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【後編】真っ白な未来に刻む、佐藤紳平の音と足跡

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楽しかったよね。こんな世界あったんだ

——そこから今に至る転機みたいなものって?

 この間亡くなった家内と一緒になったことと……あと家の中でちょっといろいろあって。弟がいるんだけど、弟が家の仕事(整骨院)を今度はやっていくっていうことになって。なんと俺はまた音楽一本でやるっていう形になったわけ。それが結局、うちの家内が立ち上げた「企画工房ひだまり」。
 要するに「あなたが音楽をやっていく上での企画を私が全部やっていくから、あなたは音楽の仕事をじゃあしていきましょう」……ピアノのレッスンだったり、いろんなところでうちの家内が仕事を全部取ってきて。それで音楽をやっていくっていうふうにスイッチをして。

——マネージャーみたいな感じですね。

 もうマネージャーっていうか、うちの家内が代表だったんで。マネジメントと、あとは別に俺だけに音楽をやらせるっていうのではなくて、いろんなミュージシャンが郡山にいるんで、そういう人にも依頼をしつつ、俺と一緒に音楽をやったりとか、そういうのも全部仕事に繋げるっていう。そういう形にスイッチした。

——もともと奥様も音楽をやられていて?

 ううん、まったく。ただ広告代理店にいたんで、何か企画を立てたりとか、そういう部分はものすごく長けてたっていうか、好きだったんだね。やっぱり俺が全然そういうの皆無だったんで……ゼロ。何か企画をしたりとか、そういう営業で仕事を取ってきたりとか、全くできない人間だったんで。音楽以外はできない。家内がそれを全部やったんだね。それでまあ二人三脚じゃないんだけど、やってたんです。
 けどやっぱり……郡山で音楽だけでやっていくことの難しさってのも、どうしてもあって。

——「ひだまり」が始まったのはおいくつのときのことで?

 10年前ぐらいですかね。10年くらい前にうちの家内と一緒になったと同時に、その仕事も立ち上げて。

——それまではじゃあ、そのお家の、整骨院で。

 そう、やってて、あることがきっかけでうちの弟に全部それを預けちゃって。俺は家内と一緒にその音楽の仕事、「ひだまり」の仕事をやろうっていう感じで始まったっていう形になったんですよ。

——とはいえ、やっぱり郡山で音楽っていうとなかなか難しいところが。

 それまで大口の仕事があったんですよ。裏磐梯のほうのホテルの仕事だったんですけど、それがすごく大きくて。それがあれば、他の仕事もやりつつ……いろんなところから音楽の仕事を取ってくれば、もう充分にやっていける。あとはレッスン業務をやったり、っていう形でやっていけるねって言ったら、リーマンショックだなんだっていろんなことあって、だんだんホテルの経営も下向いて……ってきたらやっぱり一番先に切られるのって、音楽とかそういう部分。カット、要するに「もうやりません、やれないんです」ってなったときから、さあどうするってなって。

——「(経営上)絶対に必要なもの」ではないですもんね。

 うん。まあでっかいその、ヤマハとかね、そういう企業にいるときなんかは黙ってても仕事入ってくるから、やれたっちゃやれたんだけど……やっぱり個人でやるとなると大変だよね。みんなね、どうやって食ってんだろうと思う。やっぱりみんな副業しながらやってんだってね、それだけではやれなくて。
 あとは例えば、パートナーの仕事がちゃんとしてて、資本があって……であればそういう、まあ余暇じゃないんだけど、そういうところで音楽の先生をやったりってことはできる。うちの場合はいかんせん、家内のほうが主で企画をやったりとかっていう感じだったんで、さあ仕事がなくなったらどうしようかっつうんで、「わかった。んじゃ俺、外に出てバイトする」って言って。
 面白かったのが、山岡家のバイト。一番面白かったね。

——へえ……!! 厨房に立たれてたんですか?

