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ソリトア奪還 –終話–畜生の散歩道


※文章には一部過激な表現が含まれています。物語として消化する想像力のない方は、ご遠慮ください。


竜の仔の物語 −第五章|1節|−
ソリトア奪還
−終話− 畜生の散歩道



 撤退は速やかなものであった。霧に紛れた兵たちは白鳳隊の追撃を受けることもなく港に辿り着く。船に乗り込む際には多少まごつきもする。しかし、待ち構えていた二人の若き魔法使いが、強い幻覚魔法で追っ手を撹乱させる。

 当然、白鳳隊は強力な咒具を携えてはいる。それが直ちに霧を吸い込み幻覚を中和するが、その少々の有余さえあれば十分である。レンジャーたちが負傷者とギュンダーの生き残りをガレー船に手早く誘導し、誰ひとり取りこぼされることなく、船は魔法の海流を受け、無事に出航する。

 イルカ号の船尾で、港に吹き溜まり矢を放つ白鳳隊をマールが見つめる。その先頭でバロギナが何やら喚き散らしているが、ここからではまるで聞こえはしない。

 「まさか、ソリトアの住人が、とばっちり食らうってのはないですよね。」ユンカーがぞっとした声を出し、バンバザルがそれを否定する。「さすがにそれはねぇ。そんなことしたら、王国も蛮族どもと変わりねぇってことになるだろが。」

 「ガイン殿。あの様子では、ヒンダリア卿はもう・・、」「そのことは、いまはお気になさらず、」マールの気遣いに、押し黙る獅子隊長の代わりにリパウザが答える。

 ガレー船はイルカ号にぴったりと付き従っている。その甲板ではリンドーが身体を休ませ、生き残った雌たちに囲まれている。その中には、ミライラの姿も見える。彼女はレオリンクたちと楽しげに話し込んでいる。

 下を覗けば、魔法の波が船を運び、時折虹色に輝いている。

 「戦死者は海に流し、弔うしかないだろう。」マールは船尾の縁にもたれる。

 「あたしが、ちゃんと死者の国へ送りますっ!」レアリィルが魔法の波を操り続けたままに言う。

 「ありがとう。リィル。」「いえ、あたしは姫様のお役に立てて嬉しいんです。」礼をするマールに彼女が顔を赤らめる。

 みるみるうちにレムグレイド大陸が遠ざかっていく。思えばあの大陸ではまるで無力であった。マールはそんなことを考える。メイナンドのあらゆる画策を止められず、ザッパに父上を殺され、すべての立場を捨て、向かった先のソリトアの民もろくには救えなかった。

 彼女はそんな陰鬱な考えを振り払うように首を振る。負けるものか。もう振り向くものか。内心で固めた決意を確かめるも、これからどうすればいいのか彼女には分からずにいる。

 だが、それはさしたる問題ではない。なぜなら、彼女にはすでに信頼出来る多くの仲間たちがいるからだ。

 「これからどうすれば?」背後に立つ者たちにマールから訊ねる。

 「謎の支援者からの軍師金があります。」リパウザが発言する。

 「晴れて逆賊なのだ。軍を再編するしかあるまい。」ギジムが事もなげに言う。「レンジャーとレオリンクと魔法使い、それから蒼獅子とドワーフ様の混合部隊だな。」

 「それがどういうことなのか分かってるのか?」と、ガインバルデ。

 「うんにゃ。」ギジムが髭を撫でつける。「王国に盾突く反乱軍、だろう? だが、軍隊なくして、闇の軍団には立ち向かえぬだろう。」

 「そうだな、もはや王都がどう思おうが構わない。」マールも同意する。「我々は、闇の軍勢に備えなければ。」  

 「まず、リンガーレンに落ち延び、それから考えるのはどうですか?」そこでキップに手を引かれ、フロバックがやって来る。皆は彼と挨拶を交わし、それぞれの事情を簡潔にすり合わせる。

