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ラームの攻防 −その3−ミルマの戦い

竜の仔の物語 −第五章|二節|−
ラームの攻防
−その3−ミルマの戦い


 ラームにいよいよ魔兵が迫る。北東、リコラへ続く街道の坂道からずらりと隊列を成し、後方は魔法の霧に隠され、その全容は窺い知れない。空は黒雲が陽を隠し、時折吹く向かい風が戦士達の髪を揺らす。

 「すげえ数」アルベルドが首を鳴らし、身体をほぐす。砦の防壁には二十名ほどの従事者が弓を携え、壁中のかがり火に薪をくべている。「なあ、良いのか?爺さま。やつら死ぬぞ」

 「連中は、最後まで砦を守るときかぬのじゃ」ダバンが答える。

 「…にしても、合わせて三十人もいねぇんじゃ、」

 「その中にはドラゴンと雷獣神がいるのだ、十分じゃろう」

 「どういたした?アル、怖じ気づいたか」

 「ばかいってんじゃねえダオ!」アルベルドが吠える。「お前こそ、おれ様の必殺技を見て、ちびるんじゃねえぞ」

 「必殺技、…であるか」子供向けの芝居のような彼の科白に、ダオラーンが溜め息交じりに首を振る。

 そこでラウとルグも防壁に上ってくる。彼らは鎧姿ではなく、見た目は普段着のような服を着込んでいる。

 「どうかな?寸法は丁度良いようだが」二人にブブリアが声を掛ける。

 「うん。丁度いいね」ラウは着丈が短めの藍色の外套を身につけている。「それにこれ、すげー動きやすい」一方のルグはうぐいすと橙、二色柄のぴたりとしたひと繋ぎの服。

 「ラームの遺物だ。コポック族が織り込んだと言われ、鎧よりも丈夫で、寒さにも暑さにも強い」コポック族。鱗の肌に鼻も口もなく縦に回転させたような大きな瞳が特徴の、大戦以前まではベラゴアルドに広く営んでいたと謂われる謎多き種族。ラウは以前、メチアからそう聞かされたことがあった。

 「ありがとう、ブブリア」二人の素直な反応に堅物のブブリア老人も顔を綻ばせる。

 「アルはこれを」ダオラーンが“盾の輪”を差し出す。「冗談!おれはこれ」アルベルドが双剣を抜刀してみせる。「防御は性に合わねぇっての」

 「それはダオ、お前が使うが良い」ダバンがそう告げる。「元来、その盾はお前が一番上手く扱える代物じゃて」

 「では、アルデラルの力、存分に発揮いたしましょう」ダオラーンが盾の輪を左腕に装備する。

 「それで?今だ魔兵は攻めては来ない様子だが」ルーアンが口を開く。

 「うむ。守りの咒具の影響でしょう」ブブリアが指差す。「見ての通り、魔兵はあの際から一歩も脚を踏み入れない」

 どんよりとした曇り空の下、坂の中腹で整列する敵の陣形の手前から砦に至るまで、僅かに陽の光のような明かりが差している。

 「作戦を確認するが、」「我はラウとともに、闇の魔道士を見つけ、なるべく早く打ち倒す」ダバンの言葉にルーアンが応える。

 「おれの相手はオーギジアル」ルグが断言する。

 「魔兵は相手にしない。一直線に敵の司令を叩く。…だろ?」ラウがシチリの剣を抜刀する。

 「うむ。魔兵は我々に任せろ。わしとブブリアはソッソと共に砦で戦況を見る。アルとダオは二人の支援へ。皆、角笛の合図は覚えておろうな?」後は守りの結界が消え次第、順次対応。ダバンの言葉にストライダ達が頷く。大まかな作戦立ててはいるが、敵の数が数だけに、戦いは流動的に変化するだろう。

