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みんなそれぞれの「村」に住んでいる

世の中には様々な情報が流れ、多種多様な人種と、こだわりや趣味嗜好の違う人間が、それぞれの価値観で生きている。ただ、どうしても生きている中で「理解できない人」は誰しもに出現する。理解できないというのだから、認識し解釈する所まではたどり着いているのだけれど、それを噛み砕き自分の喉を通すことがどうしてもできない。それを簡略化され万有物になった言葉で言うと「理解できない」という。

例えば、代表例はギャンブラーだと思う。ギャンブルに興じない人間からすればギャンブルは愚行の他になんでもない。多量の時間と金銭を浪費して、その見返りに「運が良ければ」大金が手に入る。ただこれは僕個人の見解だけども、手に入れた金銭と失った金銭、あとそこまでの労力と消費した時間を差し引いたら、いったい「いくら」残っているんだろうか。そこまで大喜びするほどの金額なのだろうか。

かたや、ジャニーズやアイドル、アーティストの「追っかけ」と呼ばれる人達。彼ら彼女らは、言わば偶像崇拝とでも言おうか、宗教に近しいものに時間とお金をかける。ただ彼らにこれを言うと剣幕をまとって否定してくるだろう。「宗教崇拝と同じにするな!」というように。だが本質的な違いは何もない。宗教もファンアクションも、全て「都合のいい仮想現実 」に投資をしているのだから。決して自分のものにならず、ただその対象が潤い栄えることをゴールとした投げ銭は、僕には理解できなかった。

だが最近、この現象を上手く比喩する方法にたどり着いた。それが「みんなそれぞれ違う村に住んでいる」という表現。これは簡単で、ギャンブルが好きな人は「ギャンブル村」にすんでおり、アイドルが好きな人は「アイドルオタク村」に住んでいるのだ。その村の中でそのアクションは当然、違和感も反感もあるものでなく、正義と普遍的な羨望の的になっている。しかもその村は国とは違い法律などはなく、そのアクションが物事の全ての中心であるのだ。だから、そのアクションを否定する争いは起きない。

そう考えると、納得が行く。その村に住んでいればその村の秩序はそこにあるのだから、誰もその歪みを否定しない。否、僕自身もきっと何かの村に住んでいて、この村の秩序ほ外界は薄気味悪いと否定しているかもしれない。でも僕自身がそれを不快にも思っておらず、わからないなら黙っていろと思っている。それはほかにも同じことが言えるのだろう。わかりあえるはずも、理解も、あったもんではない。もしそんなものが村の中であるのだとしたら、それを着想した村人はきっとその村を出ることだろう。

理解できないことは、自分の村に其れがないから、理解できない

沖縄おいで~