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【短編小説】 ティーカップ

ひとには勢いというものがある。
人生最大の勢いは結婚なのかもしれない。確固たる家庭を作り出すだの社会の一員になるだの父親母親になるだのの「腹をくくる作業」の前に、
恋というわけのわからない代物に情熱を燃やし、結婚という名の鐘を鳴らす。相手が運命の相手といわんばかりの自己催眠に陥ったまま、ウエディング業界は潤っていく。

最近の若い方々はもしかすると我々のような後先考えない結婚は少なくなったのかもしれない。男性側の年収がどうの、という時代でもなくなったので二馬力は当たり前。そういえば、結婚の条件という意味合いにおいて高学歴高収入高身長なるスペックはすでに化石となっている。高望みはせず、リスクをうまく回避しながら、着実な人生を歩もうとする流れになっているように感じる。
確かにそういった方向に進んでいるカップルもいる。しかし…
とっくに世代交代を華麗にすませ、古来の考えなどに囚われず自由に夫婦生活を営むのだ、という平成令和カップルがほとんどだと思っていたのに、意外と「家」に縛られていたり「性別(役割)」に縛られていたりして相も変わらず窮屈な価値観で生きている。特に男性がヒドイ。結婚をきっかけに態度が豹変する男性が後を絶たない。令和2年になったとて20代男子の結婚観は驚くほど昭和だった。

男性は老いも若きも嫁に完璧を求めるものだと考察する。しかも母親も投影しているところがタチが悪い。自分を優しく包みこむ大地のような母であり、家事も完璧にこなし、近所づきあいも上手。見た目もこぎれいで甘え上手なパートナー、それが我が妻。そんなものが元来の男の理想。
そんな女性どこにいるんだ。いたとしてもだな、どっかクセ強かったり人に言えない秘密持ってたりするんじゃないだろうか、などと邪推してしまう。
そんな、いわゆる「理想妻」の仮面を被った女性をこっそり「ペルソナ妻」と呼んでいる。

なにが言いたいかというと。
うちの夫は絵に描いたようなモラハラ男だ。それでもなんとか乗り切れていたのは、私自身が「ペルソナ妻」だったからに他ならない。

自身の話をするのはなかなか勇気がいる。名前は松倉朋子 32歳。いわゆるジェンダーである。
それについては中学生の時分にはっきりと意識した。小学生からの親友に恋をしてしまったからだ。
スポーツ万能の彼女は人気者だった。中学に上がった頃、急に胸の膨らみが「激しく」なってしまった。男子にからかわれ、よく悔し涙で目を潤ませていた。男勝りな彼女が小さい頃から頼もしかった。なのに今、下を向いて泣いている。後ろ姿にドキリとした。可愛くてたまらなくなって、守りたいと思った。卒業までの3年間、ずっとそばに寄り添って、空気の読めない不埒な男子から守っていた。時にはそっと連れだし、時には男子に蹴りをお見舞いしながら。
眼光鋭く態度のでかかった私に刃向かう男はいなかった。高校が別々になったのを機にもう会えてはいない。甘酸っぱい想い出である。

多少自覚をしたとはいえ、恋愛対象は基本男性だったので、普通を装うのに不自由はなかった。ちらちらと視界に入ってくる「女の子」は見て見ぬふりをした。青春をこじらせてるだけだ。オトナになりゃあきっと消えるこんなもの。キラリと光る唇も、さらりと流れる黒髪も、つやつやとした爪先も、砂時計みたいな後ろ姿も、やわらかそうな胸の谷間も、白く弾ける太腿も、美術品を愛でるような感覚で見ているだけだ。きっとそうに違いない。