 「おそらく、今頃ラームでは、ストライダたちが魔兵と戦っています。」フロバックが重大な事実をさらりと述べる。

 「何だって!」戦士たちがこぞって身を乗り出す気配だけで、盲目の彼は気圧される。

 「直ちに進路をラームへ!」マールの言葉に皆が頷く。

 「・・いや。」フロバックが片手をかざす。「だからこそ、我々は遠い北の地で体勢を整わせる必要があります。」落ち着いた口調で言う。

 「敵は明らかに同時期に、南と北へ攻撃してきました。それは団結しつつある我々の戦力を分断させる意図があったと推測されます。」

 そこでレンジャーたちが何やら騒ぎ始める。

 「何ですかね、あれ?」ユンカーが目を細め、バンバザルが携帯望遠鏡を覗く。「何だろうな?ストライダでもいれば、少しは様子もわかるだろうがな。」

 「どうしたのだ?」ギジムが近づき、皆が顔を向ける北東を見つめる。大陸に挟まれた空と海の稜線に、うっすらと八つの柱のようなものが立っている。

 すると、その方角から空気が破裂するような音が聞こえる。それも軽い破裂音ではない。重く腹のそこに響くような音だ。そうしてみるみるうちに北東の空が真っ赤に染まる。

 「あれは、火?」そう呟くレアリィルの隣で、キップが師に状況を伝えている。



 轟音を上げ、赤く煌き、黒雲に覆われていく北の彼方を皆が見つめる。

 「嵐ではないですな。」カイデラが言い、「火事にしては規模がでかすぎる。」バンバザルも言う。

 「あの方角は、ドライアド諸島とハースハートンの内海。」ギジムが眉を引き上げる。「・・そして、ラームがある辺りだ。」

 「ならば尚更、進路をラームへ!」取り乱すマールに、リパウザが意見する。「・・いや、フロバック殿の言う通りです。あの様子はただ事ではありません。もしラームが壊滅したとすれば、今いたずらに戦力を集めるわけにはいきません。」

 「壊滅などせん!」ギジムが吠えるように言う。

 「・・いえ、もしもの話です。」リパウザがドワーフの剣幕にたじろぐ。

 「アムストリスモの長も、同意見です。」フロバックが言う。「だからこそ、我々にソリトアを任せ、メチア様はラームに専念しているのです。」

 「それに、今我々が動けば、レムグレイドも動いてしまう。」ガインバルデが口を開く。

 「しかし、大丈夫なのか?リンガーレンのウルフェリンクはずいぶん保守的だと聞く。我々を受け入れるとは思えぬが。」なおも渋い顔のギジム。

 「“竜の調印”」フロバックがめしいた瞳でマールを探る。

 「リンガーレンは、すでに、あの調印に応じております。」

 「確かに、クリクがそのような話をしていたような。」カイデラが首を捻る。「なにぶん、あやつの話はでっち上げが多いゆえ、あまり聞いてませんでしたな。」

 「ラウくんたちの調印。」マールが思わずそう溢す。

 「はっ!」そこでギジムが笑う。「またあやつらのお陰か!我々は助けられてばかりではないか? なあ、マールよ。」ムカデのような眉を引き上げ、彼女を見る。

 しかしそこで突然、マールが胸を押さえ悶えはじめる。「・・なん、だ?」

 「どうしたのですか?」カイデラが駆け寄り、彼女の肩を抱く。

 マールはひと目を憚からず、襟を引っ張り、胸をはだける。そこにはラウによって付けられた印が、煌々と輝いている。

 「力が・・、」よろめく彼女が縁にもたれ、震える指でその掴んだ縁が、腐った木切れのように砕かれる。

 「力が、漲っているようだ、」

 さらに彼女が何かを言おうとしたその時、イルカ号の帆を強い光が染める。皆が再び北に視線を送れば、今度はその遥か彼方の海に、虹色の太い柱が空へと登っていく。

 次々に起こる怪異をまるで把握できず、誰もが唖然として声も出ない。

 「ラウくんに、何かが?」しかしマールだけが、熱を持った胸を押さえ、そう呟く。

 

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 「ぶはぁ!」イヴロニオが河の底から浮き上がる。

 「くそっ!くそっ!くそっ!」浅瀬を這いつくばり、泥まみれで悪態を吐く。

 彼はミライラから逃れるままに一目散に戦場を離れ、尾根沿いに戦場を逆走し、そのまま流れの速い濁流に飛び込んだのであった。

 そこまでしたのはミライラの魔法の剣を警戒してのことだ。彼はウルウミの件で、魔女にはつくづく懲りていたのだ。

 「なんだってんだよぉ魔法ってやつは!」彼はかつて魔女を奴隷として側に置いていたことがあった。しかしその当時、魔女と呼ばれ連行されてきた少女は、驚くべき生命力で彼の拷問をいつまでも耐えはしたが、まるで魔法らしきものは振るわずいた。以来、彼は魔法を侮り、信じてさえいなかったのだ。