 そこで結界が一段階縮まる。それに合わせて敵の列が数歩進む。一郭がさらに先へ進み、結界に脚を踏み入れる。魔兵はしばらく隊列を崩さず進むが、急にばらけはじめ、それぞれ違った行動を取り始める。その場で惚けた様に一点を見つめるもの、しゃがみ込み穴を掘り始めるもの、頭を抱えてうずくまるもの。奇声を上げて走り出したものは、結界のさらに深い場所にまで踏み込むと、全身から血を吹きだし、ばたりと倒れ込む。

 「何やってんだ?あいつら」それを見たアルベルドが息を漏らす。

 「結界を試したのだろう」ブブリアが鼻を鳴らす。

 「ウォー・オルグだって、仲間じゃないのかよ!」敵とはいえ、使い捨てのその仕打ちにラウが憤慨する。

 「それにしても、我ながら、結界の加護の強さには驚いたぞ」ルーアンが冷静に言う。

 「沼地は魔法を渋るがな、おそらくはベラゴアルド一の魔法使いじゃろうて」ダバンが言う。

 「すこし待った方がよさそうですな」ブブリアが意見する。「矢が届く範囲まで来たら、まずは、あるだけの矢を向けましょう」

 「それもよかろう。…だが、」ダバンが空を見上げる。「この空はどうじゃ? 我らにとって有利になるものか?」そう言い、ルグに鋭い眼を向ける。

 そこで丁度、ルグの鼻先に大粒の雫が落ちる。彼は鼻を鳴らし、辺りの匂いを探る。

 「…なあ、これってもしかして」

 「蒼梟のこの季節には、この雲は決まってフラバンジ大陸からやって来て、本格的な冬を連れて来る」ダオラーンが乱れた口髭を整える。

 「嵐だ!」それを聞いたルグが嬉しそうに声を上げる。目を瞑り、強く吹いた向かい風を、慈しむように思い切り吸い込む。

 「ねぇ、作戦変更ってのは、どう?」

 彼の得意げな物言いに皆が注目する。

 「結界が消える前に、まず、魔兵の数を減らす。」ルグは得意げに言う。「あ、でもその間に、ラウは魔法使いを探してもいいかな」

 「減らすとは?」ダバンとブブリアが顔を見合わせる。「どの程度の話じゃ」

 「うーん。全部は無理、まずは半分くらいかなぁ。魔兵、頑丈だし」さらりと言いのけるルグに、皆の口がぽかりと開く。

 「半分だぁ!?」アルベルドの声が裏返る。「ソッソの話し聞いてただろ?五千の半分って、わかるか?」

 「そんくらいおれにもわかるよ」ルグが不服そうに言い、眼を閉じる。風が吹き、彼の髪が持ち上がる。それから彼が眼を見開くと、その瞳が獣の輝きを増す。

 「むむ!」突風が襲い、従事者たちがうずくまり、ストライダたちでさえ脚を踏みしめる。北の黒雲がぐんぐん迫り、急激に大粒の雨を降らす。

 「決まりだよなっ!」嬉々としてそう言い放つラウに、ダバンが曖昧に頷く。

 「行こうぜ!ラウ!」ルグが叫び、その場で一回転すれば、銀色の輝きと共に巨大な狼となる。