29歳。この人、と思い込みそれこそ勢いだけで婚姻関係になった男は、先にも書いたが筋金入りのモラハラ夫だった。
料理が気に入らないと無視。掃除が行き届いてないと無視。躾と称して毎日のように説教を食らう。自分がすべて悪いのだ、この人が怒るのはすべて私の至らなさ、と完膚なきまでに支配され、毎日をビクビクと生きていた。
そんな生活が嫌で、一度学生時代からの悪友と夜、飲みに出かけた。もともと独身時代にバーテンダーをしていたのもあり、オーセンティックなバーを見つけるのは大の得意。しこたま飲んで23:00すぎに帰路につく。
一夜明けたら一週間もの無視生活が待っていた。結婚した女が夜出歩くなんてとんでもない、俺様に恥をかかせた、という理由からだ。
とにかく無視。なにを話しかけても無視。どんなに悪いことをしでかしたのか身をもって理解するまで、とでもいうように。視界に入れようとは決してしない。しかし嫁が作った飯は食う(笑)
溜まりに溜まった鬱憤が爆発し、実家に逃げ込むパターンもある。数日後、許してやるから帰っておいでと優しいメールが届き、ふらふらと家に帰る。激しいセックスをして仲直り。
すべてうまくいっている。もう大丈夫。何事もない日々がしばらく続く。
しかしすぐ何かの逆鱗に触れて無視。実家に逃げる。お許しメールが来る。帰る。仲直り。
そんな生活が5年ほど続いた。

転機が訪れる。
共通の趣味で繋がった女性にまたもや恋をしてしまったのだ。
相手は島根県に住む岡山潤子。ひとつ年上の知的な眼鏡女子。色白で、細身で、姿勢もよく、煎れてくれる茶が美味い。よい家のお嬢さんがそのまま30歳を超えたという風情。何度もメールや手紙、プレゼントのやり取りをし、なんとなくこれは、人生初の、アレが訪れるかも?となってしまった私は、勢い余って島根まで突撃してしまったのだ。しかも一泊。

独占欲が強く、3ヶ月に1度くらいしか電話をしないにも関わらず「うるさい!」「とっとと切れ!」と怒鳴りつける夫相手に、島根まで一泊旅行一人旅を取り付けるなんざ、今考えてもどうやったんだ??と首をかしげてしまう。
潤子からの手紙や荷物を何度か目にしているから名前は記憶していたようで、しかも島根の銘酒や名産を送ってもらった経緯もあるので彼女についてだけは判断が甘かったのかもしれない。まさか浮気相手に会いに行くなど、思ってもいなかっただろうし。…まあ、正しくはまだ浮気相手ですらないのだが。告白旅行とでも言えばよいのか。

大きな家だった。とても立派な。
島根のここいらは、交通の便がわるいのか各家庭に2台は車を持っているのは当たり前のようだ。彼女の車はちょこんとした青いボックスカー。出雲市駅まで迎えに来てくれ、助手席に乗り込む。ドキドキする。ヤバい。
出雲大社にお参りし、郊外にある大きな書店で共通の趣味である歴史関係の本を買い焦る。立派な庭園のある美術館で特別展示を観て、館内のショップ兼ティールームで一休み。終始、上品で穏やかな笑顔を向けてくれる。
彼女はどうやら紅茶にも詳しいようだ。繊細な絵付けのティーカップが白く長い指に合う。細い手首に細い黒革の時計。黒い縁取りの眼鏡と相まってとても彼女らしい。「砂糖は?」と聞くと「いつもは入れないんだけど、ともさんが入れてくれるならひとつお願いします」なんちゅう男心をくすぐるおなごだ潤子め…!!!!少し下を向く私に「やだ、照れないで」と同じく下を向く。なんだこれ完全にバカップルじゃねえか。
島根は標準語なんだよな。だからついこちらも標準語になっちまう。

文学少女である潤子は男性との恋愛経験はほとんどないという。女性との恋愛経験皆無な私もそれは疑う余地はない。というより、女性だから分かるのだ。嘘をついていないと。
だが、なんとなく感じる陰があった。辛い過去でもあるのだろうか。
そんなことを考えている間に潤子のお宅に到着する。立派な松の木が玄関の門に横たわるように生えている。まだ蝉の声は聞こえない。青々とした瓦屋根を見上げながら鳥の声を聴いていると、お母様が満面の笑顔で出迎えてくれる。ようこそようこそ、こんな田舎によくお越し。居間はひんやりと冷えていて、冷たい麦茶と和菓子がテーブルに並べられる。潤子はお母さんと一緒にせわしなく動いている。