 「そういやぁ、あの指輪が無くなったのと、ガキが姿を眩ましたのは同時期。」そこで彼は遠い記憶を手繰る。

 アグラリアの指輪。あらゆる魔法をすべて無効化すると云われる、ベラゴアルド六神器のうちの一つ。昔、親父がどこぞの商人から奪った代物だと聞いた。実の父親の寝首を襲い、自ら息の根を止めた彼には、今となっては真相を知りようがない。

 「親父からぶん捕ったあの指輪、言い伝えは本当だったってのかよ。」忌々しげに唾を吐き出す。 

 彼は頃合いを見て尾根に戻っていく。いくらとんでもなく強い戦士がいようが、魔法使いだろうが、あれだけの少数で戦場を覆すことなど不可能だろう。そろそろ戦は終結しているに違いない。彼はそう踏んでいる。

 タイロン人はイナゴ並に多く、しつこく、しぶとい。数こそが力だ。数こそが命を軽くし、そのうねりがひとつの獣となる。弱き者、少なき者を蹂躙し、喰らい尽くす獣だ。そう。ねじ伏せる、殺す、犯す。まずくなったら逃げる。それだけだ。それだけで、誰もがおれに従う。彼は死体の山を踏み、一心不乱に丘を越える。おれはそうしてきたし、これからもそうしていく。そんなことを考えつつ、彼は戦場に戻る。

 「ともかく、これで、ようやくおれがタイロンの王ってわけだ。」彼は薄ら笑いのままに、大量の死体が散乱する戦場跡をひた走る。

 しかし最後の丘を越えると、彼は自分の浅慮を痛感する。そこにモグドームの者は一人も見当たらず、代わりに、信じられないほどの数のレムグレイドの兵士たちが一面を埋め尽くしていたからだ。

 彼は慌てて這いつくばる。近くの死体に潜り込み、息を殺して丘からソリトアの様子を覗き見る。

 白銀や緑や黄金。色とりどりに輝く兵士たちが街に進軍し、通りを埋め尽くしている。それぞれがタイロンではあり得ぬほどに立派な装備を身に付けている。馬も槍も掲げる軍旗も、繊細で豪奢な刺繍が施されている。その光景こそがイヴロニオの信じてやまない数の暴力。そしてその力にさらに分厚く塗り重ねられた、文明の力を思い知る。

 「くそっ!」彼は歯がみし、身を低くしてその場を離れる。

 輝く鎧を纏ったレムグレイドの兵士が追って来る妄想に駆られ、背中に恐怖を貼り付けたままに、振り向きもせずに逃げ続ける。そうして河が見えると、またしてもその奔流に飛び込むのだった。



 「くそっ!くそっ!」先ほどと同じくして、水を吐き出し、悪態をつけながら大地を殴りつける。

 それからとぼとぼと歩き出し、今度は戦場跡を避け、東へ進む。丘を幾つも越え、木の根方で眠り、かつて自分たちが蹂躙した農村で食料を漁る。泥水を啜り、タイロンの気候とはまるで違う、冷え込む蒼梟の夜を震えながらやり過ごす。

 途中、味方の残党と遭遇するが、襲ってきたので、躊躇いなく彼らを叩き殺す。イヴロニオは卑怯で残忍だが、タイロンの王に見合うほどの実力も、最低限は併せ持ってもいる。

 そうして、彼は知らずのうちに切り立った渓谷に入り込んでいる。しばらく歩くともの凄い死臭がし、積み上げられた死体にグールが群がるのが見える。彼が斧でその数匹を叩き殺すと、魔物は四散し、しばらくすると戻り、遠巻きに彼を眺める。

