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「書く」をめぐるインタビュー④~「書くことは生きることであり、自分への責任を果たすこと」

「書く」をめぐるインタビューセッションを実施した。お話を聞かせてくれたのは、人事やキャリア教育の専門家として、大学で就職指導をしながら、企業の人事顧問もしているやそりえさん

インタビューを終えて

お話を伺っていて、内省のオニだなと思った(笑)。子どもの頃から日記を書き続け、それを読み返しながら日々自分をたしかめていくということを繰り返している。さらに、やそさんの話には自分を否定するような表現がほとんど出てこないことも印象的だった。長年そうやって自分の行動や気持ちをたしかめていることが、自分を受け入れることにつながっているのだろう。

それだけ書いて読み返すということを繰り返していると、他者に対しても、細やかに気づいて受け止め、承認していくということを、驚くほどできるようになっているんじゃないですか?と思わず聞いてしまった。

その能力は、企業の人事という仕事だけでなく、今は学生さんに向けていかんなく発揮されているようだ。毎週50人のゼミ生のレポートの1つひとつに、その人らしさを見つけてコメントを丁寧に返しておられるとのこと。さらにゼミの最後には、50人いる全員にメッセージを書くそうだ。一人ひとりに向けて「自分の全部を投入して書いている」とさらっと言われていたけれど、まさに「書くことは生きること」という、あり方のすごみ、みたいなものを感じた。

セッション内容のリライト

ご本人の許可を得て、セッションで伺ったお話のメモをリライトしたものを掲載する。このリライトは「記事」ではなく、ご本人に「セッションを振り返ってもらうためのもの」なので、話したままに近い内容になっている。一部カットさせてもらったものの、それでも今までで一番長くなってしまった。

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●「書くことは生きること」と思っていた
中学生の頃、友達と2人で交換日記をしていたことがある。そのうちだんだん書くことがなくなってきたので、2人が好きだったアイドルを主人公にして小説を書くことにした。途中まで書いてノートを交換する。その後、相手が書いたものの続きを書いていく。そんな風にバトンタッチをしながら「交換小説」を書くということを、ある時期ハマってやっていた。

その頃から自分が頭の中で考えたイメージや自分の中の世界を言葉にして誰かにわかるようにすることがおもしろいなあと思うようになって、高校のときには文章を書く人になろうと思っていた。だが、小説を書き始めてはみるものの、何ページか書くとエネルギーを失うというか、飽きてしまうことが多かった。頭の中では描けているのに、言葉にする前に終わってしまうというか。

そのとき「言葉とはなんて不自由なんだろう。頭の中にはその世界があるのに。頭の中にあるものがそのまんま伝えられればいいのに」と思った。言葉や文章にして、読んだ人にわかるようにするのは、すごく制約が多いことで、作家の人って本当にすごいなあと実感した。

その制約が「クリエイティビティ」だと誰かが言っていたのを聞いて、「そうか、制約の中でがんばって書くことでいいものが生まれるのか」と思い、大学1年のときには一時期短歌にハマった。制約がある中での表現と言っても、俳句だと言い足りなさそうなので、短歌にした。一連のことをやっていくと、言葉にする不自由さとは、生身の身体を持っているからこそ出てくることなんだなあということを思うようになった。つまり、書くことは生きているということや、身体を持っていることとつながっていることなんだなあと、大学生のときに思っていた。


●書くことの原体験
「交換小説」や「短歌」のもっと前から、文章を書くことは身近にあった。父方の祖父が塾の先生をしていて、まだ小学生になる前に日記を書きなさいと祖父から言われて書き始めた。最初は何を書いたらいいかわからず母親に聞くと、「その日あったことを書けばいいのよ」みたいなことを言われたので、だいたいはその日にあったことを書いていた。おじいちゃんのところに行くときにその日記を持っていくと、内容についてはあまり何も言われなかったけれど、書いたという事実に対しては褒めてくれた。そのご褒美として、もう使われていない古いお金の中から好きなのを選んでいいよと言われ、もらって帰るというようなことをよくやっていた。

おじいちゃんは、孫たちに本を渡し、読書感想文を書かせて、それをコピーして親類に配るということもしていた。うちの親は「やりなさいよ」というわりには見てはくれなくて、最初は何を書いたらいいかわからなかったので、本の一部を丸写しにしていた。おじいちゃんからコピーが配られたときに、いとこが書いている感想文を見たら、おじやおばが添削したと思われるすばらしい読書感想文が書かれていた。自分の丸写しの文章とその上手な文章が並んでいるのを見て、こういうものなのかとショックを受けた。そんな感じで、書くということや、書いたものを誰かに見せるということは、小さい頃からやっていた。

