制作を進めることにした。
 今回は通常の展覧会のような日程が取れない。たった1日だけのパフォーマンスとインスタレーションなので、大掛かりなことはできないと考えていた。しかし意味のあるメッセージと今の我々にとってリアルな表現とは何かを考えた。

飽食の国スペイン
 こちらに来てずっと意識させられていることの一つに「食事」がある。スペインは何と言っても飽食の国だ。スペインでは1日5回食べる習慣がある。朝7:30頃のDesayuno、午前11:30頃のMerienda、お昼14:00のComida、夕方17:00頃のPicapica、そして夜20:30頃のCenaの5回だ。とにかく空腹の時間を避ける。そして食べている内容も肉や油、小麦が中心である。そのペースに合わせているとアジアからきた我々はすぐに身体を壊してしまう。僕自身も外食が続き身体の調子がすごく悪くなった時期もあった。
 それに加えてスペインの通常のスーパーマーケットの食品は添加物が大量に使われている。食品添加物の問題は日本でも深刻だが、こちらはさらに状況がひどい感じがする。バルセロナだけかもしれないがスペインは"欧州のアメリカ"のようなイメージを抱いた。
 さらにスペインは遺伝子組み換え作物(GMO)の大国でもある。欧州に出回っているGMOトウモロコシの90%はスペイン産だ。欧州委員会で規制されているGMOの基準より遥かに緩い基準でスペインの作物は生産されている。だから基本的にスペイン産のトウモロコシ製品はすべてGMOだと考えて良いかもしれない。もちろんVeritasを始めとするオーガニックプロダクツの食料品店も展開しているが、レストランやスーパーマーケットの大半は大量の食品添加物と薬品が投入された食品で埋め尽くされている。そのような中でアジアから来た我々がどのようなメッセージを持てるのかを模索したかった。

食養学について
 我々は日本でも基本的には玄米菜食を中心に食事をしている。それは現在僕のアトリエに入っているBL研究所の冨田哲秀所長の影響によるところが大きい。冨田先生は市井の食養学者で身体と食の専門家だ。
 この食養学というのは、古くは石塚左玄という明治時代の軍医が「医食同源」として提唱したものである。それをベースにした思想と実践として桜沢如一がマクロビオティックとして整理し世界的に広める形となった。その桜沢如一の思想や水野南北の望診法、陰陽五行やその他様々な理論を統合して考察を重ねている冨田先生は、今では日本の食養学の中では第一人者とではないかと僕は個人的に思っている。その冨田先生と5年ほど前からご縁あり、彼のバイオライン研究所の拠点も2014年から僕の主催するアートスペースに移してこの数年間ずっとディスカッションを重ねてきた。
 食養学は中国の陰陽思想に基づいた日本独自の食養法である。あらゆる食物を陰と陽の二つに分類し、そのバランスで食と健康を見ていく。例えば牛肉や豚肉は極陽、砂糖やハチミツは極飲というような具合だ。その他にもカリウム(陰)とナトリウム(陽)のバランスであったり、冷却(陰)と加熱(陽)といった調理法などで陰陽のバランスが変わる。こうしたバランスを取りながらニュートラルな状態である中庸を目指すのが正しい食事であるとされている。
 マクロビオティックでは中庸の食べ物である玄米と菜食を基本とする食べ方を推奨しており、段階に応じて食事の等級も定められている。例えば好きなものを好きなだけ食べる食事は「一号食」と呼ばれる。ご飯に対しておかずが四品つく食事が「二号食」になる。そしてご飯に対しておかずが三品つくと「三号食」。おかずが二品で「四号食」で、ご飯に季節野菜のみのおかずが一品で「五号食」となる。このように玄米菜食を基本として陰陽で食事を見る食養学では、食事の種類がどんどん減っていく方が健康にとって良いという考え方で、一日三十品目を摂ることを推奨する栄養学とはまるで違う論理がある。

トミタ式七号食
 この調子で「六号食」になると玄米ご飯に味噌汁と漬物という食事となる。そして最もシンプルな玄米ご飯のみでおかずなしという「七号食」に至る。この七号食が基本的には調子を崩したりした時の養生の食べ方である。やり方は一日に0.7合の玄米に雑穀を大さじ一杯程度混ぜて炊いて、ごま塩とともにそれだけを十日間食べるという食事法だ。しかしそれは普通の人には実践するのが結構厳しい。だから冨田先生がそのやり方を改変してトミタ式七合食を開発した。
 トミタ式七号食のやり方はこうである。まず期間としては十六日間を設ける。最初の十日間は七号食。残りの六日間は六号食の回復食を摂る。そして量は一日に好きなだけ食べても構わない。玄米に雑穀を混ぜて炊いてそれにごま塩をかけるという方法は同じだ。それにぬか漬けのたくあん一切れと塩だけで漬けた梅干しを一日一個まで食べて良いというルールだ。
 期間中はお茶やコーヒーなどの飲料を飲むことは禁じられる。ほうじ茶は飲むことは許されている。これはカフェインを断つためである。残りの回復食の期間は精進出汁をとった味噌汁を最初の三日間は具なしで、残りの三日間は野菜の具有りで飲むということで完了だ。
 これをすることで健康状態が劇的に改善するという例がたくさん出ている。冨田先生の指導の元でこれまでに数千人の人々が実践しているが、中には目覚しい効果が現れた人もいる。

