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12月30日(月):「感性」と「言葉」

仕事納めをして少し時間ができたので、自分のなかで故谷川俊太郎さんの追悼で「自選 谷川俊太郎詩集」をめくっていました。

何の気なしに詩を読みながら、最近の自分の身の回りで起こっていることと重なって「感性」についてあれこれ考える機会になりましたね。

谷川さんの詩は自然や悠久の時間に思いを馳せるもの、人間を洞察したもの、言葉遊びをしているものなど本当に様々です。

それらが紡ぎ出される土台には、目に映る物や光景、自分のなかに沸き起こる感情などに鋭敏であるのは誰の目にも明らかでしょう。

「なぜ?」の問い、葛藤、綱引きになりそうなもののせめぎ合い、矛盾、不安や怒り、恐れや悲しみの感情などなど。

また、ただそこにあるもの(目の前にあるもの)や、いつもそこにあるもの(当たり前にあるもの)を素通りせず、そこに何かを投影したり、想いを馳せることをしています。

それを言葉という道具をつかって表現しているわけですが、言葉のセレクトや比喩、結びつけ、響き、そしてリズムなど、持ち得る引き出しの多彩さたるや、言葉を仕事にする人間の矜持を感じますね。

谷川さんは、そんな「感性」と「言葉」の達人であり、私たち凡人がそこに及ばないのは言うまでもないことですが、大事なのはこの「程度」です。

「感性が鈍い」、かつ「言葉を持たない」ということになってしまうと、例えば仕事の場面ではいろいろなシーンで残念な様相になってしまうのは想像に難くないでしょう。

感性が鈍いと人に対しては「気づけない」、「慮れない」、「寄り添えない」ことになるし、言葉が乏しいと「説明できない」、「伝わらない」、「不快にさせる」といったことが生じますからね。

「感性」はその人の持って生まれたセンスでもあって、それを変えていくのは簡単ではありませんが、後天的に「観点」を身に着けていくことは可能だと思っています。

そのための手段のひとつは、いろいろなことを注意深く見て「観察する」ことです。

これに関しては佐渡島庸平さんの著書「観察力の鍛え方」が参考になると思っています。

まずは「見る」から「観る」に変えていくことが観点を身に着けていくための第一歩になるので、そうした点を伝えていければと思った今日この頃です。

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