草叢から炎へ、息吹から屍へ:鏡映と傀儡

 わたしは姿見の前に立っている。もちろんそこには、わたしがいる。けれども、わたしの姿はわたしだけのものではない。
 同じ時間軸のなかに、同じ姿をした者——《似姿》は三人存在する。それ以下に減ることも、それ以上に増えることもない。誰かが死ねば、別の誰かが《補充》される。《補充》の仕組みはまだ明らかになっていない。普通に人が生まれ、やがて死ぬことの循環の外に、その機構がある。わたしもまたどこからか《補充》された存在なのだろう。
 そんなことをあらためて思うのも、姿見に映ったわたしの背後に、わたしと同じ姿をした者が立っているからだ。〈わたし〉は何かを持っている。その先端からは、鋭利なものが持つきらめきが漏れている。
 瞬間、気付いた。〈わたし〉だったのか。世界のどこかいる自分の《似姿》を殺して回っているという《似姿殺し》は。
 またどこかに〈わたし〉が《補充》されるのだから、そんなことをしても意味がないのに。
 いや、だからこそ、なのかもしれないな。

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