「INDRA 30 YEARS OF JUNGLE」インタビュー
11月30日にCIRCUS OSAKAにて開催されるDJ INDRA氏の活動30周年記念パーティー「INDRA 30 YEARS OF JUNGLE」に向けて、INDRA氏にロングインタビューを行わさせていただきました。
国内JUNGLEシーン黎明期から関西にてJUNGLE DJとして活動されていたINDRA氏。今回のインタビューでは90年代のリアルなJUNGLE事情からサイケアウツとの関わり、レコードショップ勤務時代、そして「INDRA 30 YEARS OF JUNGLE」への意気込みなど、沢山の興味深いお話をお聞きしました。
「INDRA 30 YEARS OF JUNGLE」にはサイケアウツのボーカルを担当されていたMCロックンロールことOFF MASK00の秋井 仁さん、サイケアウツG x DIE-SUCKのコラボレーション・ライブなど、INDRA氏と所縁のある素晴らしいアクトが多数出演され、日本のブレイクビーツ/JUNGLE/DNB/ベースミュージックの歴史を総括するような伝説的な一夜となるはずですので、是非とも現場に足を運んでみてください。
DJ INDRA
https://www.instagram.com/indrathejunglist/1974年生まれ 大阪府出身1993年にDJ活動を開始。日本の「JUNGLE/Drum&Bass」 シーンを黎明期から支え続ける、オリジナルジャングリストとして知られている。1996年からは、大阪梅田にあった輸入レコード店「Les Disques Du Soleil」 の京都店のJUNGLE担当として2年間勤務し、その傍らDJ活動を続け、東京や日本各地でもJUNGLE/ Drum&Bass をプレイ。1996年に人気ユニット、サイケアウツのセキュリティーパフォーマンス担当、「ヘイターE」としても活動し、1999年のフジロックフェスティバルにも出演している。1999年、UKの人気レーベル「JOKER Records」のプロデューサー、BIZZY BとPUGWASHを大阪に招き、パーティ「AMEN BROTHER」を開催。二人からは「Killer Rollin' Sound」と称賛され、DJの実力を認められた。その後は2 STEPやGRIMEといったUK Garageもプレイするようになり、ダンスフロアからラウンジまで活動の場を拡大していった。これまで「HAPPY NUTTY」「WAR SUCKER」等、多数の人気パーティに出演しており、2015年の「舞音楽祭」ではDJ HORNとのDJユニット、『JUNGLE TWINZ』として出演、大好評を得た。2022年に配信アプリSpoonにてDJmixラジオ「JUNGLIST RADIO」を開設。シーンの現在進行形の雰囲気をクラブ以外の場所へ伝える活動も精力的に行っている。
Q. 「INDRA 30 YEARS OF JUNGLE」のフライヤーに記載されているINDRAさんの年表に「1991年にJUNGLEの原型と出会う」とありますが、JUNGLEの原型とはなんだったのでしょうか?その音楽のどういった部分に魅力を感じましたか?
JUNGLEの発生源については諸説があるので正解はないと思いますが、私の場合は91年ごろは初期のハードコアテクノ、ベルジャンテクノ、イタロハウス、そしてダンスホールレゲエを同時進行で聞いていました。ジャングルのオリジナルレーベル、SUBURBANBASE、Moving Shadowは91年に発足していますが音源はその時には日本にまで到達していなかったと思います。
朝は2アンリミテッド、L.A.スタイル、カペラ、テクノトロニック、ブラックボックス、フォーティーナイナーズ、ミグ等のテクノ・ハウスを聞き、夜はブジュバントン、ウェインワンダー、ベレスハモンド、カッティランクス、ビーニマン、サンチェス、ニンジャマン等のダンスホールレゲエを聞いてワクワクしていました。一人の人間がハードコアテクノとダンスホールレゲエを同時期に聞いていた、という事がジャングルの起こりなのではないかと思います。おそらく当時にはそんな若者はたくさんいたのではないでしょうか。