こういう場合は正座が一般的だよな。グラスを持つ手は片手か、両手か。あ、男じゃないんだから両手か。嫁にもらいにきたわけでもないのに得も言われぬ緊張に背筋が伸びる。
ふと帰ってきたお母さんと目が合う。「まあ、松倉さんってお侍さんみたいね」「!??」潤子と自分、同時にビビる。
実は共通の趣味というのは戦国時代のお侍だ。二次元含む。大いに含む。「潤子」「ともさん」はいわゆるハンドルネーム。我々は物心ついた時から、なぜだか「侍」とつくものにどうしようもなく萌えてしまう人種なのだ。
潤子とっておきの、NHK大河ドラマコレクションを一緒に観よう、という大義名分のもとに、のこのここの場に来ている。「おさむらい」という言葉に過敏になってもおかしくはないだろう。しかも、何も知らないはずのお母さんからこの言葉…。
そしてどうやら私自身の座り方もおかしかった。背筋をピンと伸ばし、軽くひらいた足の両腿の上に握りこぶしを乗せる。およそ女子の座り方じゃねえ。こ、これはヤバい?ヤバいのか??てか、なにがヤバいんだ???
なにかを察知されたのかとやたらビクついている姿を見かねてか、「ともさん、私の部屋に行こう」と自室の離れに連れ出してくれた。

離れは本宅よりも整えられた内装ではなかったが、かなり広かった。壁には大河ドラマのDVDがずらり。壁には麗しの二次元侍ポスターが…。
壁中にではない。奥にいきつく壁に一枚。その心意気も素敵だ潤子。
ともさん、チューハイ飲む?お酒好きなんだよね?桃のチューハイでいい?ごめんね。私、あまり飲めないからどんなのがいいかわからなくて。あ、地酒もあるよ。お猪口なくて…。あ、そうだ、グラスとおつまみ持ってくるね。
一気にまくし立て、部屋を出て行こうとする。「あ、構わなくていいよ」と少し後を追う、と同時に「あ、そうだ約束のDVD…」と急に彼女が振り向く。顔が一気に近づく。「!!!」瞬時に離れようとする潤子の背中をとっさに左手が支えた。誰の手だ?え?自分のじゃねえか。なんだこの反射神経。腕じゃなくていきなり背中ってか、ありえねえ。こうなったら逃げも隠れもできねえ。
「……」自然に鼻が触れる。息がかかる。広い部屋にかすかに濡れた効果音。うわ、やっちまった。ほんとにやっちまった。どうしようどうしよう。まだ好きって言ってない。何しに来たんだこれ。そのへんの男と一緒じゃねえの。ちゃんと段階踏んで進めないといけねえだろこんな清純な子になにやってんだ馬鹿か俺は。てかなんで男言葉になるんだろう。これが本来の自分なのか…?とパニックしながらもなかばぼんやりしながら、残りの右手も背中に回す。軽く抱きしめると、少しの汗とシャンプーの匂い。ああ、服の匂いも独特だ。懐かしいっていうか…。
長い長い沈黙のあと「…ともさん、私で何人目?」と衝撃のひとこと。「はっ?何人って…潤子ちゃんだけやで!!初めてやで!!」ああくそ。大阪弁に戻っちまった。カッコつかねえなあしまったなあ…と天を仰ぐと潤子が額を肩に押しつけてくれた。
「…よかった」
その小さな小さな声は、自分の覚悟が決まった合図だった。