 「あん?こりゃ、ググリか。」イヴロニオはその死体の装飾から、モグドームに従属する部族の者だと判断する。

 「そういやぁ、こいつらは東に向かってたんだったな。」何があった? 彼は死体の山を漁る。ほとんどの者の手足が千切れ顔面が潰れていて、到底人間の仕業だとは思えない。

 彼がしゃがみ込むと、餌を横取りされると感じたのか、グールが再び騒ぎはじめる。千切れた手足を放ると、それに飛び付き、しばらくはおとなしくなり、すぐに肉を奪い合い仲間割れをはじめる。

 「魔物の仕業か?」そう呟きつつも、ナイフで腐っていない箇所の肉をそぎ落とし口に咥える。彼が死体を調べているのは、不浄なる屍鬼と同じく、腹を満たすために他ならない。

 「お、こりゃ、族長のバーホンじゃねえか。」彼は肉片の装飾からそれを判断する。「なんだよ、全滅ってか。」無感情でそう呟き、バーホンの目玉の奥を探り、その指に付いた脳髄をじゅるりと啜る。

 ある程度空腹が満たされると、彼はふたたび歩き出す。狭い渓谷の道を抜けると、またしても丘陵地帯が広がる。

 丘の連なりが広がる単調な風景だが、イヴロニオにはそののどかさの中に、そこがどの部族の略奪行為にも遭っていない土地であることを、臭いで嗅ぎ分ける。



 さらに進み、小ぎれいな小屋が見えると、惨めな気持ちが一気に吹き飛ぶ。彼は涎を拭い、それでもすぐには小屋に近づかない。叫び出したくなるほどの情慾を必死に抑え、藪を見つけて夜を待つ。

 夕方になるとロバを連れた男が現れる。小屋の戸を叩き、開いた隙間から女が見える。それだけで彼は下半身に激しいうずきを感じる。数刻後に、井戸水を汲みに来た少女を見ると、喉から競り出る歓喜の声を必死で抑える。しかし、身体は意志に反し、藪を飛び出している。駆け上がりながらも履き物を脱ぎ去り、醜い下半身を晒しながら走っていく。

 扉を蹴りあげ、驚愕の顔で椅子から立ち上がる男に向け、素早く手斧を投げ付ける。女が振り向き、声も出せずに皿を落とす。

 「ひょおおお!」奇声を上げて机に飛び乗る。机に突っ伏した男の脳天に突き刺さる斧を抜き取り、恐怖に引きつる女の顔を見ると、彼の目尻が滑稽なほどに引き下がる。

 女は声も出せず、すでに滑り落ちた皿を持つ手のままに固まり、イヴロニオを見つめている。しかし奥の戸口が開くと、母親の本能で咄嗟に動き、急いで顔を出した少女を抱きかかえようとするも、その手が届く前に、髪を掴つかまれ引き戻される。

 「げはぁ、」とめどなく溢れる涎を、イヴロニオは拭いもしない。母親の耳の裏の匂いを嗅ぎ、そのまま服を引き千切る。声を上げそうになった少女を蹴りつけると、棚にぶつかり少女は気を失う。

 破いた布をその口に押し込み、机に押しつけ、スカートを引き裂き、そのまま頭蓋の割れた旦那の隣で屹立したものを押し込む。普段の流儀とは違う手順だが、彼は構わない。

 母親は涙と鼻水を垂らし呻く。イヴロニオは笑いながら女を突き、目を剥き脳髄を垂らす旦那から顔を逸らそうとするその顔を、強引に旦那の方へに向ける。

 絶頂はすぐにやってくる。「・・おおぅ。」間抜けな声で白目を剥き、しばらく女の背中で休む。放心するまま視界に飛び込んだ少女の白くなめらかな首筋を見ていると、すぐに彼の下半身が蘇る。

 母親を投げ捨て、少女の方へ歩いていく。それを阻止しようと母親が組み付いてくる。肘鉄を食らわすと呆気なく倒れる。それでも鼻血を流しながら立ち上がり、獣みじた声で向かってくる母親を何度も殴りつける。