めちゃくちゃ激しいテクノや謎の重たいジャマイカンダンスミュージックの、未知の空気感(不気味さ、圧力、ホゲホゲ感)に惹かれていました。
Q. INDRAさんがJUNGLEの存在を認識したのはいつ頃でしょうか?その当時、日本で既にJUNGLEをプレイするDJやレコードを扱っていたお店などはあったのでしょうか?
94年、京都Mushroomというクラブで行われていた「CLOCKWORK FUTURE」「RUFF JUNGLE」というパーティーでJUNGLEの存在を認識しました。それまではbreakbeats technoという認識でした。イギリス人のラス(DJ OVERLAP)、HAYATO(DJ JOY)、NOODLE、MUMUの4人のDJが「DARK PULSE」というDJチームを組んでJUNGLE、breakbeats technoをプレイしていました。
DARK PULSEの人達にオススメされたのが大阪アメリカ村のレコード店、BAOBABさんです。レコード棚に「breakbeats core」というコーナーがありそこにJUNGLE、レーベルで言うとSUBURBANBASE、Moving Shadow、Kick’in、PRODUCTION HOUSE、謎のホワイト盤などが入っていました。そのセレクトをしていたのがあの秋井仁さんです。
Q. 1993年にDJ活動をスタートされたそうですが、それ以前はご自身で何か音楽活動などはされていたのでしょうか?初めて人前でDJをされたときについて覚えていることはありますか?当初からJUNGLEをメインでプレイされていたのでしょうか?
DJ活動を始めるまでは全く音楽活動はしておりませんでした。元々はFMラジオのDJに憧れていたというのと、ダンスミュージックが大好きだったのでクラブ、ディスコでDJをするという事が目標でした。
初めて人前でDJをしたのは難波のCafeblueというクラブです。土曜日のテクノ・ハウスのイベントでした。学校の友達、バイト先の友達(DIE-SUCK)、師匠、兄弟子が来て応援してくれました。最後の4時からの1時間を任せられました。
3時55分、緊張してガチガチになっていたところに雲の上の存在だった有名な先輩DJが現れ、「ちょっとやらせろ」と言われ先輩DJがプレイし始めました。「そろそろ変わろうか」と言われたのが4時57分でした。「よし!今度こそやるぞ!」と意気込んだところにお店の人が「あと1曲で必ず終わって下さい」と。1曲だけ、The Prodigyの「NO GOOD」をプレイしました。DIE-SUCKと友達がモッシュして盛り上げてくれたのを覚えています。「クラブ、DJの世界は怖い、厳しい。しかし俺が先輩DJになったら絶対にこんな事はしない!」と心に誓った瞬間です。(笑)
私のDJの師匠はとても優しく、並々ならぬダンスミュージックオタク、機材オタク、アンダーグラウンドオタクでした。(笑)
DJの技術的な基礎と心構えを友達に接するように楽しく教えてくれて、今でも目標としている人物です。ハッキリとは教えてもらっていませんが、昔々の六本木の外国人が集まるクラブや米軍基地内のクラブで鉄格子のDJブースの中でプレイしていたというお話を聞いています。数々の修羅場を潜り抜けてきたであろうにも関わらず多くを語らない謎の人です。その人が「好きな音楽を紹介していくと良い。JUNGLEが好きならそれを紹介していくと良いよ」と背中を押してくれました。
