節分の「豆撒き」は何故生き残ってこれたのか、伝統の生き残りに疑問を呈す

2月3日は子供の頃から「節分」「豆まきをする日」と教えられてきました。今は恵方巻の方が主流なのかはわかりませんが、豆まき自体もまだ廃れた文化ではないでしょう。

率直に言って、自分は豆まきを「食べ物を粗末にする行為」だと考えています。屋内外問わず投げ散らかした豆を、一粒残さずかき集めて食べるでしょうか。たとえ集めたとしても「地面に投げたものは……」と食べないのではないでしょうか。これを「食べ物を粗末にする行為」だと言わずして何なのかと思います。

そしてここで疑問に思うことがあります。何故このような「食べ物を粗末にする行為」が生き残って来れたのかです。自分のように「食べ物を粗末にする行為」と思う感覚は決して珍しいものではないでしょう。今でこそ「飽食の世の中」とも言われる情勢ですが、昔はもっと飢饉も頻発して食糧事情がギリギリだった筈です。そんな中でわざわざ食糧事情を悪くする行為に何のメリットがあったのかを考えないといけないと思います。

文化が生き残れるかどうかを語る上ではまず間違いなく「メリット・デメリット」は避けて通れません。伝承で「邪気を払い~」などといくら力説しても、それが実利を伴わなければ社会基盤の衰退に繋がるものとなります。まして昔は人々の信仰心が今よりもずっと深く、それこそ「この飢饉の邪を追い払うために豆まきはしっかりしないといけない」みたいな考え方をする有力者が出てもおかしくはなかったでしょう。飢餓で苦しむ住民たちを尻目に「これは節分用だ」と豆を抱え込み、撒いた豆を住民たちが必死で拾い集めて食べて飢餓をしのぐという情景もあり得ていたわけです。地獄絵図です。

流石にこれはあったとしても極端な例になるかも知れませんが、ここまでギリギリにならずとも食料事情に対しては確実にデメリットとなるわけです。ただただデメリットだけの行為を続けるのであれば、デメリットとなる行為をしない社会の方が優位に発展します。今とは違う弱肉強食の戦乱の時代も何度もあったわけで、優位に発展した勢力に併呑されれば当然その文化は消滅します。豆まきとてその例外ではありません。食糧事情にデメリットを抱え込んでまで導入し、その結果滅ぼされる。侵略者を相手に「邪気を払い~」などと必死で伝承を語ったところで、鼻で笑われて終わりです

味気ない話かもしれませんが、結局のところ「生き残れるかどうか」「メリット・デメリット」が話の根幹に来るのです。それにまつわる伝承も勿論大事ですが、現実的なところに重きを置いた話の方が大事です。何故なら情勢の変化により総合的に見てメリットであるかデメリットであるかは簡単に引っ繰り返ってしまうからです。デメリットがあまりにも大きくなり過ぎた場合、その伝統を廃止する選択もしないといけなくなります。

自分は「長く生き残っている伝統というものはそれだけ多様な状況に対応できるもの」であると考えていますが、それでも「次に来る状況が常に『その伝統が対応できるもの』であるという保証はされていない」とも考えています。自分は「伝統だから壊してはいけない」とも「伝統など捨てて新しい物だけに邁進すべき」とも考えません。いくら目新しい概念が登場したところで、社会の実利に沿っていなければ導入してはいけないのです。いくら長く大切にされてきた伝統だからといって、もう情勢的にはデメリットしかない存在になり果てているならせいぜい研究所に資料として残す程度に留めるべきなのです。

豆まきはデメリットの方は非常にわかりやすい行事で、一方でメリットの方はあれこれ想像する域から出ないでいます。どんなに伝承を熱く語ったところで、社会が滅亡してしまえば諸共に消えてしまうものです。どんな伝統も一つ一つ冷徹にメリットやデメリットを紐解いていくことが大事だと思います。わかりやすい豆まきを皮切りに、色々なものを考えてみてはいかがでしょう。

結局今回は問いかけるだけで、何ら答えが出るわけではありませんでした。何かございましたら遠慮なく下のコメント欄から送っていただければと思います。日常用の趣味も交えたごった煮のツイッターの方でも構いません。忌憚なく意見をいただければと思います。

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