哲学対話「ほめる」の開催レポート
毎月第4土曜日にオンライン哲学対話を実施しています。7月23日(土)に開催した際の様子をレポートします。
哲学対話の概要
哲学対話とは「普段はあらためて考えない疑問」、「すぐには答えが見つからなそうな疑問」について、みんなで語りあって思考を深めていく場です。過去のテーマはこれまで「対話」、「時間」、「夢」、「言葉」、「弱さ」、「笑い」、「つながり」、「学ぶ」、「遊び」、「信じる」、「読む」、「書く」、「聴く」、「楽しさ」、「無駄」、「不安」、「記憶」、「努力」、「考える」、「協調」、「変化」、「労働」、「プレゼント」、「味わう」、「ハマる」、「共感」、「旅」、「役に立つ」、「自尊感情」など。
30回目となる今回のテーマは「ほめる」で、参加者は14名でした。
チェックイン
音声確認の意味も含め、①ニックネーム、②今の気分、を一人ずつ話していただきました。テーマに関することを軽く話していただくことも多いのですが、今回も人数がいつもより多かったので簡単なチェックインで始めました。
前半(フリートーク)
前半は、「ほめる」というテーマに関して思うことを出し合いました。以前は最初に問いを立てる時間をとっていましたが、最近はテーマについて思うことを自由に話してから問いを立て、後半にその問いについて話すというやり方で進めています。今回は、下記のような観点が出されました。
・どういうときにほめるかを考えると、誰かが好ましいことをやったときにほめることが多い。その場合、ほめる側の視点でほめており、ほめられた人の視点が抜けがちなのではないか。
・子どもをほめるのは上から目線。それとは別に大谷選手のような我々がとうていできないことをやってのける人への称賛などのほめるは、ほめると言っても違う意味のような気がする。また、日本に長く住んでいる外国人の方に「日本語上手ですね」とほめるのは、相手に失礼になることもある。ほめられる側の視点は抜けがち。
・ほめるということは、コミュニケーションにおいてとても大事なスキル。ただメリット・デメリットがある。承認欲求とも結びついているのではないか。自分はほめられるのは好き。
・ほめられてモヤモヤすることがある。よく考えないとマイクロアグレッション(無意識の偏見や差別によって悪意なく傷つける)にもつながるんじゃないか。どこで何をほめるのか、ある種のお作法が必要なんじゃないか。
・ほめられることでより頑張れることもあるが、依存につながる可能性もある。よいほめ方、悪いほめ方はある。ほめられて居心地の悪い思いをするのは、自分がほめられるに足ることをしていないと思うとき。自分の評価と他人の評価が食い違ったとき違和感になる。
・人はほめられると自分の存在を確認でき、承認欲求がみたされる。そのことを考えると、相手のいいところを発見する能力を育てるのが必要なのではないか。
・人をほめる&けなすというワークをやったとき、ほめることをした後にはけなす部分が思いつかなかった。ほめるとけなすは同時にできない。
・仕事のフィードバックでは、期待に足りていない部分をいうこともあるが、それはけなしていることではない。ただ、ほめるのはいつの場合も、自分の視点からのジャッジ、評価が入る。やりかたによって相手をあやつることにもつながる。ほめるのではなく認めること、具体的な行動などを伝えるといいのではないか。
・ほめるの対極はけなす、ではないのではないか。ほめるは何が目的なのか?ほめることと、賛同や納得などはどう違うのか?
・インスタなどでコメント欄がベタぼめだと居心地が悪くなるのでやっていない。
・ほめる側のアプローチと、ほめられる側のほめられたいところがズレると、ほめる側のエゴになりかねない。相手にリスペクトをもち、よく理解しないとほめられないのではないか。
・日本人は自分のいいところに気づく感度が低いのではないか。ほめる側がその言葉を素直に言っているかどうか。作為的だと伝わりづらいのではないか。
・お世辞であってもほめられるのは気分がいい。ただ、ほめるのは苦手、不得意だなと思う。
問い出し
前半のフリートークを受けて、後半みんなで深めていくのによいのではないかという問いを出していただきました。
評価をする方と評価を受ける側の価値観の違いは(どうとらえたらいいか)?
上手なほめ方、下手なほめ方とは?
評価をせずにピュアな気持ちでほめるとはどういうことなのか?
本当にその人を良く理解していないと、褒めてはいけないのか?
画一的な褒めではなく、相手に即した接し方をするにはどうしたらいいか?
ほめるとは何か?
ほめる目的はなにか?