Q. INDRAさんは活動初期に京都の「Mushroom」という箱でDJをされていたそうですが、Mushroomではどんなイベントが開催され、どういった人々が遊びに来られていましたか?
Club Venusというイベントでテクノの大物DJが来日してかなり盛り上がっていました。ダレンエマーソン、デイブエンジェル、リッチーホウティン等の錚々たるレジェンドDJがプレイしていました。当時はバレアリックというムーブメントがあってトランス(2000年代のそれとは別)と呼ばれるテクノが大人気でした。
店長の豆塚さんの周りの人達をはじめとして当時の最先端の音楽、ファッション、サブカルチャーに敏感な先輩方が夜な夜な集まって「ポスト構造主義はどうあるべきか?』 『コミュニズムの本当の敵は資本主義なのか?』といった事を大真面目に議論しているのを見た記憶があります。京都は学生の街なのでこういった土壌が育っていたのだと思います。とにかくアンダーグラウンドでマニアックな人達が集まる特別な場所であったと思います。
Q. 「INDRA 30 YEARS OF JUNGLE」にご出演されるサイケアウツG(大橋アキラ氏)とDIE-SUCKさん、秋井 仁さんとの出会いについて教えてください。
地元のアルバイト先でDIE -SUCKと出会いました。革ジャンでボウズヘアの兄貴を見て「音楽やってはるんですか?』と話しかけた事が始まりです。兄貴に生まれて初めてクラブに連れて行ってもらい(たまたまMushroomの「CLOCKWORK FUTURE」だった)そこで大橋さんと出会いました。めちゃくちゃ派手なファッションだけれども底知れぬ恐ろしさが伝わってきていたので(怖いな…関わったらアカン人や…)と思っていたところに兄貴が「デスメタル好きな人見つけたで!』と大橋さんを連れてきました。(兄貴のアホ!何考えてんねん!)と心の中で思いながら恐る恐る挨拶した事を覚えています。(笑)
JUNGLEはかっこいい、「このコーン!って鳴ってるブレイクビートがかっこいい(後にAMENであったという事が判明する)と意気投合してくれました。この夜に聞いたかっこいいレコードをDJのHAYATOさんから教えてもらい、次の日にまたDIE -SUCKと一緒に大阪のBAOBABさんへと買いに行ったらそこでまた偶然、大橋さんに遭遇しました。秋井さんが「彼もブレイクビーツ好きのお客さんやで」と大橋さんに紹介してくれて「昨日もMushで会ったとこですねん」となり、みんなで大笑いした思い出があります。秋井さんも大橋さんもその時既にかっこいい音楽をやっているアーティストとしてインディーシーンで有名であったと後で知り、激しくビビったのを覚えています。
Q. 1994年にM-Beat「Incredible」とUK Apache with Shy FX「Original Nuttah」がリリースされ大ヒットを記録しますが、当時これらの曲は日本でも発売後すぐに話題となっていたのでしょうか?
94年の日本でJUNGLEを知っている人はかなり、かなり珍しかったのでUKの大ヒット曲とはいえ知る人はいませんでした。今でこそレジェンドチューンとしてDNBDJならば知っていなければならない曲となっていますが、日本でそうなったのは2000年を過ぎてからだと思います。一部の音楽情報誌ではM -Beatのインタビューが掲載されたりしましたが、クラバーの間でもジャングルは話題にされない寂しい状況でした。
私自身もこの2曲にはあまり関心がなく、同じラガフレイバーの曲でもSUBURBANやPRODUCTION HOUSE等のレーベルからリリースされていた、ラガボイスをサンプリングしたものの方が好きだったので積極的にはプレイしていませんでした。しかしながら、日本で大ヒットとなったH JUNGLE with Tの曲には大きな影響を与えたのだと思います。200万枚のセールスを記録したあの曲はSHY FXが影響したのではないかと思っています。
Q. 上記の2曲以外にも1994年には素晴らしいJUNGLEクラシックがリリースされています。JUNGLEの歴史において1994年というのは一つのターニングポイントだったと思うのですが、INDRAさんにとってはどんな年でしたでしょうか?
94年はまさにJUNGLEアンセムの大豊作の年です。今振り返ってもあれほど大量のビッグチューンがリリースされまくった年は無いと思います。きっとUKのアーティスト達も曲のアイデアが次々に湧いてきて楽しかったのだと思います。更にJUNGLEの音楽的なフォーマットが固まり、世間での認識も高まり経済的にも大成功した年であると思います。
私にとっては買うべきレコードが多過ぎていつもお金がなかったのを覚えています。何度も昼飯を我慢してレコード代に充てていました。Marvellous Cain のHITMANがお店に入って目の前にあるのにそれすら諦めて他のビッグチューンを買わなければならない程の大豊作でした。レコードの取り置きの量も膨れ上がりお店に迷惑をかけていたと思います。
また94年は今でも活動している仲間との関係がスタートした年でもあります。この時に出会った同期のDJやアーティスト達とは今でも家族、親戚のような感覚で接しています。良いご縁をいただいた年であったと思います。
Q. 以前、GHz Blogでのインタビューにて1995年以前JUNGLEは「ガキが聞いている浅はかな音楽というイメージ」が国内では付いていたとお話されていましたが、なぜこういったイメージが付いてしまったのでしょうか?こういったイメージに対して日本のJUNGLE DJ達はどういった行動を起こしていたのでしょうか?