手を繋いで大河を観た。たまにおつまみをあーんし合った。私の飲むチューハイなら飲みたい、と同じグラスに注いで飲んだ。
ふたつ並べた布団。お風呂上がりの潤子はますます良い匂いがする。桃色に染まった頬に見とれながら、「好き」の代わりに「いいんか?私なんかで」と聞いてしまった。そういうところもカッコ悪くて嫌になる。
「私、ね、女性と恋愛って物語の中だけかと思ってたの。同性愛っていうのかな」
「うん。私ら侍BLも大好物やもんな」クスクス笑いながら潤子は続ける。「…ともさんとのグループLINEのやり取り、ずっとドキドキしてたの。文章だけでもなんだかカッコイイし。オフ会で初めて会った時びっくりした。実物もすごくカッコよくて。集まったメンバー、みんなが見てたよ」え、そうなん?気づかなかった…「真っ黒なシャツ着てたでしょ?真っ黒のトレンチとジーパンもすごく似合ってた。二人で撮った写真、待ち受けに使ってるんだよ」えと、それ、そういう意味で待ち受け?「そういう意味って?…ああ、そうね。そういう意味だったのか…。不思議だねえ。女子同士の友情の証、って感じの写真じゃ、まったくないんだよねえ…」とさらに笑う。
こんなに遠くにいると、今までの生活圏とは完全に切り離される。だからなのか、もうひとつの性が遠慮なく染み出てくる。
今まで女という性のみで生きてきた。「えーやだあ」だの「そーなんだあー」といった口調を使うことを避けられたのは地元が大阪だったからかもしれない。関西弁は男子も女子も変わりない。「そーなんだあー」は「そーなんや」に変換でき、「えーやだあ」は「なにゆーとんねん」で済む。気楽に生きていけたのは、地域に助けられた部分もあったのかもしれない。
今、潤子と話している自分は女ではなかった。まさに初めての感覚。そしてとても楽だった。こんな自分がいたのか。目の前にいる愛おしい彼女はそんな自分を認めてくれて、好きだと言ってくれる。こんな幸せがこの身に起こるなんて、誰が予想できただろう。

私、本当は好きなひといたの…でももうどうでもよくなっちゃった…ともさんが女性だからよかったのかなって
…男の人ってもう、たくさんっていうか
…未だに連絡くるの…奥さんもお子さんもいるくせに

いつの間にか寝息が聞こえ、それ以上は途切れてしまった。少し酔いが回ったのかもしれない
潤子はひとつ年上の33歳。少女のように、まっすぐな言葉を投げてくれる。それまでの、LINEや手紙にあった「ここまで馬鹿丁寧な挨拶はもうそろそろいいんじゃねえの?」的言葉遣いとのギャップがたまらなく可愛く、愛おしい。
しかし、そいつロクでもねえな。そんな野郎すぐに忘れさせてやる。大丈夫、二人で新しい時間作っていこう。こめかみに軽くキスをし、仰向けに寝転ぶ。

でも、この状況ってどうなんだろう?モラハラ全開とはいえ、私にもパートナーがいる。これは間違いなく「浮気」「不倫」に相当する行為だ。近い未来、もしかすると子どもも出来るかもしれない。そうなってくると「夫も子どももいるくせに」私は潤子と関係を続けることになる。潤子はそれでいいのだろうか?
たしかに勢い余って結婚した。さらに勢い余って潤子に会いに来た。
恋愛、という甘くも切ない波にふたりの船が浮かんだ瞬間だった。


案の定、1年後に子どもが出来た。夫にとっては念願の男子。大喜びしてくれたのはめでたいが、心中は複雑だ。
地元にいる時間に「ゆうきママ」というレッテルが増えた。もちろんそう振る舞った。服装もナチュラルに。ゆったりしたストライプのパンツ、鮮やかな黄緑のガーディガン、かかとのない靴、柔らかい素材の帽子、ジーンズ地のエコバッグ。
子供達の成長を家族と、ママ友と、称え合った。それは確かに、自身の幸せではある。夫も出産を機に、すこしだけ態度が軟化した。
のをいいことに、何度か島根へ通った。保育園のママ達は働く人々なので、子どもを預けたり預かったりは常になっている。私も他人の子を預かるのは苦にならない。子どもイベントを我が家主催で何度も開いたこともある。
自然、ママ友達は私に一目置くようになる。毎回の場所の提供、料理の提供、おもちゃの提供、お菓子の提供…。参加してくれるメンバーはさっぱりとしたタイプばかりだったので、ボスママだの舎弟ママだのが誕生しなかったのにも幸いした。
そう、こちら側の自分も私。楽しいことには変わりない。笑顔に嘘偽りはない。それなのに、抑えられない「性」がある。
ママ友のところに遊びに行くと嘘をつき、ゆうきを快く預かってくれている隙に、私は潤子とキスをする。
そんな時はいつも真っ黒のシャツに、ヴィンテージジーンズ。こんな格好はまずしない。地元で今、つける名札は「ゆうきママ」が一番でかい。
私の容姿は、どうやら美少年と見まごうほど整ったものらしい。肩幅が広く胸もないので女性には見えにくい。身長は163cm。男性としては小柄だろうが、さらに小柄な潤子と並ぶと十分カップルに見える。この格好で島根を歩いていると何度も振り返られる。それが嬉しいのか、潤子は出かけるときはいつもニコニコ顔だ。そんな彼女が可愛くて、つい手を繋ぎたくなるのだが、潤子の地元であるこの場所で誰に遭遇するかわからないのでいつも辞退される。しょんぼりする私の耳元に「あとでね」と囁く。ああ、もう、人目なんぞ気にせず抱きしめたくなる。

