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『カール・ロジャーズとともに』~ロジャーズ博士の「共感」についての語り~

本書は、1983年に、人間関係研究会がロジャーズ父娘を日本に招き、カウンセリング界など日本の様々な分野の参加者とともに実施された6日間のワークショップの記録である。

参加者は、180名の応募者の中から66名が、年齢、地域、活動分野が幅広いものになるように、”苦しい”選考を経て選ばれた。参加できずに悔しい思いをされた方も多く、国内の様々な業界から注目されていたことも鑑みて、6日間のうち4日目だけは公開ワークショップとされ、510名の方が参加している。このことから当時の期待と注目度の高さがうかがえる。

本書が特徴的なのは、ワークショップの内容だけでなく、開催にこぎつけるまでの過程や、準備段階、開催中の体験時間以外に起こったこと、事後の参加者のアンケートについても、詳細に述べられている「プロセス記述的」なところである。

自分もこれまで13年間、こういったワークショップやイベント運営に関わってきているので、この6日間を実現させることは、関係者の相当な努力によるところであるというのは、想像に難くない。今ではカウンセリング界の重鎮的存在となった先生方が、当時、尽力してくださったことに頭が下がる。

さらに80歳というロジャーズ博士の年齢から考えると、これが最後の来日ワークショップとなるだろうということで、ここまで丁寧に記録を残したのだろう。おかげで30年以上たっても、こうしてその叡知に触れることができる。

今はAmazon中古で1万円以上で取引されているけれど、版元から取り寄せができるみたい(?)なので、興味がある方は絶版になる前にお早めに。


印象に残ったこと

もっとも印象的だったことは、ロジャーズ博士とナタリーの父娘の対話部分だ。
もともとは、博士が高齢であるため体調に配慮して、午前は博士の時間、午後はナタリーの時間というように、運営側はプログラムデザインをしていたようだ。だが、結局二人の要望で、ロジャーズ博士とナタリーとで対話をする時間が多くなっている。

対話の中では、パーソンセンタードアプローチの創始者という偉大な父を持ったナタリーの苦悩が、ナタリー本人の口から語られた。そして、ロジャーズ博士が一人の父親としてどう接してきたのかも含め、二人の対話は一読に値する。

その他は、全体的にナタリーがメインで進行をするパートが多かったが、「女性が役割期待に生きてしまうこと」についてや、「言語以外の表現をすること」などについては、これはこれで長くなりそうなので、別の投稿に分けたいと思う。

こういったワークショップの場というのは、生身のものなので、いくら録音したデータを書き起こしたとしても、その時その場の相互作用を記述して表すことは不可能に近いだろう。おそらく10%も伝わらないだろうと思う。

それでも、その10%の中に、その場に参加できていない者にとっての大いなるヒントがあるということもまた事実だ。今回は、ロジャーズ博士の「共感」についての語りが、私の中の「聴く」についての流れを、より太くしてくれた。


ロジャーズ博士の「共感」についての語り

ワークショップ2日目の午後は、ナタリーの次のような問いかけからセッションが始まっている。

「よいカウンセラー、よい聴き手とはどのようなものか?」

参加者から次々に意見が出され、それらが模造紙に書かれていく。
ロジャーズ博士は、参加者からの意見が書かれた模造紙を見ながら、「これら(日本語の文字)は私には読めないけれど、美しい絵のように見える」と言ったあと、「共感」についての語りを始めた。

私が相手に対して伝えることばのなかに、「あなたの世界のなかでは、このようになっているのでしょうか」という聴き方が出てくることがあります。それは、「感情の反射」と書かれていることを思い出すかもしれませんが、そうではなく、相手の世界のなかでどう見ているか、ということをこちらが受けとろうとしているのです。

彼の世界のなかで、どう見えているか、どう感じられているか、ということを受けとろうとする。そして、それをこちらが感じとっていくにしたがって、私の持っている価値観は、拡げられてゆきます。
私が彼のなかにおり、楽にいられるようになるにしたがって、彼も自分の世界のなかで、自分で探せるようになります。