理由はまさに「ジュリアナテクノ」と揶揄されていた事です。実際avex traxから発売されていたジュリアナ東京のコンピレーションには初期のXL Recordingsの作品、初期のレイヴアンセムなどがたっぷりと収録されていて、ヤンキーが車で大音量で聞く音楽であるという認識でした。(それは正解ではありましたが(笑))
当時はクラブとディスコの違いを明確に意識しているクラバーも多く、享楽的なディスコ文化に苦手意識を持つ人も多かったと思います。ハッピーハードコアなんて以ての外の音楽だったろうと思います。
このようなイメージに対して我々はどこ吹く風、「あんた方にはわからんのか可哀想に。俺たちが教えてやるぜ!」くらいの生意気な気持ちで楽しんでいました。そういった気概が音に表れているのだと信じていました。だからこそJUNGLEはハードでシリアスで高速でアホであるべきで、もっともっと更に進化していくべきだという思いです。
Q. 1995年になると日本でJUNGLEに対する評価が変わったとのことですが、どういった理由でJUNGLEが評価され受け入れられるようになったのだと思われますか?
94年のシーン全体の大成功が多くの人々を呼び込み、無視できないほどの一大勢力へと成長したからであると思います。またラガジャングルのイメージだけが先行していましたが、GoldieのMETALHEADZ、LTJ BUKEMのGOOD LOOKINGといったレーベルの存在がインテリジェントなものを好む人々の受け皿になれたと推測します。やはりヤンキーが聞いている音楽と同じものを聴くのは耐えられないでしょうから。
そういった多様性を受け入れるフォーマットを持っていたという点が大きいのだと思います。あらゆるジャンルへ360°のアプローチができた事がドラムンベースという呼び名へと発展できた大きな理由であると思います。
DJ INDRA - killer rollin sound for junglist 1996
Q. 90年代、INDRAさんはJUNGLE以外にはどういったタイプのレコードをプレイされていましたか?
SPEED GARAGEと呼ばれるUK ガラージの初期のレコードを買ったりはしましたがほとんどプレイする事はありませんでした。ダンスホールレゲエの7インチ、Penthouseのレコードなども買ってはいましたがそのままプレイする事はできず、BPMが合わせられるものだけをドラムンベースに被せてプレイしていました。
日本のダンスホールレゲエ、NG HEAD、RYO the SKYWALKERの曲などをドラムンベースに被せてプレイすると最高に受けた記憶があります。
Q. 関西以外でDJを初めてされたのはいつ頃でしょうか?
96年、97年ごろから東京や北陸からもお声がかかるようになりました。
Q. INDRAさんが働かれていたレコードショップ「les disques du soleil」について教えてください。どういった経緯で働かれることになったのですか?
オーナーの中島さんはTRAD、FOLK、NEW WAVEを愛する方でそのジャンルのレコードが充実していました。スタッフの藤井さんがテクノ、ノイズ・インダストリアル、エレボディ、音響派といったマニアックな音楽の専門家で、数々の音楽を勉強させていただきました。ノイズ・インダストリアルを取り扱うお店は当時でも貴重であったようです。
梅田のソレイユ、VICさん、アメ村のBAOBABさん、日本橋の○かXさんのオーナーの方々は老舗のWOODSTOCKというレコード店の卒業生だったようで、当時でも音楽・レコードファンからリスペクトを受けていました。
お正月にこの4店で新年会が行われていたのですが、末席に加えていただいた時はものすごく緊張しながら勉強させていただいた思い出があります。
96年春に京都三条でソレイユ京都点をやるぞ、という話がありちょうど学校を卒業するタイミングであった常連客の私が応募して採用されたという経緯です。95年に藤井さんが主催されたイベント「FETISH INFOBAHN」でもDJをさせていただいていたので、完全に縁故採用ですね。(笑)