 そう。2年やったよ。なんでかって、うちの家内の実家が近くにあって、家内の両親がもう亡くなっちゃってて、空きスペースになっちゃってて。「ここで何かやる?」みたいな。今どきのカフェだったりとか、俺が音楽をできるような、そういう形で何かやるかみたいな話になって。「じゃあなに、ちゃんと料理出さなきゃなんねーじゃん!」。俺、料理趣味だから。家内も料理すごくうまかったんだけど。「じゃあちょっと俺、勉強してくるわ、バイトがてら」って。要するに、ちゃんと商業ベースで出せる料理ってどういうふうにやらなくちゃいけないかっていうのが、わかんなかったから。
 でもね、いかんせん50歳過ぎると、雇ってくれるところがなかなかなくて。そしたら山岡家は雇ってくれた(笑)いやーでも楽しかったよね。こんな世界あったんだ、みたいな。ラーメン大好きなんだけど。

——どういうところが楽しかったですか?

 いや、全部あそこで作ってるのね、スープからなにからちゃんと。それを日々、間違いのない味で出すっていう、それがすごいなあと思ってね。だからそれでバイトやったりもしたんだけど、ちょっとやっぱ時間的にも、お金的にもバランスが取れなくなってきちゃって。
 それで次に選んだのが、介護施設でリハビリをやるっていう。最終的にはそこに、ちゃんと正職員として入って。で、それをやりながら音楽もやるっていうのが結構できるような環境になって。

——それが今日こんにちまで。

 続いてるって感じ。すごくその、俺が今行ってる介護施設って、俺が音楽やってることにすごく理解がある施設で。まあそりゃそうだわね、施設の中でも音楽やらされてるから(笑)。だから外で(音楽活動を)やってるっていうのも、「ああ、じゃあなるべくその時間をちゃんと避けるような形で仕事組みますから」みたいなこと言ってもらって。今は、なのでその介護施設の仕事もやりつつ、音楽の仕事もやれるっていう環境になってて。

——すごくいいバランスですね。

 いいバランスだったんだけど、うちの家内が死んじゃったから、全部自分でやらなきゃならなくなっちゃって。今はそれが大変かな。

できるだけ断らないようにしたい

——さっきおっしゃってた空き家はじゃあ……。

 空き家は、家内が結構いろいろ頑張ってリフォームしてたんですよ、綺麗に。古い家だったんだけど、中だけ綺麗にリフォームをして、じゃあこれからここで何かやれるときはやっていこう……っていうふうに言ってたら突然亡くなっちゃったんで。

——あ、じゃあつい最近まで準備してらしたんですね。

 まあ準備もなにも、やろうかって話だけで終わっちゃった。そこで多分ライブだったりとか、ちょっと軽い発表会だったりとか、そういう形ではできたのかな。ただもう今、家内亡くなっちゃったんで、そこはとりあえず保留で。俺が今、もうありとあらゆる音楽をやるようになっちゃってるんで、そのあたりはまあ保留かな。やってる暇がないっていうか。

——もう結構ご自身の演奏で手一杯みたいな。

 手一杯なんてもんじゃなくて(笑)今もう毎日入っちゃってるんで。今、自分の名前を冠にした「Sinpe Trio」っていうバンド、あとピアノとバイオリンのデュエット。あとは最近チェロ……ノア楽器の社長がチェロやってんだよね。なんかいろいろ誘ってもらったり、あといろんな人といろんな音楽やったりとかして。
 あとは今ね、ちょっとした夢ができて。全国のストリートピアノを弾き回ろうかなと思って。ぼちぼち1ヶ月に1回、やり始めてて。この間は群馬の、高崎か。JR高崎駅に珍しいピアノがあって、それを弾きに行って、それを配信するっていう。観る・観ないは別として、自分の記録としてやってるんだけど。YouTubeで配信して……まあ30分くらいかな。

——今あちこちにありますもんね。

 そう、700ヶ所あるんだって、全国に。700ヶ所回れるわけないんだけど、まあ主要な都市いろいろ回って。山形行って高崎行って、あとは福島県内でもちょっといろいろやったりとか。で、先月ね、東京都庁にもピアノあるんだけど、都庁ピアノ(都庁おもいでピアノ)ってストリートピアノ。そこに行ってやろうかなとかって思ったら、ちょっと行く暇がなくて行けなかったんだけど。まあいずれいろいろなところに行って、回ろうかなと思ってるんですよね。