とはいえ、肌と肌を合わせるまでには、我々はいかなかった。長く甘いキスはあるが、彼女の身体を無遠慮にまさぐることはとうとうなかった。性欲を満たしたいわけではなかったようだ。それは潤子も同じで、そういったことを私に求めているわけではないと、会う度、態度で伝えてくれる。それも、よかったのかもしれない。

年に2~3度しか会えなかったが、潤子との逢瀬は続いた。
できるだけ伏せていた子どもの話題も、「写真、見せて」「もっとLINEでも送ってよ」「こんなに大きくなったのね。可愛い」と、彼女の方から振ってくれる。
潤子の元に、結婚話は何度も浮上しているようだ。子どもが欲しいのなら私のように割り切ればいいのに潤子は、ともさん以外の人となんて考えられない、と呟く。
おそらく、男性が怖いのだ。
パートナーも子どももいるくせに身体の関係を求めてくる相手の言葉は読むのも辛いそうだ。今は一切やり取りは絶っているという。その言葉を信じるしかない。薄汚い嫉妬の炎がちりちりと焼けつく。

潤子を愛おしいという気持ちは間違いない。しかし、家に帰ると母になり、妻になり、地元で働く会社員となる。「これがいわゆる二重生活ってやつか」とぼんやり考える。
息子は可愛い。素直で優しい子に育っている。天使のような笑顔が通っている保育園でも人気のようだ。ママ友との関係は良好。会社では可もなく不可もない存在。市内の食品会社で在庫管理業務をしている。同僚とはそれなりに付き合い、それなりにかわしている。暮らしているマンションの住民とも自治会とも、つきあいとしては普通だろう。大阪での顔と、潤子に見せる顔は、性別がまったく違うと断言できる。だからといって、「男」ではない。一人称は「私」でありたい。女性の身体で「俺ってさあ」とあえて使っている声も拾うが、なんとなくそっちには属さないと感じている。

相変わらずモラハラ全開の夫だが、子どもが出来てからは我が子にメロメロで、子どもの話題さえ振っておけば支障はなくなってきた。私自身には興味がないのだから当然だ。日々、なにに対して感情を動かしているのかなど、夫にとってはどうでもいいことなのだ。ゆうきのおかげで互いの人格に触れるような会話は激減した。ママ友や子供達を相変わらず我が家に招待しているので、「○○ママと子供達で出かける」といえば疑いもなく送り出す。
「幸せ家族」というものが成り立っていると思い込んでいるのだ。果てしなく滑稽だが、単純な生き物で心底助かる。口の端が意地悪に上がるのがわかる。

毎日、潤子のことを考える。そんな時間が幸せで、少し切ない。

ともさん、悩んでくれてるのはわかるよ。
でも、私はすごく幸せだよ。
ともさんにとっての一番は私でしょう?
思い込みかもしれないけど、会う度にそう感じるの。
それだけで幸せなの。本当にありがとう。


旦那さまとゆうきくんは大事にしてね。
私は今が心地いい。離れて暮らしてるからこそ、切り替えられる。
ともさんもそう言ってたよね。
誰にも言えない秘密を共有できるって、大きいよ。