ソレイユ京都店ではJUNGLE、GABBA、HARDCOREを担当させていただき、楽しい毎日を過ごした思い出です。大変お世話になりました。
Q. les disques du soleilで特に人気のあったジャンルやアーティストは?INDRAさんが働かれていたときに最も売れた商品はなんでしたか?
96年から98年の2年間ソレイユ京都店で勤務しましたが、担当していたJUNGLE、GABBA、HARDCOREがやはり大人気でした。D.H.Rのアレック エンパイアが大ブレイクした時期で来日時に本人が現れ壁にサインを残すというファンタジーも起きました。(笑)
Aphex Twinを筆頭としたRephlexの作品、Jeff Millsなどのミニマルテクノ、老舗レーベルのWARPの作品、ドイツのMille Plateaux などが人気で毎日のようにDJ、クラバー、レコード愛好家が来店してくださって賑わっていました。
Q. 1996年から1999年までINDRAさんはサイケアウツのメンバーとして活動されていましたが、楽曲製作などには参加されたことなどはあったのでしょうか?ライブでのステージパフォーマンスはどのようにして作られていったのですか?
サイケアウツの楽曲制作に関しては完全に大橋さんのワンオペで、他者が口を挟むなどという事は絶対にありませんでした。秋井さんからこの曲のカバーをやろうぜというリクエストはあったみたいですが、なにしろ立ち飲み屋でのバカ話が曲として具現化していくので、メンバー全員が大橋さんの曲を楽しんでいた状況だったように思います。
我々ヘイターEはあくまでサイケアウツ守備隊という位置付けで厳密に言うとサイケアウツではありません。ステージパフォーマンスに関して大橋さんや他のメンバーから指令などはありませんでしたが、パブリックエナミーのS1Wみたいにかっこよくやれよ、と言う事だけは言われていました。ライブはいつもお客さんと一緒にドガチャガのむちゃくちゃ、無秩序になりかけ寸前のところだったので、モッシュやダイブ、パンチ合戦のようなノリではなくショーとしてライブを完結させる事が使命であったと認識しています。
Q. 同時期、DIE-SUCKさんとINDRAさんはユニット「DUAL BEAST SEED」を結成され活動されていましたが、どのようなスタイルの音楽を作られていたのでしょうか?
97年、98年ごろに少しだけ活動していました。DIE-SUCKがAMENでグラインドコアみたいなブラストを叩けないか、という事を言ったのが出発点だったかと思います。ローランドの小型サンプラーMS-1を手に入れてAMENのシンバル部分をパッドに割り当て指で連射するという形で実現しました。客席から「よっ!高橋名人!」と野次られる事もしょっちゅうでした。(笑) ベースラインはJUNGLEの曲から2小節丸ごとサンプリングして歪ませた上でワンループさせるという手荒な手法です。今のドラムンベースのギガガガガー!!みたいなノリですね。(笑)
そこに兄貴のデス声を少しラガに寄せてもらって…1分ほどの曲を何曲か作りました。クラブでのライブの他にライブハウスでもお誘いを受けました。山塚アイさんや大阪ノイズグラインドの雄、WORLDと対バンのイベントで、十三ファンダンゴのステージで2人で「GRIND STEP」を表現できた事が思い出深いです。
しかしながらインパクト勝負の音楽で賞味期限は短いと判断して、さっさと辞めてしまいました。(笑)