小学1年からピアノを習い始め、書くことよりもよっぽどピアノのほうが自由だなあと思っていた。絵を描くとかピアノを弾く方が、書くことよりももっと、持っているものをリアルに表現できているという感覚があった。言葉っていうのはなんでこうも大変なんだろう、思っているものを説明するのにちょうどいい表現とか、漢字とかひらがなとか含めて、「これ」というものを見つけるのがなんて大変なんだろうと思っていた。

だけどピアノを始めたことで、文章を書くことや絵を描くことが上達した感じもしている。脳みその使い方を摑んでいったという感じかな。ピアノは、作文と違って、弾き方を結構細かく教わる。こんな風に座って、手は卵を持つようにとか、同じ音階を何度も繰り返し練習して弾き方をマスターしていくといったように、段々と表現できる幅を広げていくことをしていたと思う。そのときのピアノの先生がよく褒めてくれる人で、曲の中で気持ちを表現することにトライすると、すごく褒めてくれた。

そのことがあって、書くときにも、何を考えているかだけでなく、感じている気持ちの浮き沈みが伝わるように書くといいんだというのを摑んでいったと思う。書いたものを自分が読み返したときに、もう1回気持ちが熱くなるという体験をして、それがいいことだと思うようになった。読み返したときに「ああ、そうそう!」と、そのときの自分の感覚を思い出して深く気持ちを動かされるように、書くようになった。

ただ、おじいちゃんやピアノの話は、原体験というよりは、これまで日記を書いてきた中で掘り起こされた記憶というか、書くということを始めたきっかけを思い出そうとして取り戻せた感じの記憶で、特におじいちゃんに向けて日記を書いていたのは短い期間だった。


●読み直すことでもう一度体験する
書くということは、生身の身体があるからできることで、「生きている実感」を得られる手段のひとつだと思っている。だから日々の日記だけでなく、一年の終わりとか、何かがあったときとか、なにかと書いておきたいというか、書くと言う手段で表現したいと思っている。

しかも、その書いたものを読み直すのがすごく好きだ。書いたら満足して、その書いたものがなくなっても平気という人もいるけど、私は書いたものをずっと置いておきたい。昔の日記を読み返すのも結構好きだ。文章の稚拙さとか、そのときの一生懸命だった部分とか、自分の状態を「手触り感」を持って思い出せる気がするから。

なんで読み返すのが好きなのかと考えると、自分の過去というか、今までの経験をたしかめるのが好きなのだろうと思う。たしかめるというのは、自分が経験したときに何を感じたかとか、どう考えていたのかとか、こういうことがあったから今こう考えているんだろうなとか、自分という、色々なひもみたいなのを手繰り寄せて、編み直して、みたいな感じのことをしているのかな。

「そうそうこんな感じ」と思って追体験するだけでなく、思いがけないことや、ネガティブなこと、ショックなことがあったりすると、自分が過去どうしていたか、どう感じていたか、どう考えていたかにアクセスし直して、自分について解釈しなおすというようなことを、読み返しながらやっている。自分はどういう人なんだろう?ということを、いろんな形で触り直してたしかめているという感じ。自分に対してずっと探求している感じ。

ずっと日記を書いていても、いやだったことを書かないという選択をしていた時期もある。その時期は日記がすかっとあいていて、しばらくしてまた「しんどい3週間だったけど、回復してきたのでまた書き始めてみる」というように再開していた。

でもあるときから、そのときにはマイナスだと感じる出来事も、その積み重ねが今の自分なんだから、そう考えたらどれも愛おしいじゃないかと思えてきた。そのときはネガティブに感じて気持ちがささくれていたり、あらぶった感じになっていても、その感じを書き残しておいて、あとから読み返したいと思うようになってきた。

なので、ネガティブなことだと思っていても、書き終わってすぐ読み返し、「そうそう、こういうところに対して気持ちが通じなかったからさみしいんだよね。それで腹立てちゃうんだよね」、「こういうパターンは前にもあったね」というふうに自分で振り返っていくと満足するというか、そのことが自分を作るひとつの要素というか、栄養になっていったと思っている。

基本的に、何がどうなってもOKと思っているところがあって、書くことはそれをよりスムーズにするための手段なのかな。高校大学のときは、イメージしているものが頭の中にあるのに、身体を通じてしか表現できない不自由さみたいなものを感じていたけれど、最近は、身体があるからこの世界を経験できて、それが頭の中のイメージにつながっていく媒体になっている気がしていて。身体があるからこそ経験できることを見ていることが楽しいし、見ているものをイメージに残すために書いている感じがあるかもしれない。