——面白そうですね。

 そう、面白いですよ。今いろんなことやってます、だから。

——だいぶお忙しいですね。

 もうヘロヘロになってるね(笑)。あとね、ついこの間から、ある人に企画立ててもらったんだけど。「夜の11時半ぐらい、寝る前にピアノ弾いてみてください」って言われて。それはインスタでライブって形で。今はだから夜の11時半ぐらい……もう酒は飲んでるしさ(笑)昨日もペロペロだったんだけど。そうなりながらバーって弾いて「おばんです」みたいな感じのことやってる。好き勝手にやってます。

——でも、まさに自由に。

 もう自由に、うん。

——かつてやりたかった形なのかもしれないですよね。

 そうですねえ。うちの家内が今までは、全部コントロールしてたっていうか。身体のこともあるんで、あんまり無理もさせたくないっていうのもあったのかな、そんなに忙しい形ではやらせてもらえなかったんだけど。もう今は全然ストップする人間がいないんで、やりたいようにやってるみたいな感じで。
 あとは、仕事としていろんなところで「やってください」って言われれば、「はいわかりました」って。明日も二本松の龍泉寺ってあるんですけど、そこに行ってバイオリンの人とコンサート、頼まれたり。

——「やってください」ってお声がかかって行くのって嬉しいですよね。

 嬉しいですよ。やっぱりできるだけ断りたくないなって思って、どんな仕事でも。重なっちゃったり……だから一日に2カ所とかっていうのはやっぱあるんですよね。午前中にここで、夜はここで、みたいなのは今あったりはするんですけど。できるだけ断らないようにしたいっていう感じで、やってます。

——同じチームの人とか、行った先で共演する人とかからもらう刺激はどうですか。

 もちろんそれはありますよ。この間のフロミュー(FROM "MUSICIANS" @Fukushima)なんてそうだよね。俺、あんまりああいうところに出たことなかったんで。Juni.がね、ああやって誘ってくれて。俺みたいなのって、ちょっと種類が違うじゃない、あの中で。ライブハウスに出るって言っても、俺らが出るのはまたちょっと違う雰囲気だったりとか。でもなんかJuni.が「出てくださいよ!」みたいな感じで誘ってくれて、もう「やるやる!」って言って。ああいうので一緒に出た人たちにすごくこう、刺激はもらいますよね。

——喜多方で拝見したときも、すごく格好よかったなと思って。

(笑)でもねえ、よく出してくれたなって。でね、結構やりたがりなほうなんで、シャープナイン(Koriyama ♯9)とか、そういうライブハウスとかに出るようになると、いろんな人に今度会うようになるじゃないですか。いろんな人と話すようになって、「じゃあ今度こんなイベントに出てくださいよ」みたいな話になって、誘われたりとかして。「いいの? 出て」「お願いします」みたいな。

——枝葉がどんどん広がって。

 広がってね。やっぱあっという間に広がるから、それは面白いなと思って。

——それがまた、どこに繋がってるか分かんないですもんね。

 分かんないね。本当、突拍子もないところからまたお呼びがかかったりとかもあるし。それはちょっと大事にしていこうかなと思ってるんですけど。もうね、こんなジジイなんか誘ってくれるのすごくありがたいし、そこら辺はちょっと垣根なくせればな、みたいな。

——そうですね。

「ああ、もしかするとこれだったのかな」

——ちなみに日々のお仕事の中でも音楽をやられる場面があるっていうことでしたけど、そこで音楽が作用するものっていうのは?

 すごいですよ。すごいです。例えば俺が今行ってるのって、デイサービスセンター。要するに一番の目的が、お風呂入らせるのがやっぱりちょっと危険、入らせられない。あと家族が介護疲れしちゃったりとか、ご飯もなかなかちょっと食べさせるの大変、みたいな。っていうので週に一日から、来る人だと一週間まるまる来る人もいるし。一番はやっぱりお風呂に入らせたり、あとは食事もちゃんとさせたり……通ってくれる中でのリハビリ、体を動かすっていうのが主になってる場所なんで。