Q. 90年代後半になるとドラムンベースやUKガラージといったJUNGLEの影響下にあるスタイルが人気を博していましたが、JUNGLE自体はどういった状況だったのでしょうか?
この質問から考えると、ジャングルとドラムンベースを別個に捉えておられるように思います。私にとっては同じジャンルの音楽であって、時期によって呼び方が変わったものと思っています。ハマチがブリになったようなものかと。
確かに96年に入るとAMENゴリゴリのラガチューンは鳴りを潜めてしまい、シンプルなリズム隊とファットなベースラインが主体なものへと変化していきました。またサイバーな雰囲気のTECH STEPというようなものも台頭してきた時期です。この時期とドラムンベースと呼ばれ出したタイミングが同じなので分けて考えられている原因なのではないかと思います。
AMENゴリゴリをやっていたBIZZY B、DJ HYPE、DJ RAP、などなど彼らもシンプルなリズム隊とファットなベースラインのスタイルへと移行し、後のドラムンベースの一つのスタイル、JUMP UPと呼ばれるスタイルを確立します。これがジャングル直系の子孫であり、私にとっては同じジャンルの音楽であるという根拠です。その流れは今でも続いていて、現在のANDY Cのようなスタイルも最近のDJ ZINCのような歌モノの曲も総じてJUNGLEであると私は主張しています。ニューロファンク、リキッド…と名前をつけるのは、昔の「これはインテリジェント〜あれはジュリアナテクノ〜」と差別された事を思い出します。
Q. 1999年にINDRAさんがオーガナイズされたパーティー「AMEN BROTHER」について。BIzzy B、Pugwash、Aphroditeといった海外勢に加えて小西康陽さん、Ryo The Skywalkerさんもご出演されていますが、どういった内容のパーティーになったのでしょうか?
AMEN BROTHERの1回目がBIZZY BとPugwash、そして小西康陽さんでした。小西さんはJOKER Recordsの曲やJUMP UPを気に入っておられ、ソレイユ京都店で大量のドラムンベースをご購入いただいてました。そのご縁からオファーが成立したという経緯です。この夜はリワインドと歓声の嵐と、会場のclub KARMAの水が売り切れ、底をつくという状況が起こりました。
2回目はAphroditeとRYO the SKYWALKERさんでした。その頃、朝本浩文さんのドラムンベースプロジェクト、「Ram Jam World feat.RYO the SKYWALKER / JUNGLIST JAMBOREE」という曲で歌っておられたRYOさんと親交があったので、私のDJにMCとしてついてもらう事が実現しました。本場UKのMCさながら、それ以上のスキルと気迫、人間を間近で見せられて激しくビビったのを覚えています。
Q. INDRAさんは2005年に「STAMINA」というダンスホール・レゲエとドラムンベースを融合させたパーティーを企画されていましたが、それ以前から関西ではJUNGLEとレゲエ・シーンとの繋がりはあったのでしょうか?
STAMINAでは地元、北大阪で活躍していたAXELLとROCK SHOOTERというサウンドを誘って、ダンスホールレゲエとドラムンベースのお客さんがごちゃ混ぜで踊るバイブスを目指したのですが、うまくいったとは言えない状況でした。この似て非なる両ジャンルが融合するには相互の深い理解が必要で一朝一夕にはできない事だと気付かされました。普段から両方のジャンルで遊んでいる人が増えない事には同じ場所でダンスする事は難しいと思います。
BPMの違い。DJ&MCとセレクター&MCの認識の違い。DJ(サウンドマン)のMIXの手法、などなど認識の開きが大きく、同じバイブスを理想の形で共有するには課題が山積みです。ですのでジャングルとダンスホールレゲエのシーンに繋がりというものは点でしか存在していないと思います。私が知らないだけなのかもしれませんが、将来面白いものができる可能性はあると思うので諦めたくはないです。
事実として地元北大阪のレゲエのクラブでレゲエdeejayと一緒に、グライムのトラックでラバダブを成立させた経験はありますので、またあのような事ができたらいいなと思っています。
INDRA LIVE@STAMINA 2006.08.05
Q. 2005年にサイケアウツGとSoundmurdererとINDRAさんでツアーを行われましたが、このときのことで覚えていることはありますか?
Soundmurdererはブレイクコアのアーティストだと思いました。JUNGLEというよりAMEN大好き人間なのだなと思い、私の趣味とは隔たりがあると思いました。Soundmurdererは私のDJをとても褒めてくれたのでいいやつだという印象です。(笑)