文章にするという価値みたいなことも感じていて、自分の今の感覚やイメージの世界のものを、言葉を使って残せたというところにはたしかに満足感がある。言葉と身体を上手く使って言葉として表現できたということに、満足感があるのかなあ。

読み返すということは、みんながしていることだと思っていたけれど、しない人も多いと気づいた出来事がある。結婚をして今の家に引っ越してきたとき、大量の本や書類と同じように、日記をどさっと持って来ていて、夫に「何それ?」と言われた。「昔の日記やねん」ということを、「昔はまっていた作家の本やねん」というのと同じノリでいったら、「え~っ」と驚かれた。

日記だけじゃなく、人からもらった手紙もこれまでほとんど全部取ってあった。産前産後に整理しようと思ってばさーっと捨てちゃったけど、それまでは中学生のときくらいから、もらった手紙はずっと残しておいた。日記はそれよりも前の分からずーっと取ってあった。さすがに大学生より前のものは捨てたけれど、大学生以降の分から20年くらいの中で、この年のは捨てられないなあというのはまだ置いてある。

そういう日記を読み直すのは、何度も読み返すお気に入りの本を読んでいるときと似ていて、自分がしっくりする表現で書かれているので好きだなあと思う。そもそも書いているときにすでに、これは絶対読み返すと思いながら書いている。

毎日必ず日記を書けたわけではなく、ためて書いていたこともある。自分の毎日を記録しておきたいと思っているから、月火水と続けて書けなかったら、木曜日にたまった分を思い出しながら書く。そうやって書いてふーっと満足して、さらに前の週どうだったかなと読み直して癒される。そういう自分のエネルギーの充電の仕方だったのかもしれない。

今やっているnoteはバーッと書いてすぐ公開しちゃうけど、あとから読み返してみて、自分の気持ちというか感覚がピンとこないと、よく書き直している。最初の頃のnoteを読み返してみて、こういう書き方だとピンとこないからと、書き換えたりもする。日記はわざわざ消して修正しようとかはしないけど、noteってそこが違っている。SNSはそういうところがある。全部が過ぎていったものじゃなく、今あるものという感じがする。検索などでたまたま昔の投稿に辿り着いた人は、どんなに前の投稿でも、今の私のこととして見る。誰かが見るから添削して直しているというわけじゃないんだけど、そういうツールだと思っているから書き直そうとなるのかもしれない。


●書くことで自分の変化が見えてくる

自分のやり方を変えるということを、これまで仕事を通じてやってきたように思う。転職で3社経験しているのだけど、2つ目の会社のときに、入社してすぐ適応できない感じがあって、会社の風土が違うから合わせていかないとと思って、適応できるように言葉の使い方を変えたことがあった。

そのあと自分がマネジメントをしていく立場になり、自分が頑張って仕事ができるだけじゃダメで、もっと人に自分が思っていること、考えていることを伝えていかなくちゃと考えを変えた。それまでは不言実行で、ちゃくちゃくと準備してやっていったほうがいいことのように思っていたけれど、もっと人に言うようにした。

その後さらに人事に異動になった。人事の面から会社の課題を明らかにして、それをもとに経営層に提言をしたのだけれど、どうやっても動かない。これはやりかたが間違っているんだ、どうやろうと思っていたときに、取引先の担当者に「みんな誰しも一生懸命なんですよね。悪くしようとして行動をしている人はいないんですよね」と言われて。自分は誰かの一生懸命に対立するという形をとってきたけれど、やり方を変えないと駄目だとそのときに思った。そこから経営層と何度も対話を重ねてと、トライをしていったことで、結果的に上手くいった。そんな風に、それまでやっていなかったことをやるようにして、それで成功したという経験がいくつもあった。

でも、次に転職した会社ではそのやり方では上手くいかなくなった。その頃にはもう、過去にやっていた自分のやり方は通用しないと、当たり前に思うようになっていた。書くことも、誰かに何かを言うときも、会社で何かを提案するときも、それがどういう影響を与えるか、どういう結果になるのかはもちろん気になるけど、なるようにしかならないと思うようになった。前のやり方や前の自分のあり方は、全部今の自分につながっているのだから、もっと考えて言えばよかったとか、もっと考えて書けばよかったとか思うことがあっても、それはそのときの私の最善だったからいいねんと思うようになった。