食べないことの効果
 これをすることで一体なぜ健康状態が改善するのだろうか。それは"食べる"ことの効果ではなく"食べない"ことの効果が大きいからだ。我々は普段、様々な食事を摂りすぎている。さらに昨今の食品には様々な添加物が入っている。それら入って来る食物を全て処理するために我々の内臓や神経はかなり酷使されている。だからこの七号食の期間というのは、体内に摂り入れる食物の情報量を制限するという意味合いがある。カフェインを断つのも神経が興奮することを避けるためである。
 七号食期間中の十日間は基本的には玄米という一種類の炭水化物の情報しか体内には入ってこない。そこにタンパク質の情報が味噌(大豆)として回復食の時点で入って来る。そうやって情報量を制限することで、体内を一度休憩させ、様々な情報を整理するのである。
 本来は断食という形で情報を一切遮断する方が効果が高いということもある。実際に食物が遮断されて72時間以上経つと、身体が飢餓状態を認識し体内の遺伝子を切り替えると言われている。体重の十パーセントを占めるミトコンドリアが食物ではなく呼吸からエネルギーを取り出す方法をさらに活性化させるのである。
 また細胞自体が一旦分解されてタンパク質へと戻され、それを再度取り込むという形で細胞が形成されるプロセスが活性化する。これは医学ではオートファージ(自食)と呼ばれる現象であり、生命現象の鍵を解く働きとして近年注目を浴びている。
 栄養学では生命維持に必要な要素として炭水化物、タンパク質、脂質、塩などが必要だという考え方だ。だから断食や絶食というのは基本的には推奨されないのかもしれない。しかし生命というのは飢餓状態を基本として設計されているようで、逆に現代のような飽食だと調子がおかしくなるのである。だからこうして摂りこむ食物の情報量を絞ると、細胞の中にこれまで溜まったものを再利用したり排出するので、様々な不調がバランスして改善されるという仕組みだと理解できる。

パフォーマンスとしての七号食
 今回我々がパフォーマンスとして行うのは、この七号食の実践である。もちろん我々がこの七号食を個人的に実践するのは今回が初めてではない。冨田先生の指導の元で何度か実践したことがある。しかしそれをアートパフォーマンスとして行うのは今回が初めてである。
 僕は基本的にはアートという表現行為には何らかの「問い」が必要だと思っている。そしてリアルな問いとして今僕らにできることは、この飽食の国のスペインで食事と身体との関係性を考えることだ。七号食を実践した我々の身体の持つリアリティをそのままギャラリーで提示する。それは「生ける彫刻」の製作とでも呼べるものかもしれない。
 それで2018年の2月1日から七号食を開始している。これを書いている今日現在が2月5日なので、開始してから既に5日間が経過したことになる。パフォーマンス当日にあたる2月16日は丁度、七号食の最終日にあたるという計算だ。現時点でも既に体重は4kgほど落ちている。
 ギャラリーで我々の身体をパフォーマンスとして展示するとともに、それをする意味や、この十六日間の間に我々の身体に起こった様々な変化の記録も織り交ぜていく。本日スペースを確認して、キュレーターのHermanにアイデアを話したら非常に興味を持ってくれた。バルセロナの人々にとってはショックに映るかもしれないとのことだ。
 ひょっとしたら日本ではこの手のアート表現はまるで共感されない可能性がある。一体どこがアートなのか?と一蹴する人も居るだろう。しかし欧州ではコンセプトがちゃんと立てられていて、問いと結びついた表現に対しては評価してもらえる土壌がある。我々が試みようとしているのは表面的に何かを”整形”するような美ではなく、内部から”形成”されていく美の形である。一見単なる養生をしているように見えるが、そこには芸術表現を根本から考える問いがあると思っている。

生命への問い
 僕ハナムラ個人が発するすべての表現や探求の根底に流れている問いがある。それは「生命とは一体なんであるのか」という問いである。それは幼少の頃よりずっと考え続けていることだ。その問いを追いかけている途中で医者を目指そうと考えたこともあった。しかし進路を考える途上で、生命を個体で捉えることに違和感を感じて環境の方へ進むことにした。その結果として生命環境科学という領域で博士まで修めることになってしまった。
 同時に芸術という表現形式と出会い、それを選択したのも、生命をより深く探求できる方法だと感じたからだ。芸術は個別の生命が発するリアルな問いだ。それは規格化され得ないものであり、表現する本人には切実な動機がそこにある。その動機と一体となっていない表現は力を持ち得ない。だから芸術という表現は生きるということと本質的に裏表の関係になっているように僕には感じられた。
 今回この機会において、自分自身がリアリティを持って提示できることは、自分という生命の状態である。先週まではポルトガルに調査に入っていたが、外食が続いて身体の調子がすこぶる悪かったことも重なっている。自分自身の身体を一度クリアにしておく必要性を感じていた。そうであればそれをそのまま見せる方がアートとしてはリアルだ。そしてそれがそのまま、身体とは一体なんであるのか、そして生命とは一体どういうものであるのかという問いにも昇華できるのではないかと考えた。