 勢いよくラウがその背に乗り込むと、短い遠吠えを挙げてルグが飛び上がる。風を蹴り上がり、さらに蹴り上がる。上空高く蹴り上がり、二人は黒雲の中へ消えていく。



 突然降り出した大粒の雨に構わずミルマがひた走る。手を振り上げ、こちらへ向かって砂浜を走るサチュロスに、松林へ戻るように叫ぶ。

 少し後ろを走るソレルが砂浜の瘤に気がつく。その砂の盛り上がりが、火に追われる導火線のようにしてサチュロスに迫る。

 疾走と抜刀と跳躍、流れる動作で彼は叫ぶ。

 「レザッド!」

 彼の背後で、すでにレザッドは矢をつがっている。リムを引き寄せ、放たれた高速矢はソレルの耳許をすり抜け、砂浜を低く進む。目算通り砂から飛び出すウロイドの背を狙う。

 と、そこで藪から放たれた別の矢が、レザッドの攻撃を弾く。

 突然砂の中から現れたゲヲオルグに、サテュロスが脚をすくませる。「逃げて!」ミルマの叫びに反応し、背後に気を取られるウロイドの隙を突き、砂浜を横切り走り出す。

 再び砂に潜り込もうとするウロイドに、大振りの刃が振り抜かれる。不自然な姿勢のままに、腰の関節をずらしてウロイドがそれを避け、振り上げた両腕を素早く振り下ろす。その硬化した指と銀の刃が重なり、互いに弾かれる。

 ソレルは剣を砂に一旦突き刺し、腰の二振りのダガー抜く。そのまま円を描き、長身から振り下ろされる手刀の連撃を短い間合いで受け止め、互いに踏みしめた脚が砂と雨を散らす。

 レザッドはゆっくり進みながら、矢を放ち続ける。ウロイドと競り合うソレルの背後、その間近で矢と矢がぶつかり合う。藪から放たれた矢が彼の援護をことごとく弾いていくのだ。

 「ピフか」彼は呟く。こんな芸当が出来るのはやつ以外にあり得ない。

 逃げたサテュロスの近くから魔兵が飛び出してくる。山羊のツノを掴まれるも、その腕はマリクリアの矢に千切り飛ばされる。悲鳴を上げ、混乱したサテュロスが別の方向へ走り、藪の中へと入っていく。

 「ミルマ!任せたぞ!」ウロイドの攻撃を受けながらソレルが叫ぶ。

 「はいっ!」

 ミルマは振り向きもせずに藪へと入っていく。茎の太いハマタイロの折れ曲がり具合で、容易にサテュロスを追跡できる。方々から魔兵の気配がするので、彼女はもう声を掛けようとはしない。

 しばらく追跡すると、大きく茎の折れ曲がった空間を見つける。その先から辺りの草木に血が付いている。どうやらここでサテュロスが転び、怪我を負ったようだ。彼女は匂い消しの霊薬を振りまきつつも、追跡を続ける。



 「ふっ、ふっ、…ふぐっ、」青髪のサテュロスは恐怖のあまりどうしても漏れ出てしまう声を自分の手のひらを噛み、強引に塞ぐ。腿から溢れる血を雨が流し、ぱくりと開いた傷は深い。

 辺りには雨音に交じり魔兵の声と、濡れた草を踏みにじる音が聞こえる。彼女は半ば這いずるようにして藪を分け入るが、頭上のツノが茎に引っかかり、どうにも上手く進めずにいる。

