悪足掻きをする

ゆうめいという劇団の『弟兄』という作品を観た後になんかよくわからないけど、もっと密度の高い言葉を書けるようにならないといけない、という焦りっぽい気持ちがぐーっとのぼってきて、ひさびさにそう感じたなと思った。

『弟兄』は、作者の池田亮さんが自分が中学生の時に受けたいじめを元に作り上げた作品だ。
高校生の頃のシーンに、自分と同様、中学時代にいじめを受けていた友達が登場する。主人公と彼は、高校の出し物で当時流行っていた番組の『羞恥心』という音楽グループの真似をする必要に迫られるのだけれど、それに対する2人の反応が大きく異なる。

主人公はそれをなんとも思っていなかったのに対して、友達はきりきりとした悔しさみたいなものを感じていたのだ。なんで、自分は他人からこう扱われなくてはならないのか、苦手なことをやらされて惨めな姿でウケをとらなければならないのか、という不当さだ。
その感情が漏れ出てくる様子や、主人公がその気持ちにピンとこないという状況が生々しくて、それが冒頭の密度の高い言葉を…の気持ちを引っ張り出してきたんだろうなと思った。

(主人公がラスト近くで、彼をいじめていた人に感情を爆発させるシーンもあって、それもまた上手く出せない感情を一気に発露させる、類似シーンだと思うけれど、いじめる側に伝わらない、というより、同じいじめられていた側なのに伝わらない、という状況が印象的だったので羞恥心のシーンなのだと思う)

わたしは漠然と、自分がものすごく悲しいと思った時に、また逆にとても嬉しいと思った時も、それを上手く伝えられないのなら、悲しい、という価値観を持っているよな、と気付いた。
うわぁって、溢れてきた時には生々しかったはずの自分の切実な気持ちが、陳腐な言葉に回収されていくのも結構虚しい。

それは、多分自分が中学生くらいの時にずっと、周囲の同級生とか大人とかに、解ってない!という怒りをずーっと抱えていたからだろうなぁ、と思う。

その頃は「ちがう、そういうつもりで言ったんじゃない」とか「そういうつもりでやったんじゃない」ということを誤解されているのが、居心地が悪くて、「なんでわたしはあれをやったことでああ言われなきゃいけなかったのか! 不当だ! 自分なりに理由があったのに! 」っていうのが自分の中に渦巻いていた。

でも全然上手く言葉にできなかったし、言葉にできたとしても、口に出して上手く伝えられなかったし、口に出せたとしてもなかなか届かなかった。
だから、大体いつもねちねち考え続けていた。外に発散できなかったから、内側を掘り続けていた。

『弟兄』の羞恥心のシーンは、それをぬるっと思い出させる引き金だったんだな、と思った。
『キングオブコメディ』とか『タクシードライバー』とか観ても、全然思い出せなかったのに、中学生くらいの時の視野狭窄な感じを、めちゃくちゃ思い出した。

その頃、わたしは飽きることなく四六時中ティーンズ向けの小説を読んでいて、一番好きな作家は森絵都で、結構好きなあさのあつこの作品は『ありふれた風景画』だったのだけれど、太宰治を読んだ人がまるで自分のことだと感涙するように、わたしはそれらを読みながらあなたは1人じゃないよ、と言われているような気分だったのだ。

その頃を振り返る時、視野狭窄だった中学生の頃のわたしにとって、小説は窓みたいなものだったな、と思う。多分、穂村弘はちょっと似た雰囲気(たぶんね)で、「本屋は世界の玄関のような場所だったと思う」と言っている。

今から振り返ると、現実世界には入れない私にとって、本屋は世界の玄関のような場所だったと思う。世界のなかで自分が辛うじて身を置くことのできる唯一の場所。私は、玄関で靴を脱ぐことも思いつかないまま、ぼんやりとそこに二十年近く立ち尽くしていた。
三十歳を超えたとき、あ、そうか、と思いついて靴を脱いであがってみた。それから十年かけて、廊下を二歩ほど歩いてみる。
今、四十二歳だ。この廊下の先はどうなっているんだろう。人々の声が聞こえる。笑っているみたいだ。みんなはそこで何をしているのか。私はもう少しだけ先に進んでみようと思う。だが、手には靴をもったまま、何か怖い目にあったら、すぐに玄関に引き返すつもりだ。

わたしはいま、この例えでいうと、ちっとも手に靴を持ったりしていないし、廊下を駆け上がってリビングやキッチンや、様々な場所に比較的臆することなく上がっていけている。
ちょっと図太すぎるかな、ってくらい図々しい感じで、『弟兄』を観なかったらその視野狭窄で息苦しくて嫌になっちゃう感覚を忘れるくらいリラックスしている。

でも結構よく、「ぐぐっ、わからせてやりたい…」みたいな暴力的な気持ちになる瞬間は今でもあって(人はそれぞれ違うし、何を信じるかは人それぞれだから……とはおもっているけどなる)、なんなんだろうなぁ、これは、と思っていたけれど、密度の高い言葉を書けるようにならないと、という焦りに近いところにあるんだなぁと思う。

思ったことを言葉にして伝えられる、とか、伝わる相手がいるという安心感はいまでも重要なままで、伝わる人が周りに増えて、伝えることに少々自信を持ったから、殻に籠らずやっていけているし、だからこそ絶対伝わらないけどわかって欲しいと思って、悪足掻きできるんだなぁと思う。

絶対に他人のわかり合うなんてことはできないけど、悪足掻きすることもそれはそれでやっぱり大事だから、分厚くて重たくて密度の高いものを書けるようにという欲は捨てないようにしようと思った。

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