 そういう部分で、俺が音楽をやってるもんなんで、音楽を通してのリハビリっていうのがものすごい作用があって。一番の問題は認知っていうのがあって。その日に起きたことだったりとか、数日前に起きたこと、そういう直近のはもう全然わかんないんだけど、なんと、歌。昔の曲を俺がピアノでバーって弾いて、一緒に俺も歌うんだけど、もうそれはね、間違いなく歌う。ちゃんと歌えんの。
 そこで、声を出させたりすることで一番問題なのが、嚥下えんげ機能っていうのがどんどん弱ってきちゃって。物を詰まらせたりとか、物を気管支に入れちゃって窒息しちゃったりとか、そういう危険性が非常にあって。あとお腹の力もないから、なかなか消化も難しかったりとか、食欲がなくなってきちゃったりとか。そういう力をつけるために一緒に歌ってみたり、リズムをとってみたり、曲を流してそれに合わせて体操をしたり、指をこうやって「♪親指、人差し指、中指、薬指」みたいな、そういう指折りをやったり。あとは声を「アー、エー、アー、エー」って出して、喉を上下させたりとか。そういうのを音楽を通じてやるんですよ。それは「音楽療法」ですよね。

 それを俺の場合は……機能訓練指導員っていう職業があって、リハビリの仕事をする。その仕事を持ちつつ、なまじっか音楽もできる人間だったので、それ(音楽療法)もプラスしてやっちゃうっていう。

——精神的にも肉体的にも効果をもたらしてるんですね。

 そう。音楽の力ってやっぱその点は強いんだけど、日本ではいかんせんその音楽療法っていうのがメジャーなリハビリではなくて。全部が全部、介護施設でそういう人を雇ってるかっていったら、全然そんなことはなくて、非常に難しい。だから「音楽療法士」っていう人はいるんだけど、その人たちがちゃんとそういう仕事ができてるかっていうと実際できてなくて、日本は全然。
 だから、柔道整復師だったり理学療法士だったり、作業療法士だったり看護師だったりっていうのは、ちゃんと国家資格として認められてるんだけど、音楽療法士だけをやってる人たちっていうのはすごく大変なんじゃないのかな。音楽療法士として入ったはいいけど、普通の介護職員として仕事をやってたりとかっていう、そういう難しさはあるんだけど。

 でも非常に面白い、音楽を交えてお年寄りと一緒にやるっていうのは。俺はだから、月に何回かは自分の電子ピアノ持って行って、昔の曲、その日に20曲くらいやるかな、1時間の中で。「一番だけ3回歌うよー」って言って、バーンって始めて、俺も実際自分で歌って。みんなだんだんテンション上がってくるから、歌ってると。わーってテンション上がってきて、それで20曲くらいやって。
 そういうふうなことを……まさか介護施設に行ってできるようになるとは自分でも思ってなくて。それはだから良かったのかなって思うね。

——だって当初は、ある種条件みたいに勉強してたものだったのが、最終的にここで交わる……面白いですね。

 交わっちゃった、面白い。自分が行ってる介護施設であてにされるようになってきた。今度はそれを、音楽を使ったちょっとした体操だったりとか、そういうものを映像化して、俺も音つけて、一つのパッケージにして売りにしていきましょう、みたいなこととか。結果的にだから、自分が音楽やってることがそういうふうに結びついて。

——分かんないもんですね。

 分かんないもんですねえ。だから、すごくやってて面白いですよ。それはやってて良かったなって。いろいろ、正直言って、自分が治療家としてだけその仕事をやっていくっていうのは、ものすごくちょっとやっぱり悩む部分があったりとか、下手すると「つまんねえな」みたいな感じで思っちゃったりとか。ところがそのお年寄りを見てると、すごいんだよね。いろんな人いるから、やっぱり弱りきった人からね、体がもうボロボロな人たちばっかりだから。そういう部分を、リハビリと音楽でだんだん力づけていったときのその反応、「ああ、もしかするとこれだったのかな」って思うようになって。それがいろんな部分に波及をしてるような気がしますよ、今この歳になって(笑)。

——それはもうずっと続けられてるからこそですよね。

 そうなんすかねえ。

生きてる間はやっていこう

——ちなみにお話前後しちゃうんですけど、音楽で影響を受けた人とか場所とかっていうのはありましたか?

