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vol.4 コンテンツビジネスで財を成し、不動産で仕上げる

ポチ サウザーの白熱教室
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※試聴版。オリジナル版(57:04)は購入後に視聴可能。

第四話。

オーディオの内容としては、コンテンツビジネスも信頼を積んでレベルが上がって来ると、3000円とか5000円の価格で5万字ぐらいのものを作っても良いですぞ、みたいな話をしております。
情報コンテンツを売る、課金アイテムを持つことで、SNSをやる上でのモチベが鬼クソ上がりまくる、ツイ廃になっちゃう人はだいたいnoteで儲けてる、など。

※恒例で、以下まったく関係ないエッセイ。

だいぶ期間が空いてしまいました。

さて、良いネタ、良いキャラ、良い文章と来まして、ここで語るのは良い文章についてとしましょうか。

良い文章を語る上で、ちょっと一つ最近の出来事をお話したい。

最近、現在進行系で本屋で売られている歴史ミステリー小説を読んだ。歴史小説は昔のものを読むことが多いので、2020年だとか2021年だとかに書かれた歴史小説を読むという体験じたい、僕にとって凄く珍しい。初めてと言って良い。

そこで、

「ああなるほど」

と思ったことがある。

その「歴史小説」の文章を通して浮かび上がってくる映像というのが、完全にテレビの時代劇そのままなのだ。小綺麗な役者に小綺麗なセット、撮影用にしつらえた衣服、CGで作られた感満載の背景、どこを取ってもなんか妙に綺麗目で、どれもこれもが僕のような吉川英治とか海音寺潮五郎とかで育って来た人間にとっては、わざとらしく感じられるのである。

「いやいや、文章だけで背景がCGで作られた感満載とか、分かるかいな!」

と言う向きもあるだろう。

「文章だけで登場人物から何からが小綺麗とか、分かるはずねえだろ!」

と言いたい気持ちも分かる。

だが、ある、のである。

小説の文章、とりわけ映像を表現する文章はこのように作られると僕は考える。

まず、著者の脳内に映像がある。

その映像イメージが著者の手によって文字に変換される。

文字になったそれ~つまり小説~を、読み手が読む。

文字は読み手の脳内で、読み手自身の想像力によって、再び映像化される。文字から映像への翻訳。

もし、読み手の方に卓越した素晴らしい想像力があったとしたら、そこらへんの映画の映像体験よりも素晴らしい映像体験を文章から味わうことができる。読者の力量いかんによって、小説は映画よりも素晴らしい映像体験となりうる可能性があるのである。

何が言いたいかというと、すべての文字伝達は、書き手の力量も大事だが、一方で、読み手の能力にも依存するところが大きいということである。
※ここでは映像表現について説明を続けておりますが、なんとか概念の伝授へと持っていきたいんです。

漫画でもそう。長年にわたって漫画を読む訓練を積んで来た人は、漫画を読むことの映像体験こそが至高であり、映画館で観る「アニメ化」の映像体験に前者が負けるということはあまり無い。

鬼滅のヒットによってうんぬんとまた逸れて行きそうになるので、ぐっと歯を食いしばって話題を元に戻す。

読み手が、文字から映像に翻訳できない問題を、もう一つ端的に解説しておきたい。

以下は平家物語の原文である。

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九郎義経その日の装束には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧着て、鍬形打つたる甲の緖をしめ、金作りの太刀を佩き、切斑の矢負い、滋籐の弓の鳥打ちを、紙を広さ一寸ばかりに切つて、左巻きにぞ巻いたりける。今日の大将軍の印とぞ見えし。
法皇は中門のれんじより叡覧あって、
「ゆゆしげなる者どもかな。みな名乗らせよ」
と仰せければ、

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源義経のカッコイイ武者姿が描写されているが、これを読んでパッと脳内に映像をイメージできる人はどれほど居るだろうか。

なんと、僕はできるのである。一瞬で。

なぜなら大学生の頃の学部がもっぱらこれだったからだ。要するに、訓練を積んだからできる。ただそれだけ。

適当に「源義経 画像」で検索してみて、上の文章表現に近いとおぼしき画像を拾ってきたが、

https://images.app.goo.gl/DRBtW1Wq6GFPskkJA

百聞は一見にしかずの通り、ビジュアルで見れば一発である。しかしまあ、記述と画像との違いについてだが、右手に赤扇子を持っているところ以外はほぼ当たってるようで、だいたいこんな感じと思われるね。義経といえばコレ、みたいな。

ふむふむ、赤地の錦の直垂(ひたたれ)とはこういうものか。

鍬形(くわがた)打つたる甲(かぶと)の緖(お)をしめ、とはこういうことであるか。

こうやって、一つ一つの言葉と映像を突き合わせて定着させてゆく。分からない言葉があれば納得が行くまで辞書を調べたり画像検索をしたりして、自分のものにする。

これが言葉の訓練である。

次に同じような文章があれば、だいたい映像展開ができるようになる。

映像だけではなく、実は概念もほとんど同じ。

文章コンテンツのビジネスというのは概念の伝授であるから、著者の脳に概念なり想念があって、それを文字に翻訳して、読者の手にわたり、読者が文字から著者が伝えたい精神を再構築し、多くの場合、それはもう著者が伝えたかった通りの形をしていないのであるが、読者は自分の概念として吸収する。

自分の書いた物が、いったん読者の手に渡ると、もうそれは読者のものであって、お前は読めてないとか読解力不足だよとか言うのも野暮な話なのである。(けっこうやっちゃうけど)

文字を読んでも読めない、映像や概念が自分の頭の中に展開されて動き出さないという人はつまり、言葉を知っているようで知らないからである。いちいち調べない。

滋籐(しげとう)の弓、なんぞ、予備知識を持っておかなければ映像イメージが展開できるはずも無い。

文章が読めない人はだいたいがこれである。言葉について、拘りが無く、伝わればいいじゃんという低解像度の世界で行きている。

さて、良い文章とは何か。

文章コンテンツの提供の目的は、読み手に新しい視点なり概念なり、著者の精神を伝えることである。

著者はたくさんの斬新な概念の獲得という心打ち震える体験を、文字から得ていなければならない。

いや、さらっと大事なこと言ったな。

そう。いい文章を書こうと思ったら、概念と文字との行き来の訓練を、いっぱい積んでおかないとならん。

素晴らしい新規の概念を教えてくれる良書を読み、文字から概念を吸い取る訓練(更にはその概念を自分の言葉でまた文字にしなおす等)を重ねていなければならない。

概念と文字の行き来。そこに背筋がしびれるような感動が伴いつつ。

つまらない文章を書く人に共通していることは何かというと、文字数ばっかということである。その文章に、蒙を啓かれるような、世界の見方を変えてくれるような、新しい概念、新しい物の見方、今まで無かった気付き、啓発、そういった物が何も無い。

つまりはただの文字の羅列であり、文字数を積んで喜んでいるという自慰行為。これがつまらない文章である。

つまらない文章しか書けない人は、自分自身が、自分の世界を一変させてくれるような新規の概念を得た経験を、またそれに伴う心躍る体験を、積んでいないのであろう。

観念を~それは自分の脳にある状態では非言語のイメージである~、文字で表現するに足るだけの語彙力も揃っていなかったりする。

とまあそんな感じでしょうか。

情報コンテンツとしての良い文章とは、世界を広げてくれるもの。ただの文字の羅列では断じて無い。

そこらへんを含めて、良いネタ、良いキャラ、良い文章ということですね。三つ揃えば確かにメシ食って行けると思う。

つづく。

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