 「うう」泣きながら彼女はうずくまる。耳を塞ぎ、膝を丸める。

 「…そのまま」背後からの声に彼女の肩が仰け反る。口を塞がれたその手に先に、見覚えのある少女の顔がある。

 「静かに」少女がすぐに腿の傷の具合を見て、傷薬を塗り込んだ布をあてがってくれる。

 「あの時の、おじょうちゃん」サテュロスが安堵の声を漏らす。

 再度口が塞がれ、奥から聞こえる足音を二人がやり過ごす。

 「ねぇ、あたしたちはちゃんと逃げたんだよ!」手を放した途端、サテュロスが早口で話し出す。「言われたとおり、マフィーとあたしは、街道をさけてっ…、」

 そこでまたしてもミルマが口を塞ぐ。魔兵の気配が近づき、遠ざかるのを待つ。

 「…マフィー?あの赤い髪の?」彼女を落ち着かせ、小声で訊ねる。

 「マフィーは、あたしを逃がして、…あの、化け物に、」えずくサテュロスをなだめるつつ、またしても近づく足音に二人して息を潜める。

 「あたしはミルマ。あなたは?」

 「…ハンナ」

 「ハンナ、よく聞いて。ここは敵に囲まれている。けど、あなたが動けば、一面のハマタイロが居場所を知らせてしまう」

 ハンナが黙って頷く。そこでようやく彼女は気持ちを切り替える。野で暮らすサテュロスの勘が、生き延びるための助言に耳をそばだてる。

 「まずあたしがこの周辺の安全を確保する」ミルマは早口で言う。ハンナの真剣な顔つきを見れば、彼女が自分の助言を、ちゃんと聞き入れてくれることは理解出来る。

 「それまでここで静かに座ってて」

 「ここは安全?」その問いかけにミルマが首を振る。

 「そうじゃない。けど、動かなければ、この雨と風があなたを隠してくれる。それに、ハンナの息はあたしが聞いてる。何かあったら、あたしを呼んでくれれば、すぐに駆け付けるから」

 「わかった」覚悟を決めてナイフを引き抜いたハンナに、ミルマがわざと歯を見せて笑ってみせる。それから顔を引き締め、野ねずみのように音も立てずに藪に消えていく。



 ミルマは身を低くして獣のように走る。ハマタイロの茎を折る音と、雨音と合わせて進むストライダの“脚”での最小限の気配は、風の音で完全に打ち消される。

 敵の影を見つけ、矢をつがえば膝を折り曲げ、濡れた地面を滑りながら射る。分け入った藪の先で二体のウォー・オルグが同時に倒れ込む。飛沫を上げながらその死骸に取り付き、矢を抜き取ればすぐに振り向いてそれを放つ。放った矢を追うように大胆に走り出し、倒れる敵の矢を抜き取り、近くの藪に潜み、今度はまんじりとも動かない。

 異変に気づいた敵が群がる。まだミルマは動かない。藪からさらに敵が増える。静かに矢を三本取りだし、角度を付けて同時につがう。

 手前に三、後ろに二。彼女の“耳”は、さらに奥から来る別の二体の足音を捉えている。“眼”を使い、狙いをぴたりと合わせる。

 突風が吹き、藪がさざめく。ぼたぼたとハマタイロの葉が溜め込んだ雨水を一斉に地面に落とす。その音と同時に倒れ込んだ三体の同胞に、残りの魔兵は一瞬だけ気がつかない。それから、目の前に現れた小さな戦士に視点を合わせるのにも、さらなる時間を要する。

 藪から分け入って来た二体が辿り着いた頃には、全てが終わっている。魔兵は呻き声を上げ、同じ場所で絶命した複数の同胞を眺め、合図の咆哮を上げようとした所で、首を跳ね飛ばされる。

 そうしてミルマは着実に魔兵を倒していく。潜伏と奇襲。雨と風と藪、地の利を活かした立ち回りを続ける。彼女は修行で培った技術をふんだん使いこなせてはいるが、並のストライダでもこうは鮮やかにならない。

 “脚”で潜み、“耳”で辺りを探り、同時にハンナの息遣いをも聞き漏らさない。敵を見つければ“手”で矢をつがい、“眼”で狙い、“腕”で精確に矢を放つ。つまり、彼女はストライダの能力をいくつか同時に発動させている。これはどんなに修行をこなしても成し得る技術ではない。並外れた才能、それからにべもない覚悟が彼女を短期間でこうも強くさせているのだ。

 辺りに敵の気配が無くなる。雨と風が激しくなり、本格的な嵐がやってくる。それでもハンナがその場を動かずにいてくれていることは、息遣いで分かる。

 藪を西へ真っ直ぐ進み、街道を目指す。息を殺して藪から様子を窺うと、魔兵が道に沿って警戒網を敷いている。そうして、焼けて禿げた草地から、隊列を崩さず、慎重に藪に入っていくのがみえる。