 影響を受けた人……いっぱいいるんだよな。
 まずは高校生のときに、音楽部に入ったときの恩師。この人の影響は大きかったな、自分の音楽の指針決まっちゃったもんね。なんとその人は、別にクラシックだけやらなくていいんだよって。エレクトーンとか、そっちもちゃんとやりなさいって、後押ししてくれた。

——いいですね。

 あと、やっぱその人にピアノも習ったんで、音楽の向き合い方っていうのがものすごく刺激を受けて。熱い人だったので。今でもやってますよ、ちゃんと郡山で。バッハ研究会っていうのを主催して。合唱すごい人だったんで、まあ指揮もすごい人なんだけど。すごいんだ、マルチプレーヤーで。バイオリンも弾くわ、ピアノも弾くわ、歌も歌うわだから、その人の影響が強いのかもしれない。

 あとエレクトーンをやってたときに、その方は全国的に有名な人なんですけど、その方に一時期習ったときがあって。その人にもやっぱりかなりの影響を受けて。
 あと仙台で一緒にバンドをやってた、そのバンドのリーダー。ギターとボーカルやってた。その人のバンドに俺加入して一緒にやったんだけど、その人にロックっていうか、ロックのキーボードの弾き方っていうのを……習ったわけじゃないけど、教わったかな。

——いろいろまたちょっと変わりますもんね、きっと。

 あのね、とにかく「弾かなくていい」って言われた。「お願いだから弾かないで」って。「なに言ってんだこいつは??」って思って。

——その心はなんだったんでしょう?

 いやあの、そんなにフレーズが要らないっていう。だって今までだったら、その曲の中でダンダンダンって弾かなくちゃ気が済まないわけさ。俺だって。鍵盤弾く人間って。ところが「ちょっと待って、ちょっと待って」って言われて。「ここ、これだけでいいから」って、ポーンって二つの音だけ、白玉(1小節分)の音を。理解できないわけ俺、なにやってんのって。それってしかも、今まで自分が弾いたことのないようなテンションの音。
 要するにだから、引き算を教えてくれた。削ぎ落として削ぎ落としてって、それはすごく影響受けたね。その人に……教わったわけでもなくて一緒にバンドやってた中での、ロックとかそういうバンドでやるキーボーディストの立場みたいなのを、随分学べた。あの人の影響もすごかったんだよ。だからそういう意味では三人いるのかな。

——キーボードの使い方がまた、そのシチュエーションによって全然違いますもんね。

 全然違う。俺らのときって高校卒業してからバンドブームってなって、『イカ天』とか、そういうのがものすごかった時代で。ただキーボーディストって地味だったんだよね。

——そうですか。

 そう。あの当時だったら、レベッカのキーボーディストの土橋(安騎夫)さんとか、あんまり「弾きまくる」っていうイメージがなくて。本当にあのシンセサイザーの、ストリングとかパッド系の音をファーってやって、あと肝心なところでカンカンカンとかってオブリ入れたりとか、そういうスタンスだったんだよ。弾きまくってた俺にとってはもう、信じられないようなことばっかりで。

——確かに、昔の音楽番組の映像とか見ると、キーボード全然触らないで踊ってる人とかよく見ますね。

 そう。「舐めてんのお前!?」っていうような(笑)。で、今またその音楽も変わってきたよね。

——そうですね。

 結構みんなもう、いろんな音楽がミックスされてて。10年ぐらい前にミクスチャーっていったのか、それを。そっからが、みんなすごい実力だよね、本当びっくりしちゃって。みんな弾きまくってるし叩きまくってるし、すっげえなあ。

——(音符の)弾数がガンって増えた感じですよね。

 増えたね。上手いしみんな。びっくり。そういう部分で我々がこう、ついてくのはもうやめた。我々は我々の感じでやっていけば、それはそれで今アリなんだなって思います。

——ああいうものが、どうしても目立っちゃいますしね。

 目立っちゃうけど、結局俺らの世代もいるわけだから。いろんな世代があって面白いのかなって、今はね。だから今回こうやって誘ってもらったりとか。嬉しかったですけど。

——ありがとうございます。ちなみにその、「白髪はくはつのピアノマン」っていう呼ばれ方があるじゃないですか。それも含めてだし、白い衣装がすごく印象的だったりするんですけど、ご自身の見え方とか見せ方みたいなもので、意識されてることってあるんですか。