ここでいったん休憩をはさみ、休憩中にどの問いについて深めていきたいか、思いをめぐらせていただきました。
後半(対話)
後半の投票で選ばれたのは「評価をせずにピュアな気持ちでほめるとはどういうことなのか?」という問い。この問いを入り口に対話をスタートしました。
・そもそも相手のことをよく理解しないとほめてはいけないのか?作為的じゃないのなら、知らない人でもほめられるのではないか?たとえば初対面の人に「いい筋肉していますね」など。
※チャット欄で、外見についてほめるのは、セクハラにつながるのではないかという意見。
・音楽をやっている仲間に、うまいじゃん、すごいじゃんと言うことがある。それは本当に感嘆しているし、もとからその人の演奏を上手いと思っていた。この場合はピュアにほめていると言えると思う。ただ、仕事だと評価がからむから難しい。基本的にほめるのはフラットな関係で行われたほうがいいのでは。
・いい考えですねとか、いい表現ですねなど、容姿よりも内面的な部分をほめたほうが受け入れられやすい。ほめるときに、私は~と思った、私は~でうれしかったなど、自分の気持ちにひきつけるというのはよく言われていること。
・ピュアにほめるのなら何を言ってもいいのか?
・ほめられて違和感を感じたりカチンとくることがあっても、相手が関係をよくしようとして言ってくれている限り、〇〇という部分はちょっといやだったと言える。ほめることをコミュニケーションの入口に使えばいいと思う。
・誰にほめられるか。ほめる側とほめられる側の距離感と内容が大きく関係している。どれだけ自分のことを理解してくれているか、ほめられる側が判定する。
・そもそもほめることは評価なんじゃないのか?なんで評価をしたらダメなのか?
・評価というのは、ジャッジをするということ。表面的な決めつけや押しつけになりうる。
・評価は、自分の基準やその共同体の価値観の押しつけ。
・仕事の対価のように評価が必要なこともある。
・頭がいいですねというほめ言葉は、言われた側の状態にとってはプレッシャーになることもある。
・ピュアというのが素直、正直ということだとして、ほめる側が純粋な気持ちで言っても、受け取る人の価値観で受け取り方が変わる。その場合、関係性が重要になってくる。
・関係性によってほめられたときの受け取り方が変わるということについて、何か具体的な例は?
・ほめようと思って言うのではなく、純粋に感動したとかすごいと思ったときに思わず出てしまうのがピュアなほめるで、それ以外のほめるはどこかに意図やジャッジが入っているのではないか。
・初めて会った人に服装や髪型をほめられたとき、私には似合わないなどの卑下の言葉とセットになるとそんなことないよと返さなくてはいけない気がしてつらくなる。
・若いねとかその年齢には見えないというのは、ピュアなほめるのような気もするが、状況によっては勘ぐりたくなることもあるし、社会的なコンテクストでそう言わなくちゃいけない気がして言っているという面もある。世間的な価値観とほめる側/ほめられる側の感覚があっているかどうかという面もある。
・そもそもほめるの先にハッピーが無くてはいけないのか?あいさつはそんなにポジティブな意味じゃなく自然にやる。ピュアなほめるも、そういう自然に出ることなのではないか。
・ほめるときはどうしてもほめる側の基準になってしまう。それがほめられる側の基準とあうかどうか。
2時間の対話を終えて
放課後も引き続き40分ほど対話が続きました。
特に対話中に何度か出てきた「関係性」ということが、ほめることにどう関係しているのか?についてご意見をお伺いしました。よく知らない人のほめ言葉はズレていても「よく知らないからしょうがないよね」と受け入れられるが、関係が深い人のほめ言葉が自分の基準とズレているとショックが大きい。関係性が深いと、より相手のことをよく理解したり慮ってほめなくてはいけなくなるのではないか?という意見が出され、納得感がありました。
また、日本人特有のほめられたときの謙遜やほめられるのは苦手という意識のようなものはどこから来るのか?という投げかけがあり、子どもの頃にほめられ慣れていない世代、ほめられ慣れ過ぎている世代、ほめることで目立ちたくない世代など、世代の傾向のようなものがあるのではないかという意見がありました。
ほめる側の基準と、ほめられる側の基準。それから、相手と関係を深めたいと思ってほめているのか、作為があるのかの意図。そのあたりがほめることの核心に近いところにありそうですが、時間切れで終了となりました。
少し時間をあけて再度このテーマで哲学対話をしたいと思う興味深い対話となりました。
8月の開催予定
■8月27日(土)10:00~12:00
オンライン哲学対話#31:テーマ「本音と建前」
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