 この地形とマンテコラスを警戒して、かなり迂回して海岸を目指してる。ミルマはそう分析する。何て賢いんだろう。やっぱりそこらの魔物と違う。

 彼女は藪の奥に戻り、少し考える。

 あの様子だと、残りの魔兵は師匠たちの所にすべて向かうに違いない。エギドナとマンテコラスは、どれくらいの敵を減らしてくれただろう?二百か、多くて三百。街道の魔兵は見た限り三百ほど。おそらく藪には二、三百。この嵐に乗じて襲撃し続ければ、藪の敵はかなりの減らせるかもしれない。

 やれる。彼女は自信とともにマリクリアの鞭を握る。“リィスの鞭”、彼女が名付けたその名は、“アルデラルの勲”で詠われる、女の半身を持つ伝説の蛇の名だ。

 そこで彼女の“耳”が声を捕らえる。

 「…たすけてぇ」僅かに聞こえる消え去りそうな声。しかしそれはハンナの声ではない。

 (マフィーなの?)すぐに、ハンナが小声で応えるのが聞こえる。

 「いけないっ」ミルマは急いで藪の中に入っていく。



 「うかつだった!」ミルマは藪を疾走する。魔兵にも構わず、声のする方へ向かう。大きな松が見えると、枝に飛び付き辺りを見渡す。かなり向こうのハマタイロが割れるのが見え、その後ろから魔兵の頭が飛び出ている。

 彼女はその場で、ハンナを追いかける敵を射貫く。すぐに合図の叫び声がが聞こえ、方々から矢が飛んでくる。幹に隠れて矢で応戦する。魔兵の炸裂矢が枝を砕く拍子で飛び上がり、着地と同時に鞭をしならせる。

 「やあ!」鞭を腕に絡ませ尾を投げ付ける。指先から弾丸のように真っ直ぐに飛び出したマリクリアに魔兵の顔面が爆ぜる。脇を締めて鞭を引き寄せ、もう一度別の方向へ放つ。

 そうして彼女は走りながらリィスの鞭を振るう。握ったマリクリアを、手首だけで石切のように放つ。戻った先端を受け取れば、胸から逆手に投げる。そうして彼女は藪に絡めないよう、鞭を大きくしならせず、“点”だけの攻撃を繰り返す。

 やがて魔兵が追いかけて来なくなる。彼女にはその理由が分かっている。地面のあちこちに潜む、細い髭を避けながらさらに走る。

 「ハンナ!」かき分けた先に、山羊のツノを捉える。

 「ミルマ!マフィーが、マフィーが生きてる!」ハンナは笑いながら振り返るが、脚を止めてはくれない。

 「違う!」だめっ!その叫びが風にかき消される。ふっと足許が浮き上がり、逆さまに持ち上げられる。

 「しまった!」足首に絡みついた髭を鞭で千切るも、落ちた先で別の髭に絡み取られ、またしても持ち上げられる。宙に持ち上げられた、逆さまの視界の先に、瘤だらけの古木が見える。

 そうして、藪を飛び出したハンナが小首を傾げ、立ち止まる。

 「…たすけてぇ、…たすけてぇ、」

 「マフィー?どこなの?…今助けるから」戸惑うハンナが藪をかき分け古木に近づく。

 「だめ!逃げて!」その叫びに見上げれば、彼女はようやく宙に浮いたミルマに気がつく。

 「…なに?」ハンナが後退り、その両足に絡まった糸に気がつく。

 「…たすけてぇ、…たすけてぇ、」声が古木から聞こえる。不意に足を掬われたハンナが尻餅をつく。古木が渦を巻いて黄色く変色し、幹が繊維質のようにほどけて髭になり、その中心に土気色の巨大な男の顔が覗かせる。

 「ひっ!」それを見たハンナが絶句する。

 「…たすけてぇ、…たすけてぇ、」顔が口を開け、単調な声色でマフィーを真似る。その目玉は虚ろで、開かれた口蓋には、びっしりと細かい牙が生えている。

 「…いや、」ハンナは必死に抵抗する。髭に引きずられ、持ち上げられる。その先では、魔獣がすり鉢のような口蓋を赤く覗かせる。

 「いやあああ!」ぐんぐん引き寄せられる。口蓋がさらに広がり、穴ぼこにびっしりと牙が覗く。頭からすっぽりと丸呑みにしようと、ハンナの身体が反転させられ、魔獣が首を傾ける。