新陳代謝する身体
 我々の身体は常に新陳代謝を繰り返している。人間は膨大な細胞の集合体だ。一説によると37兆2000億個の細胞でできているという計算結果もある。それらの細胞は様々なスピードで入れ替わっている。一生入れ替わらない細胞もあれば、生涯の間で数回しか入れ替わらないものもある。五年から十年単位で入れ替わる骨のようなものや、二年から三年で入れ替わるものもある。
 もっとスピードの速いものでは、血液などは約四ヶ月ほどですべて入れ替わるし、筋肉や肝臓などは約二ヶ月で交代する。一番表面にさらされている皮膚は約一ヶ月で入れ替わる。もっと急速に入れ替わるのは胃の粘膜のような強酸にさらされているもので五日ほどで入れ替わる。小腸の絨毛などは二日で入れ替わるというから驚きだ。
 そしてそれらは普段は外からやってくる食事を材料に作り変えられている。生命とは食事であると言っても過言ではないぐらい我々は食物に依存しているのである。ドイツの哲学者のフォイエルバッハは「我々は食べるところの者である」と述べたそうだが、食べ物は我々の身体を作る基本となっているのである。
 しかし今の社会では安全な食べ物はどんどん手に入りにくくなっている。環境が汚染されているだけではなく、食の汚染は深刻な問題だ。そして食によって我々の健康も損なわれている現状もある。細胞の新陳代謝の速度を超えて食が外からやってくること。そしてその素材が様々な形で汚染されていることは、我々の身体を本来の生命のあり方からどんどん引き離していく。
 現代の病気のほとんどは食から来ていると言ってもいいだろう。それぐらい食の問題は深刻であると同時に、見えない要素となっている。

Body in Food
 一方で我々は食べなければ生きていくことができないと思い込んでいる。それに欲がプラスされることで、食べることは楽しみとして肯定され、食の安全性にはなるべく目を向けたくないという気持ちもあるだろう。それはもちろん僕も例外ではない。食べることは大好きだし、こうして食事を制限することを苦痛に感じないと言うと嘘になるだろう。
 しかしその個人的な気持ちの移り変わりも含めて、そのままリアルに提示することが、なんらかのメッセージを持つのではないかとも思っている。芸術はいつも個人的な問いから始まる。それは誰かに要請されたものではない。それぞれ個人が自分という生命の問題として見つめたものであり、それを社会的なメッセージに変えることだと僕は思っている。
 今回我々はこの作品のタイトルを「Body in Food」と呼ぶことにした。身体の中に食物が入る"Food in Body"ではない。"食物の中に私たちの身体がある"というメッセージである。主客が反対なのである。食物を食べているのは身体であるのに、食物は摂りこまれることで身体になる。主体と客体は一体となるのだ。食べ物は単なる「物」ではなく将来の私たちの身体である。
 普段私たちはそのことを忘れている。そして分かっていても、それは様々な形で概念として処理され、欲望も正当化される。それを今回はこの飽食の国スペインで問いかけてみたいと考えている。
 16日のパフォーマンス当日まであと十日ほどあるが、その間の身体と精神の移り変わりを克明に記録して、それを提示することで一体何が起こるのか今から楽しみだ。

20180205 バルセロナにて

Do performance in Barcelona
 
We have an opportunity to do installation and performance in Art gallery named "Souvenir". Herman Bashiron Mendolicchio who is one of founders of this gallery and a curator of contemporary art gave this opportunity for us. He offered to me to do something during I have been in Barcelona.

In this opportunity, I will make this performance as performance unit "muzero " collaborated with Akiko Takamura. We were discussing about it during we were traveling in Portugal and we started to do this project after we were back to Barcelona.
Unfortunately, when we had came back to Barcelona, Herman went to Madrid to attend an art conference. So we didn't meet till today, but we had started our project preliminary.
In this case, we can't have days as a normal exhibition. So we understood we can't do big things. But we are considering to do some meaningful performance. At the same time, we should think what is real for us.

Rich food country Spain
While we have been living in Barcelona, we always consider about "food". Spain is the rich food country. They have custom of eating for 5 times a day.
Around 7:30 in a morning, they take "desayuno". And around 11:30, they also take "merienda". In afternoon around 14:00, they take "comida" for lunch. And around 17:30, they take "picapica" for snack. And around 20:00, they take "cena". Spanish people always eat something to avoid to be hungry.

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