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張りきって始まった1日。ゆらぎと悲しみと。追悼する日の日記。

夜中に目が覚めてトイレに行ったものの、またすぐ眠って次に目が覚めると5:00だった。もう少し寝たかったが、直前の夢のことを思い出していたらだんだん目が冴えてきた。

「免許証を拾ったので、心配されてると思って電話したんです」
という電話を受けた。
「お手数ですが、〇〇警察署に届けていただけませんか」
「はい、そうですよね。もちろんです」
そのやり取りに安心し、後からのんびり警察署に行くと届いていないという。
「は~?!拾ったという電話をして安心させて、その間に悪用するという詐欺?!」と焦ったところで目が覚めるという夢。

しばらくスマホを見ながらうだうだし、起きる。カーテンを開けると、外はいつもより暗い。雨は降っているが、窓を開けたままにする。トイレの後、リビングの窓も開けて、換気をする。

お湯を沸かしている間に、炊飯器のスイッチを入れ、昨晩洗った食器を拭いて棚にしまう。マグカップに入れたお湯を持って部屋に戻る。

今朝もカードを引くと「ペンタクルの10とワンドの8」。「やり遂げる日。じゃんじゃん進もう」とメモする。

noteを見ていたら、村上春樹さんの新刊が今日発売だと知る。Amazonのkindleで即購入。『一人称単数』という6年ぶりの短編集だそう。後で読もう。

開けたままの窓から雨が吹き込んでいないか確認すると、東向きの自分の部屋は濡れていたので窓を閉める。リビングの南向きのベランダの窓は大丈夫。

外から、雨が様々なものに当たる音が、演奏のように聞こえてくる。隣の家の屋根、外階段のステンレスの手すり、ベランダの手すり、すぐ近くのトタン屋根、木々の葉、地面とそれぞれに音が違う。

よくよく考えると、雨の降る音というのは、「雨が何かに当たるときに立てる音」なんだな。合間に、通り過ぎる車が道路上の水をジュシャーっと弾き上げる音もミックスされる。絶対音感がある人だと、これらの音がすべて音階で聞こえるんだろうか。

またPCに戻り、Trelloの朝のルーティン。なんのかのしていたらご飯が炊きあがる音が聞こえてきたのでキッチンへ。

いつもは雑穀米やもち麦を入れて炊くのだが、今日はおにぎり用に白いご飯。昨日のアクアパッツァに使った鮭をひと切れ残しておいたので、それでおにぎりを。ひとつ110gのご飯で鮭5、梅1、計6個のおにぎりをつくると2合がちょうどなくなる。そのまま置いて、しばらく冷ます。

部屋に戻って、8月のオンラインイベントの募集をnoteにアップする。一緒に遊んでくれる人が一人でも増えますように。

冷めたおにぎりに海苔をつけ、アルミホイルで包んで今日は仕事だという次男に渡す。自分も身支度をして、朝活に出かける準備。

トートバッグに本を何冊も入れて、家の近くのファミレスに向かう。オープンを待たなくて済むように、少しゆっくり目に歩いて3分。お店についたときには8時をちょっと過ぎていた。

開店直後の店内にはまだ誰もお客さんがいない。奥の方の席に座り、タッチパッドで注文を済ませる。持ってきた本を出し、どの順番で読もうかと考える。

何より村上春樹の新刊が気になるので、8つの短編のうちまず1つだけ読もう。ドリンクバーからコーヒーを持ってきて、Kindleを読んでいると、目玉焼きのモーニングセットがやってくる。家で食べればいいのだが、ドリンクバーに+150円で食べられると思うと頼まないと損な気がしてしまう貧乏性だ。

食べながら読み、読みながら食べていると、次々に新たなお客さんが、しかも平日とは違いファミリーやご夫婦などが店内に入ってきて、いっきににぎやかになった。今日はそんなことも想定して、イヤホンではなくノイズキャンセリングのヘッドホンを持っていったので音楽をかけながらまた本に戻る。

春樹さんの文章は、あいかわらず独特のたとえや「~かもしれないし、~じゃないかもしれない」が多い文章だが、改めて思ったのは、やっぱりとても英文的だということだ。構造的に英訳しやすい。言葉の表しているニュアンスを訳すことはまた別の話になるが、文章の構造に限っていえば、こんな感じかなーと英語の構文が浮かんでくる。