 すると、彼の中の別の嗜虐性が蘇る。馬乗りになり殴りつけ、腕を押さえ、まずは指から切り落とそうと手斧を振り上げる。

 「きゃぁぁぁ!」そこで少女が眼を醒ます。イヴロニオはその叫びにぴくりと反応し、野犬のように首だけを向ける。

 少女は何が起こったのか理解出来ぬ様子で、彼や母親や、机に突っ伏す父親へと、定まらぬ視線を向け、叫び続ける。

 イヴロニオが嬉々として立ち上がり、少女の胸ぐらを掴んで持ち上げる。手斧で切り目を入れると、自重で簡単に服が破ける。そこから覘く白い肌と小さな乳房に彼は堪らず声を上げる。髪を掴み、床に叩きつける。股の間に片足を挟み、下着を引き裂く。

 叫びを上げる少女が戸口のほうへ首を向けると、不意にそこで押し黙る。一点を見つめ、まるで動かなくなる。イヴロニオは無意識にその視線を追う。戸口には黒い鳥が見える。彼は構わず行為に及ぼうとするも、妙な予感に動きを止める。もう一度振り向くと、鳥だと見間違えたのか、そこには人影が見える。

 「なんだぁ?」警戒する彼の顔に、薄ら笑いが伴ったのは、戸口に佇む女の頬に、タイロンの娼妓奴隷の印が刻まれていたからに他ならない。

 しかし彼はすぐにその口元を引き締める。そもそもこんな場所でタイロンの奴隷に出会うほうがおかしい。何より、その女が自分を見て逃げ出さないこと自体、不自然だ。

 「なんだお前、どこからきた?」問いかけつつも彼は膝を立て、飛び上がれる姿勢を取る。女は何も言わない。青い髪と瞳の色でタイロン人に間違いないだろうが、気になるのは、その右手に携える奇妙に捻れた杖だ。

 「誰だ?まさか、おれに会いににきたってわけでもねぇんだろ?」警戒しつつ、ゆっくりと立ち上がる。

 タイロン人の女は微笑をたたえて戸口から動かない。それから妙に親しげそうな顔つきで眼を細め、何かを呟くが、イヴロニオはベラゴアルド共用語を理解しない。

 「何を言ってる?」

 彼が呻くと、女は頬を上気させ、まあ、と小さく呟き、それからタイロン語でこう言う。

 「ずいぶん探しました。わたしの愛しい人。」絶句するイヴロニオに構わず女は続ける。

 「もしかしてそれは、あなたの新しい奴隷ですか?」そう問いかけ、冷たい視線を少女に送る。つられてイヴロニオもその目線に合わせて、目を落とす。

 子どもは黙り込んでいる。目を見開き、瞬きもせず、時を止めたかのように固まっている。

 彼は反射的にその場を飛び退く。見れば、母親も立ち上がる途中の不自然な姿勢のままに、鼻から流れる血さえも固まっている。

 「へへ、」彼は薄ら笑いで肩をすくめる。そこでイヴロニオは、その女が魔法使いだということを、完全に確信する。

 「こいつらは、・・その、奴隷じゃねえよ。・・おれぁ、ただ、ええと、ここへ立ち寄っただけだ。」苦しい言い訳を連ねる。机に伏せた男の頭をぺちぺちと叩き、「これは、事故、ああ、ただの事故だ。」そうも言ってみる。

 「奴隷じゃない?」女の顔がぱっと明るくなる。

 「ああ、そ、そうだ、・・おれぁ、もう行くぜ。後は、まあ、茶でも飲んで、ゆっくりしてろよ。」しどろもどろで適当な言葉を吐きつつも、心底安堵したように息を吐く女の様子に戸惑う。

 女は片手のねじくれた杖をこつんと打ち鳴らす。すると、背後でがたりと音を立て、母親が動き出し、少女が再び甲高い鳴き声を響かせる。

 「ならばよかった。さあ、行きましょうね。」

 「なんだと?」栓を開けたふうに泣きじゃくる子どもの声で、よく聞き取れない。

 「行きましょう。わたしたちはもう離れない。ずっと一緒ですよ、イヴロニオ。」

 そう聞こえたのを最後に、イヴロニオの耳の奥でぱちんと何かが弾ける。

 それだけで、彼は何も考えることが出来なくなる。膝を折り、床だけを見つめる。勝手に手足が動き出す。辛うじて動く目玉を動かし、自分の手と膝が前へ進むのを、ぼんやりと見つめる。やがて女のブーツが見えると、なぜだが堪え切れぬ嬉しさが湧き上がる。彼は至極の情動で彼女のブーツに舌を這わせ、汚れた泥を舐め取っている。