一生隠していく覚悟はあるよ。
ともさん、カミングアウトできない自分が狡くて嫌い、って言ってたけど、それは私も同じ。
社会からの反応が怖い。両親を悲しませることもしたくない。今の位置を確保しておきたい。
私たちの狡さはすごく似てる。似たもの同士なんだよ。
だから、私のために離婚なんて考えないで。


私たちは、きっとこれ以上面倒なことになるのを避けたいのだ。最初の2年は今までになかった経験からくるドキドキが勝っていた。今、4年目に突入し、考えることが増えた。潤子は37歳、私は36歳。勢いだけの時期に比べ、少し疲れが見えてきたのかもしれない。
それでも、自分らしさを認めてくれる潤子と別れるなんて微塵も思っていない。会う回数がさらに減ってしまっても、二度と会えなくなっても、心が繋がっていればそれでいい。
潤子の匂いが染みついたシャツを抱きしめる。逢瀬の度に汗ばむほどに抱きしめ合う。必ず着ていく黒いシャツに、潤子の香りがしばらくの間、移るのだ。


しかしその日は突然訪れた。
めったに電話をしてこない潤子から、LINE着信が入った。ちょうど昼休憩で、会社近くの公園のベンチに座っていた。手でも当たったのかな?と電話に出る。すると携帯の向こうから悲痛な声が聞こえた。

ともさん、あの人が死んでしまったの。ずっと闘病してたの。今朝亡くなったの。もう私、ともさんに会えない。
「え?なに?なにいってんの?」
私、ずっとLINEでやり取りしてたの。最期だから会いたいって。もう時間がないからって。何度かお見舞いに行ってたの。本当にごめんなさい。
奥さんとは、ほとんど会話もなくて、子どもも取り上げられて。こんな状況なのにずっと突き落としてくる、って。おまえと一緒になりたかったって。ずるいよね。今更そんなこと言われても、だよね。なのに、私、会いに行ってたの。なんでだか、勝手に身体が動いてたの。こんな私、最低だと思う。わかってる。こっそり見送るしかできないけど、やっぱり傍にいたいの。ともさん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。今まで楽しかった。大事にしてくれてありがとう。元気でね。さよなら。
「え?潤子?ちょっと待って!なん…!」ブツッと通話が途切れた。
何度もかけ直すが当然、潤子は出ない。
頭が真っ白になる。
なんで?なんで?何が起こった?あの人って誰だ?死んだって?今朝?
いったい…
「どうなってんだよ…!」
思わず声が出る。
会社を早退して、私は一目散に駅に向かった。新大阪。彼女に会えば何か分かるかもしれない。新幹線のチケットを買い、みずほに乗り込む。多少時間はかかるが仕方ない。窓辺の席に着く。出発まであと15分、今から4時間。行って、話をして、それから………

新幹線は出発した。背中でドアが閉まる音がした。しばらく呆然と立ち尽くす。
結局、私は潤子に会いに行くことをやめた。
行ってどうする。今一番、潤子が会いたくないのは私だ。
行ったところで事態はややこしくなるだけ。


麻でできたぺたんこの靴を見る。
…帰ろう。ゆうきのところへ。


今ようやくわかった。私は潤子のことなどまったく見ていなかったことに。
なにかから逃げていただけ。目の前にある現実を気持ちの良い時間で目隠ししていただけ。
では彼女は?もしかしたら彼と会えない寂しさを紛らわせたかっただけなのか…?


