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遠距離園芸者の日。


雨音の朝。

でも、躊躇してはいられない。

わたしは、遠距離恋愛者ならぬ
遠距離介護者ならぬ

遠距離園芸者、なのだから、

庭に来たからには、
よほどの嵐や大雪で無いかぎり、
やるのだ。

しかも、いまは、
春という、magicalな時間が
こんこんと流れる、

荒れ果てた庭、にとっては、
再生への最良の時期だ。

逃せば、後悔する。

合羽を着込み、庭へ出る。

父が倒れる前に植えた
チューリップの球根が、二度目の春に
また、蕾をつけている。


わたしは
再生の兆しを、
雨庭でいくつも見つける。

父が倒れる数年前から
だんだん花をつけなくなり、

『ちっとも咲かなくなった』

と、最後には
父が、関心を向けなくなった

ちいさな躑躅たちが、今年
貧しい枝ぶりながら、
蕾をつけているのを見つけた。


🌿

父が倒れた、一昨年の晩秋
わたしは、悲しみと後悔のなか

咲かなくなった躑躅の枝を、
短く剪定した。

しかし、
昨年、つつじたちは
ひたすら、黙していた。

変わらない、という
植物らしからぬ、姿のまま、

いちねんという時間を
芽吹いては枯れる
他の植物のそばで、黙っていた。

もう駄目なのかな?と
わたしは内心思っていたから

それ以上、お世話をしなかった。

もしかしたら、どうにかして
《抜いてしまおうか》

と、思っていたかもしれない。

でも、抜く、のは
大変だから、放っておいた。

根元に落ち葉を敷き、
一月に、寒肥をすこしあげただけで。

赤い躑躅。
わたしが5月に次女を生んだので
父母が、次女の花、と植えてくれた。
枝は少ないが、葉の先に
みんな、蕾をつけている。


雨の中、合羽に雨を受けながら
わたしは、嗚呼、と、声を漏らす。

ヒトは、せっかちだ。

すぐに、裁定をくだす。

駄目になった、とか
終わった、とか。

植物は、違う。

ヒトとは、異なる《時間》や
《生命のサイクル》のなかに生きている。

わたしは、《それ》が見たくて、
庭に来る、のだ。

冬を越した、コバルトセージの芽。
冬になるまえに
ちいさな根を移植したタイム。
どうか根付いて、と敷いた、
落ち葉のしたで、こんなに
新しい葉を茂らせてくれていた。


午後3時。

曇ってはいるが、雨があがった。

ガレージから、脚立を出し、
台湾椿と銀木犀の古い葉や枝を
すこし、剪定した。

薔薇の枝ぶりをみながら
かき芽、ということもやってみた。

暗くなるまで、庭で働いた。


植えるべき苗は、
あと5つ、残った。

明日やろう、と部屋に戻り、
玄関に、庭の花を活けた。

庭の椿と雪柳
台所の窓辺にも。


父は、朝夕と母の仏壇に
水を供え、お経を読んでいた。

わたしは、庭の花を活けたり、
ドライフラワーにするべく提げたり、を
それの代わりにしている。


父が倒れた秋と冬は
独り、庭に来て、

夜を過ごすのは、
とても寂しくて、

ジブンも年を取ること、
人生が荒れ果てていくこと

が、急に、とてもおそろしかった。


いまは、違う。

わたしは、植物に
励まされている。

植えるとき、とてもわくわくする。
アネモネの隣は
去年の夏の終わり、植えたラベンダー。
ちっとも育たなかったけれど
この春は、とても葉色が良い。



🕯追記 マーガレットのこと

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