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Vol.3 こうして私は統合失調症になった。

お早うございます。アザラシ(メス)です。病歴が長いために、その三まで書いてしまいました。前回の続きは、警察による補導後のお話しです。

父とはその日、会う約束をしていたのですが、留守番電話で会話にならない声を録音してプツっと音信不通にしてしまったため、父が心配になって警察に捜索願を出して、横浜の港北区にある一人暮らししていたマンションに家宅捜査されたわけですが、事情聴取が行われた時には見知った父の顔を見た安堵感から落ち着いて対応でき、警察から解放されました。

監獄のような旧態依然とした精神病院もいまだに沢山ある。

容体が悪化したのはその後、実家に帰ってからです。近所の精神病院であるH病院に、父に連れて行かれ、初めての診察の時、私はとにかく怯えていました。お医者さんとの受け答えもままならず、父が状況を説明。すると、あっさりと入院を勧められました。しかし、H病院は外見はおどろおどろしい程に外壁が黒ずみ、案内人の男性が高圧的な態度で、鍵をジャラジャラとさせながら、父に入院を迫ってきたのです。しかし、父はこんな雰囲気のトイレ付個室に私を入れたら、治るものも治らない。そう思い、毅然とした態度で実家で責任を持って看る、と入院手続きを拒否してくれました。

統合失調症の恐ろしい幻覚・妄想があらわれた。

私はもう植物人間のような状態でした。無言で、父が運転する車に爆弾が仕掛けられているんじゃないか、とか車中、周囲の車から盗撮されているんじゃないか、とか統合失調症の有名な特徴である幻覚、妄想が出ていました。

実家に帰ってからも、今まで見た映画が現実に起きているかのように、自分が映画の主人公になった気分になったりもしました。また、自然現象がそのまま心のざわつきとなって現れもしました。風がなびいていてるだけで、何かの悪いサインと受け止めたり、反対に鳥の鳴き声が偽物じゃないかと疑ったり。頭の中はめちゃくちゃでした。

30歳にもなって、両親と川の字になって寝て、処方された薬をじょうろで飲ましてもらいました。介護者です。それでも夜中、家を飛び出して、パジャマでタクシーに乗り込むということまでしました。脱走です。その時、どのようないきさつだったのか分からないですが、母が道路まで出てきて、私は引き取られました。

また、2階建ての一戸建て住宅だったのですが、2階で昼寝をしていた後、窓から庭に飛び降りるという、一歩間違えれば倉庫に後頭部を当てて死んでいたかもしれない事件までおこしました。ここまでくると、夢遊病者です。

いま、こうしてある程度、明確に書けるほど、記憶に残っているのも不思議なことですが、すべて事実です。

そんな私も二度目の休職を取り、実家暮らしに慣れて来て、自分からストレッチをしたり、好きな革細工や手芸をしたり、穏やかな生活が送れるようになってきました。薬が効いたのでしょう。

好きなことを仕事にするやりがいからかけ離れた仕事に取り組むストレス。

会社への復帰は受け入れられました。オンラインショッピングの売上会計係でした。たった一人で黙々と商品を仕分けし、会計作業し、上司に報告する。ただそれだけ。あまりにも仕事量が少なかったので、今まで殆ど、どぶに捨てていた有給休暇を使いまくりました。使っても半休とかで、自宅で寝ているなど、決して有意義な使い方ではありませんでした。

ワーカホリック。よく言われました。そもそもワーカホリックだから、脳みそがおかしくなりました。私は元気だった頃に取材で知り合った方の主催する、パプアニューギニア・SUPアドベンチャートリップに、夏休みまるごと1週間を使って旅するツアーに参加することにしました。

それが人生最大の危機に陥ることになるとは予想だにしていませんでした。(続く)




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