 ない。ないんですよ。これ作ったのはうちの家内ですもんね。

——あ、そこもプロデュースだったんですか。

 もう全部。俺、自分で考えたことなかったですね。たまたま頭は白かったんで(笑)白くなっちゃったんで、これは別に。そしたらうちの家内が白い服……俺、白い服着るなんて考えられなかったんで。んな膨張色、着てどうすんだよみたいな(笑)って思ってたぐらいだったんで。でも着てみたら「ああ、そうなんだ、なかなかなんだね」みたいな。
 全部もう、その日やる音楽の仕事の衣装とか、ライブとかの衣装とか、自分で決めたこと一度もなかったですね。うちの家内が全部、トータルでの見せ方っていうのを考えたんじゃないですかね。それをある程度、自分で覚えたので、亡くなってからもそこを踏襲してやっていこうかなっていう努力はしてるんですけど。

——メッセージさせていただいたときに、「ちょっと今途方に暮れてしまってて」っていうことをおっしゃってたと思うんですけど、この先のことって……今ちょっとお話伺ってた部分もあったかもしれないですけど、見えてきた部分ってありますか?

 なんにもないです、なんにも。今はただやりたいことやってるだけみたいな感じかな。ただその、自分がある程度ピアニストっていう形のものは何か残せたらなって思ってるんで、じゃあとにかく目標としては全国のストリートピアノをとにかく弾いて、「弾いてんだよ俺」っていう。そのぐらいかな、あとは自分が今やってる音楽を、粛々とやっていこうかなっていう。

——それが例えば、配信とかで形に残っていくものもあるしっていう。

 そうですね。この先の何か見えてるものっていうのは、もう家内が亡くなった時点で全てがなくなったから、ってことですね。どうしていいか分からないって感じだもん。

——今もでもお誘いとか、例えばレッスンの生徒さんとかもある種そうかもしれないですけど、お声はかかり続けてるわけですもんね。その中で見つけていくような感じなんですかね。

 自然とそういうふうになってくるんですかね、多分。ただもう俺らの歳になると、だんだん仕上げの時期になってきてるんで、何歳までこれ続けられるか。生きてる間は続けよう、みたいな感じの目標……あ、それかな。だから「生きてる間はやっていこう」みたいな、そんな感じで思ってるかもしれない。
 みんなね、そろそろ60過ぎて、「そろそろなんか、仕上げじゃないんだけど、くたびれる前までにちゃんとやっておきたいな」っていうのはあるんじゃないですかね、多分ね。ただ、俺の先輩とかが、今見ててもまだ70~80歳近くなってもやってる人はやってるし、向き合い方っていうのはどういうふうにでもできるから、まあ続けてればなんとかなるかな。死ぬまでやっていこう、みたいな。

——素敵だと思います。

 そういう考え方かもしれないですね。

——分かりました。


——一応、あらかじめ「これが伺いたいな」と思ってたことは一通り伺ってこられたんですけど。逆に何か「これ言ってないよ」とか「話しそびれてる」とか。

 ないんじゃないかなあ、わかんない……どうだろう。もうだいぶ言ったんじゃないかな。なんか、話を導いてもらえるのがすごく上手なんで、いろいろ喋っちゃいましたけど。まあ、これからもやっていきますよ、みたいな感じですね。

——なかなかその……バンドでご一緒するっていうのはもしかしたら難しいかもしれないですけど(笑)。

 そうだねえ(笑)。

——だから観に行けるタイミングとかあれば、ぜひとも。

 ああ、そうですね。俺も逆に観に行けるタイミングがあれば行きたいっすわ。

——だから今日CD持ってこようと思ったんですけど忘れちゃって!

 あら~、なんだあ、そっか。じゃあまあ、そのうちね。

——そのときは持ってきます。

 ありがとうございます。ライブもちょっとね、観させてもらえるんだったらば観たいなって思ってますよ。

——じゃあ、お話は以上になります。ありがとうございます!

 ありがとうございました。いやいや、楽しかったです。

——ああ、よかったです。

 刺激になりました。あれだな、俺も何かにあげようかな。「インタビュー受けてきました」みたいな。写真撮ろう。

——ぜひぜひ。……どういう距離(笑)大丈夫ですか(笑)。

 ん?

——顔の距離大丈夫ですか(笑)。

 いつもこんな感じで撮ってるんですよ(笑)………はい、ありがとうございます(笑)。

佐藤紳平(さとう・しんぺい)
1965年4月5日生まれ。福島県出身。
「白髪のピアノマン」の異名を持つピアノ弾き語りシンガーとして各地でイベント等に出演するほか、バンドやユニットでの活動、ピアノ講師、SNSでの配信など多岐にわたる。

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