そこで、彼が自分のなかで、何を探しているかというところにいながら話をするようになると、彼が表現したこことばよりも深い何かを表しているというように感じることができてきます。そのところを私が「こうなのでしょうか」とレスポンスするのです。
それは、やがて、あたかも彼のために、彼の世界のなかのことを表現しているように聞こえるようになるかも知れません。
ここには、彼の世界のなかと私のなかとの間に何か「つながり」が見られてきます。そして、この「つながり」のなかで共有できている感じになります。
この「つながり」の通路のなかを行ったり来たりすることを、私はしています。そして、必要に応じて、私は自分の世界にもどることもできます。
彼と非常に密接に結びついている時には、今話していることと全く関係のないことを言っているように見えることもあります。今までのことと殆ど関係のないことを言っているようであっても、それがクライエントにとっては非常に意味があることがあります。私は、私の直感(intuition)が非常に効果的である、と感じています。
このように相手に向けられる感受性は、彼への関心とケアしようという気持ちがあるところから生まれるのです。そのような共感的な感受性がもてるということは、私が「自分自身である」(real feeling on me)からなのです。
私が一致しているということ、相手に対して関心を持っているということ、共感的に理解するということは、別々のことではなく、一つのことになるのです。


「内容を聞くのではなく、その人を聴く」体験

私がこの語りを読んで思い出すのは、年末のインタビューワークショップでのことだ。

私は今まで長い間、自分で共感的に聴けていると思っていた。
だから以前の自分だったら、上記の語りを読んで「うんうん、そうだよな」と当たり前に思っていた。自分はわかっている、やっていると思っていたから。

でもワークショップ中に、どうやら自分は「頭で」内容を理解して、「気持ち」はわかる、という聴き方に近かったのだと気づいて愕然とした。

きっかけは、人の話を聴いているときに、どうしても話の中に出てきたことに関連した、自分のことが思い浮かんできてしまうことだった。一瞬でも、そっちに注意が持っていかれることを、どうにかできないかなと思っていた。主宰の西村さんは、「全力で聴いたらCPU全部使うから、他のことを考える余裕はないんじゃないのかな」と言っていたし(そこはまだあまり整理しきれていないけれど)。

なので、そもそも内容の理解を手放して、全然相手が何を言っているかわからなくてもいいから、その人が今目の前で、「どういう感じか」だけに集中して聴いてみようと思った。ここでいう「感じ」は、「感情」とか「感覚」というよりも、そういう言葉のラベルがつく前の「感じ」のこと(フォーカシングでいうフェルトセンスみたいなもの)。

それを続けていたら、内容はわからないけれど、そのうちその人の状態とリンクするような感じがして、そうすると自然に「〇〇という感じですか」という言葉が自分から出てきて・・・と、ロジャーズ博士が言うような状態になっていた。

今、このときの録音を聞き返しても、特別なことは何もしていない。内容も抽象的で、具体的なことはよくわからない。だけどお相手のバラードを聞かせてもらったような、演奏を目の前で聴かせてもらったような、明らかに一緒にその時間を共にしたという感覚、そして、とても深い体験を共にしたという感覚が、「身体に」残った

これは自分にとって「内容を聞くのではなく、その人を聴く」ということをしっかりと身体的に刻み付けることができた体験となった。

ロジャーズ博士がいう

「私が一致しているということ、相手に対して関心を持っているということ、共感的に理解するということ」

と言葉で読むのは簡単だ。
そして、自分が出来ていると思っていると、「何を当たり前のことを」と思うかもしれない。

でも、そうだとしたら、道はそこで終わってしまう。
その奥にはまだ、もっと高い頂へ続く道が隠れている。

真の意味で「聴く」の山を登るには、まだまだ深く分け入っていかねばならないと、今改めて思っている。


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外出自粛要請が出ていますが、今日も日課のお参りだけ、桜の雪のなか、行ってきました。いつも人がいないのです、ここ。
不安に飲み込まれることなく、自分ができることを徹底しながら、平らかな日々が、新たな形で戻ってくることを、祈っています。


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