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「ありがとう」と「ごめんなさい」

二歳の娘がいる。

昨日のこと。朝食でホットミルクを出したら、彼女はコップで遊んでいて盛大にこぼしてしまった。

ただでさえ忙しい朝のこと。
僕もつい気が立って、結構な剣幕で怒ってしまった。

「こらっ、そんな風に遊んでるからでしょ!」

急いでタオルで拭き取る。
大好きなミルクをこぼしてしょげていた娘は、さらに怒られて、泣きそうな顔をしている。

ふむ、、、まぁ、そんなに怒るほどのことでもなかったかな。本人も悲しいし、自覚はしているようだし。と思い直し、娘の座っている椅子をこちらに向けて諭そうとする。

「こぼしちゃって悲しかったね。だけど、こんな風に遊んでるとこぼしちゃうから良くないよ。『ごめんなさい』しなさい。」

ふるふるふる、と首を振る娘。

「ごめんなさいしないの?」

うん、と首肯する娘。

「あのね、悪いことをしちゃったら『ごめんなさい』するんだよ?誰かを傷つけたり、、、」

と言ってみて、はたと思った。
「ごめんなさい」を言うべきなのか?

賛否両論ある考え方だと思うが、僕は娘に「人に迷惑をかけるな」とは言いたくないと思っている。

人は誰かに迷惑をかけながら生きていくものだ。生老病死、迷惑をかけないで生きることなんて出来ない。だからこそ、誰かの迷惑も許して「迷惑」とは思わず、困っている人のために助けになれる人になって欲しいと思っている。
同じことをするのでも、「迷惑をかけないように」ではなく、「誰かのためになれるように」と思ってほしい。その違いは大きいと思うから。

だけど、今どうして僕は、「ごめんなさい」を言わせようとしたんだろう?

娘は、僕を傷つけたか? いや。
娘は、僕に対してなにか悪いことをしたか? いいや。

「悪いこと」をしたら、相手に謝らなければいけない。これは当然のことだと思う。
だが今は、もし謝るとしても相手は僕ではない。

娘がした「悪いこと」があるとすれば、それは「食べ物をこぼして食べられなくしてしまった」こと自体。
謝る相手が、牛乳なのか牛なのか生産者なのか、はたまた「自然」に対してなのかはよく分からないが、「食べ物を粗末にするな」というのは大切な教えだとも思う。

だけどもし、「僕に謝れ」と言うなら、それは「労を取らせたら謝れ」「迷惑をかけたら謝れ」、すなわち「迷惑をかけるのは『悪』だ」と言うことになる。
だけど、僕はそうはしたくないと思っていたはず。なにもわざと迷惑をかける必要はないけど、それを「悪」として、過剰に恐れて欲しくはない。

にも関わらず、僕は「僕に謝れ」と言っていたに等しい。その時は自覚していなかったけど、文脈も言動も、そういうメッセージを発していたと思う。

そう考えて、僕は自分自身の中にある「迷惑をかけるな」に気づいた。
理性では「人に迷惑をかけるな、とは言いたくない」と考えつつ、自分のどこかに「人に迷惑をかけるな」という規矩が染み付いている。

なるほど、根深いものだな。

娘が、そういう親の矛盾に気づいているかどうかはわからない。
でも、幼いから分からないということでもないと、僕は思う。むしろ幼いからこそ、そういう「本質」に反応するということだってあるだろう。

昨日はとっさに何と言えば良いのか、分からなかった。次は何と話せばいいだろう?

何かをしてもらったら、きっと「ありがとう」を言うのがいい。何かをさせたから「ごめんなさい」は、窮屈だ。次はそういう風に話してみよう。
彼女の名誉の為に書いておくと、彼女は「ありがとう」をとても上手に言える。

子育ては発見の連続ですね。

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