 それを狙ったミルマの矢が、魔獣の首許に突き刺さる。「ギュモォォォ!」金属が内部で回転する音にも似た、独特の咆哮を上げて魔獣が仰け反り、擬態した歪な鱗が現れる。太い四つ脚で立ち、自在に動く髭で、首許に刺さった矢を抜き取る。

 ミルマは絡み取られた片足の髭を狙う。しかしその攻撃は別で伸びて来る髭に向けられる。両足を持っていかれたら、そのまま股を引き裂かれてしまうからだ。さらに方々から髭が伸びる。腕に絡めていたリィスの鞭をしならせ、ひたすらに防御に回る。

 「こんのぉ!」ミルマが鞭を躍らせる。無限の髭を一本の鞭で千切っていく。大きく振り上げ、その先端が髭を叩けば、片腕で手繰り別のほうへ向ける。浮力を利用し、手首を絡ませ風車のように鞭を回す。頭上に引き寄せたマリクリアが背後の髭を叩き、そのまま横に薙ぎ払う。ハンナがふたたび引き寄せられると、彼女は素早く弓に切り替え、矢で牽制する。

 しかし魔獣の髭は砕かれた側から再生していく。もちろんミルマはそのことを知っている。知っていて、防御に回ることしか出来ない。

 どちらかが髭から逃れないと。ミルマは考える。マンテコラスは賢い魔獣だ。髭を無理に引き寄せないのは、矢を警戒しているからだ。

 …けど。

 彼女は箙を手探る。矢はマリクリアが三、炸裂矢が二本。その間にハンナを助けないと。

 ところが、魔獣は不意に攻撃を止める。ハンナのほうに髭を集め、彼女の身体中に髭を絡ませる。

 「いや、…ミルマ」差し伸べられたハンナの腕に髭が絡み、やがて顔面もぐるぐる巻きにされる。

 ミルマは急いで足首の髭を破壊し、地面に着地する。すぐに矢をつがい、引き寄せられるハンナの方へ走る。

 その動きにマンテコラスが警戒する。髭が顔を包み、四つ脚を反転させる。

 「まずい!」立ち止まり、急いで矢を放つ。炸裂矢が逃げ出す尻で爆けるも、魔獣は咆哮さえ上げずに、四肢を蹴り込み走り出す。もう一射。しかし放った瞬間にミルマは走り出す。急所を隠されたあの巨体では、残りの矢では、とどめを刺すことは不可能だからだ。

 「待てっ!」逃げられる。優れた潜伏能力を持つマンテコラスが逃げだせば追跡は難しい。次には魔獣は警戒し、髭さえも土に擬態させ、索敵の検知触覚として使いはじめるのだ。

 しかし、不意に魔獣が立ち止まる。前脚を上げて立ち上がり、襟巻きのように閉じていた髭を展開させる。しめたことに、前方で警戒網を敷く魔兵どもと行き当たったのだ。

 太い前脚が薙ぎ払い、四つ脚を踏みしめて魔兵を押しつぶす。負けじと魔兵が集まり、矢を放つ。マンテコラスがそれを嫌がり髭で矢を防ぎつつも、逆方向に脚を切り返す。

 そこをミルマは見逃さない。横から併走し、リィスの鞭をしならせ、髭の一部に絡める。

 混乱した魔獣が藪を踏みしめ、枯れた松をなぎ倒す。顔の近くの髭にもつれた固まりに、ハンナのツノが覗いて見える。彼女はそれを確認すると、気配を殺してしがみつき、髭の一部として、揺れながら、魔獣に同化して機会を狙う。


−その4へ続く−



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