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何のためにnoteを書くのか?について。ちょっと前進

かたちを与えるために書く

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これまで、noteを書く目的について何度も考えたり、書いたりしてきた。例えばこんな風に。

2月末にnoteを始めたときの目的は1つ、「書く筋トレ」だった。
書くための回路を太く、強く、しなやかにする。
そもそもどうしてnoteを始めたか?というと、自分のなかの、言葉になる前の「なにか」に、言葉を与えていきたいという思いが根底にある。それが自分の人生のなかでも上位の欲求だったからだ。

他にもいろいろ書いているが(どこに書いたかもはや見つけられないが)、いずれにしても、自分のなかで「ちゃんとは言えてない」と思っていた。

表現が足りていないのか、本当の自分の欲求をつかみきれていないのか、そのどちらもなのかわからないけど、まだもう少し言いたい、言えるんじゃないか、と思っていた。

そんなとき、佐藤正午さんの本を読んでいて、はっとする文章に出会った。

『書くインタビュー②』という本のなかで、「文体が物語を作るのか、物語が文体を作るのか」について、佐藤正午さんと聞き手のライターさんが何度もメールをやり取りする。だが、佐藤さんの説明は(読んでいてわかりやすいと思うのだが)、ライターさんの理解にはつながらない。

その結果、「これが最後にして最強です」と、佐藤さんが引用されていたのがこの文章だ。

 たとえば、つぎのような経験も誰もがよく知っていることだ。文章を書く場合、われわれは一行書いて、それが自分の「意」とうまくそぐわないと感じると書き直す。書くことにおいては、両項の弁証法的関係がより明瞭に現われる。ここで表現行為は、単にまず「思念」があり、それが適切に「表現」にもたらされるというのではなく、自分の「思念」(=直観)を適切な表現にもたらそうとする努力が、また自分の「思念」をより明確にしたりあるいは刷新したりする。はじめのまだ明確なかたちを取らない思念や直感は、その「表現」への努力という関係を繰り返すことによっていっそう明瞭なかたちを与えられ、豊富にされるのである。
(竹田青嗣『言語的思考へ』径書房145ページより引用)

<佐藤正午『書くインタビュー②』小学館文庫179ページより引用>

※1 太字は孫引用者による。
※2 原本は絶版になっており近くの図書館にもないので(今日のところは)孫引きとしている。


佐藤正午さんはたまたまこの文章を見つけたとき「ああこういうことだ、僕の言いたいことがここに書いてある」と思ったそうだ。

私も、「まさにそうだ!」と思った。
何かについて書いてみる。なんか違うと思って直す。直してもすぐにフィットする言葉や表現にできるわけじゃない。だけど直しているうちに、自分が言いたかったことはこういうことだった、と初めて姿が現れる。それは決して最初からは見えないしつかまえられないもので、文章を自分なりに不器用にこねくりまわした先に現れる。だけどそのこねくりまわしがないと、決して現れないし、つかまえられない。

noteでやりたかったことの1つは、間違いなくこのこねくりまわし、”「表現」への努力” だ。

はじめのまだ明確なかたちを取らない思念や直感は、その「表現」への努力という関係を繰り返すことによっていっそう明瞭なかたちを与えられ、豊富にされるのである。

自分のなかの「何か」に、かたちを与えるために書くことを、これからも続けていこうと、今改めて思っている。


自分を客体化するために書く

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そして、少し前にもう1つ、重要な文章に出会った。
kaoruさんのこちらのnoteの投稿を、たまたまのめぐり合わせで読むことができて、「そうだそうだ!」と思ったのだ。

自分がぼんやりと感じながらも、「表現」への努力をせず、放っておいたことが書かれていた気がした。

書くことは、今の自分を独立した一つの客体として切り離す営みだ。その意義は自分を残しておくことにあると考えていたが、自分を他者とすることにあるのかもしれない。自分で自分を理解し、ときに解釈することを可能せしめるために。
こうもよく言われる。書くことは自分との対話であると。この言説は正しいと思うが、その趣旨は自分を他者とすることにあるはずなのだ。
ここに、パブリックな環境で書くことの本質があるような気がする。
自分を客体化するとは、自分を含む他者から自分を見られる存在にするということだ。
自分を対話の相手方としての他者にしたい、客体化したいのであれば、よりリアルな客体とするために他者の目に晒すべきなのだ。


インターネット上に文章を公開することは、人の目に触れることで文章のクオリティを上げようと気をつかうので、結果的に文章が上達するんじゃないかと、私はやや浅はかに思っていた。

だが、上に書いたような、自分のなかの「何か」を表現する努力をした上で、もう一歩進んだのがこの「自分を客体化する」ということだ。

自分を理解し、自分と対話をするために、そのために、noteに自分を晒す。他者の目をものすごく意識している自分、強がる自分、盛る自分、ごまかしている自分、逃げている自分、開き直る自分、そういうものを含んだ文章を晒すことは、本来の自分を晒すことだ。だからこそ自分という人間に、客体として向き合うことができる。

今日、このnoteでやっていることもまた、文章のこねくりまわしに過ぎないかもしれない。だが、今日は2つ、noteで書く目的が、これまでよりはっきりした。これからまた変わるかもしれないし、変わらないかもしれないが、少なくとも現時点ではこの2つだ。





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