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教室のうしろに飾られるだけの目標


2023年4月26日(水)朝の6:00になりました。

何回ころんだっていいさ、擦りむいた傷をちゃんと見るんだ。

どうも、高倉大希です。




「目標を書きましょう」

子どものころ、この言葉を聞くたびに、うんざりした気持ちになっていました。

なぜなら、教室のうしろに飾られて、それっきりになるからです。


実際に自分が学校の先生になってみて、この感覚が間違っていなかったことを知りました。

「今月の掲示物は何にしましょう?」

「新学期だし、目標を書かせて飾りましょう!」

教員間でこのようなやりとりが、平気で行われているのです。


特に「教育」という世界については、日本では多くの場合、「目標」は「人格の完成」のように哲学的で曖昧なものであり、「手段」は「意識改革」や「とにかくガンバルこと」のように精神主義的で非合理目的的であり、仲間のメンツをつぶしかねない「評価」はそれ自身が巧妙に回避される傾向があるようです。
岡本薫(2001)『教育論議を「かみ合わせる」ための35のカギ』明治図書


今のままでは、そもそも「目標」なんて立てることができません。

なぜなら、役割が明確ではないからです。


本来ならば「集団として実現させたいこと」が、第一にくるはずです。

学校でいうと、学級目標にあたります。


つづいて、それを実現させるための道筋が描かれます。

全体像を整理して、ロードマップを引くわけです。


ここまできて、ようやく個人に焦点があたります。

ロードマップを進めるために、役割分担を行います。


しかし、その役割を全うするには、まだまだスキルが足りません。

だからこそ、「そのスキルを身につける」という目標を掲げる必要性が生じます。


目標を達成すれば、役割を全うすることができます。

役割を全うすれば、「集団として実現させたいこと」が叶います。


これが、本来の「目標」の位置づけです。


このようにして「最後に何がほしいのか」から考え、そこから必要となる要素を何度も仮想的にシミュレーションすることが、ダブりもモレもないイシューの分解の基本となる。
安宅和人(2018)「イシューよりはじめよ」英治出版


ところが、多くの場合において、子どもたちは全体像が見えていない状態で目標を設定させられます。

だからこそ、「苦手なこと」や「できるようになりたいこと」を目標に掲げるしかありません。


しかし、そこにはなかなか熱が乗っかりません。

なぜなら、全体像も役割も、一向に見えてこないからです。


これにて、「教室の後ろに飾られるだけの目標」が完成します。


なぜ人間は強くなろうとするのでしょうか?それは、今の自分を超えることでしか辿り着けない場所があるから。私はそのように確信しています。
二重作拓也(2022)「強さの磨き方」アチーブメント出版株式会社


言わば、教室の後ろに飾られているものは「目標」ではなく「願い」です。

「人見知りを克服したい」という願いを掲げている子どもがいるのなら、大人がそれに見合う役割を与えてやらねばなりません。


役割を与えられることで、はじめて「できない自分」を自覚します。

「できない自分」を自覚することで、理想と現状の差分が明確になり、それを埋めるための「目標」を設定する必要性が生まれるのです。


目標を達成すれば、結果として、人見知りも克服されます。

ポイントは「結果として」です。


そんな機会をつくり出して、役割を与えてやることこそが、大人の責務なのではないでしょうか。






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