続きを読むのを楽しみに、1篇だけで読むのをやめた。続けて、持っていった論文を読む。

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この一か月、「言葉と文体」について本を読み進めてきたが、だんだんと興味が「言葉と身体性」にシフトしつつある。本よりも論文の方が、的確に論点がまとめられていて情報を取りやすいかな、とまずは論文から。昨日書いた西村さんのインタビューのワークショップで言っていることは、この「身体性」のことに通じている気がするなあと思いながら読み進める。

赤線をたくさん引きながら引き込まれるように読んでいたのだが、ヘッドホンをつきやぶってくる小さい子の声に耐え切れず、論文を途中で切り上げて、予定より早めにお店を出ることにする。そもそもファミリーレストランなのだから、ここは。

帰りがけ、久しぶりにお寺にお参りに行った。本堂で久々のご挨拶をして、以前、いつも朝の静かな時間を過ごしていた東屋に座る。雨の音を聴き、雨を弾く葉の様子を見ながら、呼吸法を行う。

これだけ雨が降っているし、長袖長ズボンだから大丈夫だろうと思っていたが甘かった。蚊の奴は、靴下の上からくるぶしのちょっと横を刺して行った。すぐにかゆくなってきて、呼吸法をやめた。わずか5分。マインドフルネスにはほど遠い……。


帰宅して、蚊に食われたところが空気に触れないようバンドエイドを貼る。
かゆいなあと思いながら、論文の続きを読み終える。

ブーバーが論じる「対話」とは、もはや実際の言葉とは別次元の「伝わる何か」がやりとりされるそのような人間同士のかかわりを意味しているのであり、それが<われーなんじ>関係だといえるだろう。
自らに「沈殿していた」「保持していた」感じが、他者の身体運動を見ることによって「再び生きられる」のである。それは「身体的共感」といってよいだろう。身体的対話における「身体的な感じ」の特徴は、まさにこの点にある。
他者を「知的あるいは心的な感じ」としてわかるということの根底には、まずもって他者を「身体的な感じ」としてわかるということがあるように思われる


こういった断片を持ちながら、言葉と身体性に触れている本をいくつか読んでいこうと思う。内容的に江藤淳氏の『作家は行動する』で言われている「文体は行動の軌跡」というのに通じているような気がする。

その後、ParaviでMIUのドラマを見る。見終わってから、朝作ったおにぎりを2個食べる。

昼寝をするか、本を読むか、映画を観るか迷ったが、朝活で読もうと思って読めなかったレイコフとジョンソンの『レトリックと人生』を読む。

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10年ぶりの再読。前回読んだときでもかなりおもしろかったが、今はそのときよりは数段、言葉に対しての自分の解像度があがっているはず。まだ前半だけだが、読んでいて私たちは「メタファー」を、ほとんど無意識に使っている、ということに改めて愕然とする。これはまた改めて。

13:30からはまるネコ堂の文章筋トレ
レイコフの本の衝撃がメモリを占拠していて、なかなか書くことが浮かんでこない。本に書いてあることを書いてもしょうがないし、自分なりの言葉にかみ砕いて書くほど飲み込めていない。

昨日から配信となった『劇場』を見たこと、今朝、春樹さんの新刊の短編を読んで思ったこと、昨日行ったネパール料理やさんのことを書きつつも、頭の中はずっと「メタファー」や「レトリック」が陣取っていた。だからなんか書いていることも、ちぐはぐというかごつごつとした感じになった。

まあ、こういう状態は「いいこと」だ。すらすら書けることは、もう完了したことで。書けないことは、見上げる山の、雲に隠れて見えない部分のようなもので。どうなっているかなんて、そこまで登ってみないとわからない。

文章筋トレの途中でスマホを見たら、ポップアップで三浦春馬さんのニュースが飛び込んできて、さらに落ち着かなくなった。伺い知れない事情があったのだろうけれど、活躍ぶりがキラキラしていただけに、光が強すぎると影が濃くなるのかということを思った。応援していただけに、素直に悲しい。今日はコンフィデンスマンを見ながら追悼しよう。

その前に明日までの課題をオワラセなくては。


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