これで全てなかったことになってしまうのだ。汗ばむほど近くにいた肌の体温も、伏せた睫も、柔らかな唇も、艶やかな髪の感触も。
予感はあった。彼女の持っている陰は深い。光の下へ引っ張り出すには、通り一遍の恋人ごっこでは到底足りない。それなのに、いつまで経っても核心に触れなかった私が悪いのだ。もっと聞いてあげればよかった。彼女の辛さを、恋人としてではなく、友達として。
ああ、そうか。妙な性別意識をしていたのは私の方だったのだ。男役に徹することが潤子のためと思っていた。きっと彼女が望む姿は男性的な外見と中身の「ともさん」なのではないか。そう勝手に解釈し身構えていたのだ。演じていたのだ。
なんのことはない。女である「ともさん」を、潤子はとうに受け入れてくれていた。性別の役割に縛られていたのは自分だ。「男」として振る舞うことで逃げていた私を、潤子はずっと支えてくれていたのに…

潤子のなにもかもが愛おしいと思っていた。守りたいと思った。行き場のない寂しさを、なんとかしてやりたいと、私なら、ふたりなら、乗り越えられると。
でも、歪んでいた。「無理」の上に成り立っていた。私は所詮、「女」なのだから。経済面でも社会的立場としても彼女を支えられるほど大層な存在ではそもそもない。

でも、私は私のままでいい。
潤子はずっとそれを伝えてくれていた。ずっと私を見つめてくれて、ずっと認めてくれていたのに………

あれからちょうど10年。息子は中学生になった。それを機に、離婚を決意。もう、自分のパートナーに関してはとっくに限界を感じていた。
ゆうき、ごめん。ダメな母親で本当にごめん。アンタの父親は、アンタにだけは優しいから、そこは間違いないから。私だけが出て行きます。

さらに2年後、離婚が成立。それまでに飲食店に転職し、朝から晩まで正社員として働いている。楽しくて仕方ない。もう、「ゆうきママ」である必要がなくなったから。私は私として生きることを決意できる場所だったから。
私はゆうきの母親で、それは一生涯変わらない。まっすぐに育ってくれた彼を誇りに思う。たまに連絡も取り合い、現在は中学3年生になった彼から、進路相談を受けている。

現在、私は47歳。恋人は10も歳上のオジサン。ややこしいことに彼もジェンダー。フェミニンな身のこなしと、とんでもなくお洒落な装いが可愛くて惚れた。音楽プロデューサーで、東京と大阪を行ったり来たりしている。
フリーであることが暗黙の了解。他に好きな人ができたら、その時は言ってね。それだけがお互いの約束。
「黒いシャツ、ほんまに似合うよね~ともちゃんは」
「そう?いつもおんなじ格好でごめんね」
「一番似合う服を見つけたならそれでいいんじゃない?」
「そう?よかった」
「…さっきも、ともファンがキャーキャー騒いでたね」
「ありがたいねえ」
「ふつーのワインバーなはずなのになんか変な店になってた。執事カフェっぽーい」
「制服着てるだけなんやけどな…」
「モノトーンがハンパなく似合うのよねえ」
「葵さんはカラフル似合うよね。今日もめっちゃお洒落」
深い臙脂のスーツに鬱金色のシャツ、緑のネクタイ、ライトブラウンの革靴。
夜のミナミを一緒に歩く。たまに手を繋いで。
「どう見えてるんだろ」
「そらホモのカップルやろ」
「ともちゃん、ほんまは可愛い女子なん知ってるもん」
「私も葵さん可愛い女子なん知ってる」
「そーいう男前なとこ…ドキッとするんよね…」
「乙女め」

私は私のままでいい。葵さんも葵さんのままでいい。
猫カフェで身もだえる葵さんが好き。アンティークショップで選ぶ花柄のティーカップは大抵ピンク。
葵さんの自宅で出してくれるそのティーカップは誰かを思い出してしまうけど、白い指の残像といっしょくたにして美味しく飲み干す。あの思い出も、まちがいなく私の一部。

人生の勢いの基準は、とにかく後悔しないこと。
結婚だって、離婚が失敗とは限らない。
生きている限り、いくらでも道は変えられる。あくまでも軌道を変えるだけであって、けして「修正」なんかじゃない。
人には人の、一人一人の生き方がある。偽りのペルソナを外してみると、正しい道はひとつじゃないことが見えてくる。後ろ指さされたって構わない。その経験が、ひとを二度と傷つけるもんか、という誓いに変わることもあるから。

さて、ソムリエールの最終試験は目前。
狭い部屋にぽつんとある小さな机に、今からしばし縛られる。
思い切り伸びをして、分厚い参考書を手に取った。

END

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