●書くという「責任」
書くことに関しては、それが「責任でしょ」って思っているところがある。自分の中にあることを出すことは、やるべきことで、それしないとそこにいる意味がないじゃん、と。書くでも話すでもいいんだけど、中にあるものを外に出すというエネルギーの移動を自分でするということは、それ自体が生きていることだし、それをすべしと思っている自分がいる。

「責任」については、学生にもよく言っている。自分の考えとか、自分がどういう人間なのかを学生は就職活動で言わないといけないんだけど、「なんて書いていいかわかりません」と相談に来る。でも、「5分で書かないと選考進めません」と言われたら何かしら書くでしょと思うと、「何も書くことがない」と言われることにちょっとびっくりする。

そこで「今まで一番長く頑張ったことってなに?」と質問すると、「別にない」とか「思い出せない」とか答える。それは、書くとか記憶に残すという事に対する意識がなく生きてきたからかもしれないけれど、私が変わって書いてあげられるわけじゃない。「なんでそんなに責任放棄みたいなことをするの。自分に対して不誠実じゃないか」と思ってしまう。自分の身体とともに、死なずにここまで生きてきたんだから、いろんな経験をしてきたはず。そういう自分に対して失礼じゃないかと。

夫は昔のことは全部忘れていく人で、いつも今と未来を見ている。以前、「過去の経験ってどういうイメージですか」という話をしたことがあって、私は自分のちょっと後ろ側のところに箱が積み重なっているイメージで、箱を開けると過去のことを思い出せると話したら、「箱なんてないわ」と言われて。「じゃあ過去のことはどこに、どんな感じであるんですか」と聞いたら、「そんなのどこにも感じない」と言われて。

「人との関係性はどんなイメージですか?」と聞いたら、一枚の写真みたいに、パシャっと一緒に撮った感じのイメージはあるけど、それだけで、別にどこかにはつながっていないと言われて。私は全部線でつながっていて、ひもがいっぱいあるイメージで、経験も、人との関係も、わりと連続性があって、それが全部残っている、残しているという感じ。

だからそこにある何かを出して説明すること、それを外側に出すことというのは、自分の責任であり、自分に対して誠実であることだと思っているし、アウトプットすることで、生きている実感が得られるような気がしている。

私にとって、書くということは、外の世界に対してではなく、自分自身に対するアウトプットなのかもしれない。関連するかわからないけど、高校時代からの親友と、大学のときいつも言っていたことがあって、それは「限界はない」ということ。限界だと自分で思っても、絶対そこから1mm先には行けるから、そう考えると限界はないということだよね、とよく言いあっていた。

経験することへの欲求、執念みたいなのが強いので、無理せず「これくらいでいいかな」ということは選ばずに、いつも限界をちょっと超えるくらいのアウトプット(行動)をすることが生きているということなんだと、高校の頃から思っていた。なので、書くことによって結構バランスをとっていることが多かったのだと思う。外に向けてアウトプット(行動)を出していって、その行動について書くことで、自分に対してもう一回アウトプットするというようなことをやっているのかもしれない。

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インタビュイー(やそりえさん)の感想

私がリライトしている間にやそさんが書いた文章とともに、素敵な感想をアップしてくれました!


あらためて「書く」をめぐるインタビューについて思うこと


自分も日々いろいろなことを書いて内省をしているけれど、書く内省を続けることは、自分をたしかにしていくだけでなく、他者理解につながっていると信じていて、信じているからこそ取り組めている。

今回お話を伺って、やそさんのように「責任」と言い切れるほどの内省ぶりをマネしたいなと思った。さらに、もっと自分の文章を、共感的、肯定的に読み返すようにしようと思った。もちろん、外に向けて発信する場合は批判的に読み返すことが必要だけれど、内省的に書いている文章は、もっともっとペタペタとさわってたしかめながら、上手に自分に還元していきたいと思う。結果としてそれは、他者をより理解することにつながるはずだ。


あらためて、このセッションは、自分が「こんなのがあったらいいな」というものを「全部盛り」にしたような内容になっているということを感じた。それが、インタビューを受けてくれた人にとっても「全部盛り」なのかどうか、そこが大事なところで、その人の受け取り方次第ではあるけれど。

ちなみに「全部盛り」の中でも一番参考にしているのが「リフレクティング」という方法で、オープンダイアローグの中核にもなっている対話のプロセスだ。リフレクションのことではなく。リフレクティングについてはここで書くと長くなってしまうので、投稿をあらためて書きたいと思う。

追記:8月9日 リフレクティングについての記事をUPしました。


8月のインタビューモニター、引き続き募集しています。
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