Q. 数年前から「JUNGLIST RADIO」を開始されましたが、ご自身でラジオを始めようと思ったのにはどういった想いがあったのでしょうか?
高校生の時からなりたかったラジオDJの真似事ができると思ったのがきっかけです。ネットが発達した今では誰もが発信者になれますし、勇気さえあれば何でも挑戦できると思いました。
私は元はオタクな人間で、マニアックな音楽を一人で楽しむ事しかできなかった暗い高校生でした。ラジオから突然流れてきた謎のかっこいい音楽に救われたと思っています。どこかにいる昔の自分のような人にジャングル、ドラムンベースを届ける事で楽しい生活を送ってもらえたらいいな、という想いです。
SPOONという音声のみの配信アプリを使っているのですがとてもカジュアルで使い易く、治安も良くたくさんの配信者仲間もできました。今年(2024)の年末にはSPOONの看板ラジオ番組のミュージックフェスにも出演する事になっています。私の枠(番組)はまだまだ発展途上ではありますが楽しんで続けていきたいと思っています。
Q. 現在注目しているJUNGLEのプロデューサー/レーベル/DJは?
SOTAというUKのアーティスト、DJです。次世代のJUMP UPの後継者であると認識しています。
ヨーロッパで活躍している日本人のアーティスト、TomoyoshiさんのJUMP UP、Tanukichiさんの4×4DNBにも注目して応援しています。
Q. INDRAさんのオールタイム・ベストのJUNGLEトラックのTOP5を教えてください。
-DJ Nut Nut / The RUMBLE (MAD RAGGA JOHN remix)
-Remarc / R.I.P. (REMARC remix)
-Marvellous Cain / HITMAN
-OMNI TRIO / Together (V.I.P)
-THE DREAM TEAM / STAMINA
Q. 「INDRA 30 YEARS OF JUNGLE」の開催を決めた背景について教えてください。
去年、DJ HORNとDJのIBIとで話していた時に「来年は30周年やし何かやりましょよ」という話題になり、開催する運びとなりました。自分自身で30周年イベントを仕掛けるのは恥ずかしいので、今回のプロデュースはDJ IBIによるものです。
捻りハチマキ用の手拭いをプレゼント、記念に動画撮影を行いYOUTUBEにアップという企画も彼の発案によるものです。「DJ続けて30年、感謝!」 というコピーも彼の提案によるもので、「ちゃんと周りの人に感謝してください」とご指導を受けています。(笑)
360°スタイル、いわゆるボイラールームスタイルでというのは私の希望とCIRCUS OSAKAのご協力があってのものです。先輩や後輩、たくさんの仲間の協力があって成立するイベントですので本当にありがたいことです。
当日は捻りハチマキの軍団が踊りまくっている地獄のような映像が撮れるように頑張ります。(笑)
Q. 30年に渡って音楽活動を続けられていますが、キャリアをストップさせようと思ったりしたことはあったのでしょうか?30年続けてこれた秘訣とは何でしょうか?
30年、確かに長くDJをさせていただいております。しかしながら何かを成し遂げたわけでもなくただ音楽が好きで、聞き続けているというのが本当のところです。キャリアをストップ、というのは自分にとって音楽を聞くことをやめる、ということになるのでそれはあり得ないことです。
音楽好きをやめなければDJを引退する事も起きません。活動できる時に活動し、忙しい時は活動しない、それで良いと気楽に考えています。何かの責任を負っているわけではありませんし、ただどれだけ音楽を好きでいられるか、であると思っています。稚拙なお答えで申し訳ありません。(笑)
Q. 最後に読者の方にメッセージを
最後まで読んでいただきありがとうございます。
みなさま、健康で長生きしましょう。長生きした分だけJUNGLEの進化の先、未来の音楽を聞く事ができます。一緒に長生きしましょう!
INDRA 30 YEARS OF JUNGLE
at CIRCUS OSAKA
https://circus-osaka.com/event/indra-30-years-of-jungle/
OPEN 22:00
DOOR: 2,000yen
-CIRCUS-
DJ INDRA
TETSUJI TANAKA
TOYO B2B DJ KENZ1
HAPPY NUTTY Crew (DJ HORN / DJ THUNDER / DJ YOSHIYUKI)
CHEALSEA JP
MAKOTO (Kyoto / RAVERS UNITED)
IBI
[LIVE P.A.]
秋井 仁 (ex. OFF MASK00 / サイケアウツ)
サイケアウツG × DIE-SUCK
-CATS-
DJ Spiralcut
101
shinyauchikawaWOOD (DOWN BY LOW)
Shigeki
KEI