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酸いも甘いも苦い街

小さい頃たまに連れて行ってもらえる繁華街。
それが小田原。
私の住んでいる場所から車で45分。
覚えている事は祖母とあさひやに行ってリカちゃん人形の洋服を買ってもらったこと。
小学生の頃祖母とバスで小田原まで行って、小田地下でカレーうどんを食べた。人生初めてのカレーうどんだった。あれは何ご飯だったのだろうという時間に食べた。
よちよちと歩くおばあちゃんと行く小田原はすごく心細かったから何かあったら全部助けてあげなきゃ。という新しい気持ちになった。
それでもおもちゃを沢山買ってもらって帰った。

いつの日か父がクリスマスプレゼントを買いに連れて行ってやる。と意気込んでわたしを連れて行った場所小田原の商店街にある小さなお爺さん1人で営むおもちゃやだった。
これしかないから。という理由で買ってもらったシルバニアファミリーのもぐらの家族。
正直嬉しくなかったけど、今値段調べたら6万だった。それを知って、一年前ほどに私も母も屋根裏まで隅々調べた。
隣に住んでいるを親戚の陽子おばさんが小田原エポの中の婦人用品店で働いていたのでよく会いに行っては周りのおば様方に甘やかしてもらった。14歳の時陽子おばさんは亡くなった。
お葬式の日、泣きながら陽子ちゃんは子供がいなかったから冬湖ちゃんのこと孫みたいに可愛がってたね。と同僚のおばさんに言われてその時まで出なかった涙がたくさん出た。
化粧をしてスパンコールがまちまちについている服をきていつもガハガハと笑っていたおばさんたちが泣いていたことが人の死に似合わなくてそれでも必ずある事なのだ。と教えてくれたように思う。

小学生の時に親友とオリオン座にスパイダーマンを見に行った。騒ぎすぎて前の席のカップルにしこたま怒られた。どう考えたってあの年齢のわたしたちはスパイダーマンを見たいわけじゃなかった。ただスパイダーマンを見たという事実が格好のいいわたしたちの日曜日になったらよかった。
親友と小田原で遊ぶときは朝学校に行くくらい早い時間に待ち合わせをして駅前のファーストキッチンに行ってカラオケに行く。
今はもうない小さいゲームセンターの上のカラオケ。ゲームセンターももうない。
そこで歌う歌にはきっと暗黙の了解があって、例えば親友がYUKIを歌えばわたしはYUKIを歌わない。わたしがaikoを歌えば親友はaikoを歌わない。だから沢山歌を調べた。私が歌えて親友が歌わない新しいうたを。
親友は歌がとてもうまかった。なんて上手なんだろうか、と憧れていた。わたしは歌う事は好きだったけれど歌で彼女に敵うわけがないので2人で始めて彼女が早々に辞めたギターの練習だけは続けた。
高校生になったら毎日小田原駅までバスに乗ってそこからまた電車にのって通学をした。
朝6時台に起きて通学に2時間かかる事も全く苦ではない程に楽しい3年間だった。
軽音学部に入ってすぐにバンドを組んだ。
1本しかもっていない1万円の入門セットで手に入れた赤いエレキギターを毎日のように背負って通学した。
小田原アプリという商業ビルの中には25という楽器屋兼スタジオがあった。
いつでも一緒だった香代と毎週、毎週通った。
3時間入っても1人1200円。
格安だ。
スタジオの前後で店員さんと喋って、チューニングのやり方や、弦を替える方法、エフェクターってものがある、カポってものがある。
と教えてもらいながら、知識を少しずつ集めた。
スタジオライブにも出してもらった。
小田原の隣の駅にある鴨宮には小田原姿麗人というライブハウスがあり、高二から入り浸った。
はじめてオリジナル曲を作り、ライブで演奏をした。
THE VITRIOLというバンドで確か修学旅行の直後だったと思う。
肌寒い季節で上着を脱ぐのが面倒で上着のままライブした。
なんでだろう。
本当になんでだろう?
ライブが終わって階段を登っていたら「格好よかったです」とロン毛のポンチョをきたおしゃれイケメンが話しかけてくれた。びっくりしすぎて頭だけ下げた。
大川直也である。
私が初めて作ったうたは人に「いい」と言われた。これは私の原点であると思う。
たまらなかった。わたしのいい。が誰かのいい。と重なった瞬間の気持ちよさはあの日のあの一言を超える事がないのだと思う。
どんなに好きな尊敬するアーティストに言われることよりも、その時はまだ話したこともなかった他人である直也さんに「よかった」と言われた事を超える事はないのだ。

もう一つのライブスペース伊勢原BOXでライブをした時に店員の女性に歌、よかった。と言われた時に嘘でもわたしは歌っていいのか。
と中学生の頃の親友に打ちのめされた歌というものに対しての劣等感がなくなった。

これで全ては揃いわたしはこれから一生歌を作っていく。と思った。

大学進学の頃になり、母は東京に、都会にでなさい。と今考えれば有難い事を言ってくれたのだか、私はバンドもあり、好きだったので小田原に住みたい。と言って、小田原に一人暮らしをした。
高校の卒業式の夜からわたしの一人暮らしは小田原ではじまった。
それからも25にはずっと通い続けた。
通い方がバスから、歩き、そして原付に変わってもずっと。
25には徹平さんという仲のいいとにかく溌剌な店員さんがいていつもわたしに格好いい最新のギターやエフェクターを教えてくれた。
母が大学に受かったらギターをお祝いに買ってあげる。と言ってくれたのでずっと心に決めていたジャズマスターを25に行って買ってもらった。
そのジャズマスターを売ってくれたのも徹平さんだった。
その後わたしは大学をすぐに辞めた。初めてのツアーとオリエンテーション合宿が被り、もうどうにも手の打ちようもないくらい馴染めなくなっていた。という言い訳の元まぁバンドが楽しくて仕方なかったからだ。
母、ごめんなさい。今ならわかります、この親不孝がどれ程のものか。

わたしがFINLANDSを始めた頃か、徹平さんはまほらまという楽器屋兼カフェをはじめた。
東京に住み始めてからも徹平さんに会いにギターをメンテナンスしてもらいに、行っていた。
コロナになった頃からわたしも生活の環境が一変したりして行けていなかったのだけど。

突然徹平さんが連絡をくれた。
まほらまでワンマンしない?
って。
小田原で、こんな慣れた街小田原で、はじめての恋も、失恋も、自分の好きなものも、嫌いなものも、欲しいものも、いらないものも、自分の正義も、不義理も、全てを味わった街小田原で。
考えた事なかった。
やってみたいな。と心底思った。
すぐにでもやりたかったので、1番近い日付でお願いをした。

あの歌の人も、あの歌のことも、あの気持ちも、あの悲しみも、あの怒りも、あの軽蔑も起こった街で、うたうのかぁ。
ラブレターという歌ができた、ラブストーリーという歌ができた、good by girlという歌が出来た、天涯という歌が出来た、ロンリーという歌が出来た、Aprilの桜の街である、小田原かぁ。
一概に楽しみ。という言葉だけでは言い尽くせない。
気合いを入れて臨まなければ思い出に食われて救われて飲み込まれてしまいそうだ。

わたしの正義や悲しみの判断や、反骨という心や、怒りの正体や、秘密の慈しみ方は小田原駅から半径3キロ以内で育ったと思うから。


みなさん、是非、わたしと一緒に小田原で9/14をお過ごしください。
何としてでもいい日にしないと。

FINLANDS 塩入冬湖

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