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11月18日(土):書籍「体育が嫌い」から、「公開処刑と他者のまなざし」

昨日は先月に出版された書籍「体育が嫌い」のことを取り上げながら、体育嫌いになってしまう理由について触れましたが、本日もその続きをもう少しばかり。

同書では明確に「運動嫌い」と「体育嫌い」は違うと定義されており、体育嫌いになってしまう理由として以下のような要素が挙げられています。

・強制的、規律的な側面
姿勢や態度などの規律的な面への過度な繰り返しの指導や、やるべき事柄を強制されることで息苦しさを感じる

・「公開処刑」による恥ずかしさ
一緒に授業を受ける皆の前で何かをしなければならず、失敗した際の嘲笑やできないことへの批難など、視線にさらされるなかでできないことをやらなければならない心理的負担

・体育教師像
「体育教師っぽさ」というフレーズで思い浮かぶような厳しさ、高圧的な体育教師の態度やイメージが苦手意識を助長する

・スポーツにまつわる勝ち負け
体育の中では球技をはじめとしたスポーツ種目に取り組む時間もあり、勝ち負けにこだわる小学生の直情的な言動によって虐げられる場面がある。そうしたなかでの優劣、比較による劣等感など。

私の例でいえば、このなかでもっとも共感するのは「公開処刑」の観点です。

私は運動が好きだったし、苦手なことも少なかったので、体育が嫌いになったことはありませんでした。

その代わりに私が小学生時代にもっとも嫌いだった授業は「音楽」で、そこに拍車をかけたのが「公開処刑」です。

なお、書籍のなかでは先に述べたように「運動嫌い」と「体育嫌い」が明確に区別がなされていたように、私も音楽そのものが嫌いになったというよりも「音楽の授業」が嫌いだったという話です。

そこにいたる背景に触れておくと、我が家は両親が楽器のヤマハで仕事をしていたこともあって、音楽の授業が嫌いになったのとは裏腹に家庭内の日常が音楽に囲まれていました。

男兄弟の家庭でありながら自宅にはピアノもエレクトーンもあったし、小さい頃はヤマハの音楽教室にも通っていたほか、家にはレコードやCDなどもいっぱいあったと記憶しています。

そうしたなか、無邪気な子供時代に音楽と距離を置きたくなった発端は家で歌を歌っているときに、よく兄から音痴と言われていたことです(笑)

それによって誰かの前で歌を歌うことに抵抗を感じるようになったわけですが、小学校時代には音楽の授業で一人ずつ何小節か分ずつ順番に歌わされることが少なくありませんでした。

その後、中学に入ってからも音楽の授業では「歌のテスト」というものがあって、皆の前で強制的に一人で歌わされるシチュエーションもあり、それが本当に大嫌いでしたね。

最後のほうは、もう反発心によって自分の番がきても、あえて何も歌わずに「無言」でやり過ごすこともあったぐらいです。

当時も今も、もちろん流れている音楽を聴くのは好きですが、それでも「授業としての音楽」は、もう二度と御免ですね。

このようにして私は授業の音楽が嫌いになっていったから、同じように体育での衆人環視における公開処刑があることで、それを嫌いになっていく心理は理解ができます。

なお同書ではサルトルを引用しながら、恥ずかしさは「他者のまなざし」から生じる旨に触れています。

そのうえで学校の授業においては他者のまなざしがなくならない以上、「他者との関係性を変えていくこと」に解決の道筋を見出していました。

具体的には上手くいかなかったことに対しての嘲笑や批難などではなく、それを見守る、励ますといったことなど、周囲がまなざしに温かさを持つことができたなら、衆人環視のなかにあってもそれが公開処刑にならずに済む道もあるんじゃないか、ということです。

いずれにせよ、そうした周囲の人との関係性や場の空気の作り方、状況設定に対する強制力など、それを担う教師のありようが非常に大事になるのは間違いないと思います。

明日も関連した話を続ける予定です。

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