 つま先を舐めるイヴロニオをサァクラス・ナップは愛おしそうに見つめる。頭を撫でてあげると、その肩が喜びに震える。歩き出すと、必死になってよちよちとついてくる。魔法で顔を上げることも、声を発することも出来ぬが、その彼の様子を眺めているだけで、彼女は何年も感じ得ることのなかった、底知れぬ充足感に満たされる。

 「・・あの。」

 背後の声に彼女は振り返る。見れば、ずたずたの服で胸を押さえた母親がこちらを見ている。

 「まだなにか?」サァクラスが首を傾げる。

 「あ、ありがとうございます。」母親が泣きながら言う。「・・うう、・・む、娘を助けてくれて・・、」嗚咽がひどく、それ以上は聞き取れない。

 サァクラスがさらに首を傾げる。そうしてこう言う。

 「お礼をするのは、わたしの方です。」

 その言葉に母親が顔を上げる。彼女と同じように首を傾げ、その言葉の真意に理解しかねている様子。普段ならそこで立ち去るのがサァクラス・ナップだが、今の彼女はとても気分が良い。

 「奴隷にならずにいてくれて、感謝しています。」泣き顔の母親に笑いかける。母親は小首を傾げ、命を救ってくれた魔法使いの言葉をなおも待っている。

 しかし彼女は何も言わず、踵を返す。そうして付き従うイヴロニオをもう一度撫でる。

 「もう誰も、奴隷にはさせません。そうでしょう?イヴロニオ。」眼を細め、慈愛に満ちた顔でその後頭部を撫でる。

 「これからは、あなただけがベラゴアルド唯一の奴隷。わたしだけのもの。前とは少し立場は違うけれど、そんなことは構わないでしょう?これからはあなたとわたし、二人だけで喜びを分かち合いましょうね、愛しい人。」少女のような声を出し、うっとりとした眼差しを向ける。

 イヴロニオは答えることが出来ない。ただ、震えるその肩に力がこもる。それでも彼は主人が動き出せば、その踵を追い続けることに夢中なる。

 丘を一つ越えると、這いつくばり進み続けるイヴロニオの指の爪が剥がれる。剥き出した膝は擦り切れ、桃色の肉が見えている。それでも彼はサァクラスの追うことが止められない。いや、むしろ楽しくてしかたがないのだ。

 彼は叫び出したい感情を声に出せず、愛しいその姿をひと目でも見たい欲望のままに、地べただけをひたすら眺める。流れ出る涙の理由すらも理解できず、傷の痛みを頼りに意識を保ち、何か思い出そうとすると、いじけたような気持ちが沸き上がり、何も考えずにいると、喜びが下腹部を熱くし、肩が振るえ、手足の痛みがさらなる喜びを引き連れ、だらしなく垂れる涎と汗すらも見れば見るほど何だか愉快で、声は喉元で潰れ、呻きすらも上がらず、時折聞こえる彼女の歌声だけで、喜びのあまり小便を垂れ流し、射精すらするのだが、彼にはそれが今やどんな感情かも理解出来ず、底知れぬ屈辱と恥辱と怒りと惨めさがないまぜなった感情が時折湧き上がっては、それすらもさらなる悦楽を引き出す切っ掛けでしかなく、ただ手、足、手、足、と、せっせと身体を動かし続けることだけで楽しくなる。

名称未設定のアートワーク82-1


 ソリトア東部の丘を魔法使いが歩く。その後ろを、這いつくばったイヴロニオが必死に追いかける。

 家路に急ぐ牛飼いがその様子を見つける。遠目でみれば、彼女の連れているものは、年老いた犬にしか見えない。

 その様子はとても優雅で、牧歌的でもある。魔法使いは仄かに杖を光らせ、軽やかな足取りで、丘の稜線沿いを楽しげに散歩する。時折、風に乗り鼻歌が聞こえる。

 牛飼いは、あまりに楽しげな彼女の歌声に顔を綻ばせる。いったいなにを歌っているのだろう? 牛飼いは耳をそばだて聴き取ろうとするが、それはどうやら、レムグレイドで聞くような、ありふれた歌ではない様であった。


−第五章|1節| 終わり−



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