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ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」について

 ベンヤミンは資本主義生産様式がプロレタリアート搾取に向かう中、上部構造である芸術における変革を本稿で描き出す。

ワルター・ベンヤミン

写真やトーキーといった複製技術が1900年を画期として、芸術作品に深刻な変化を起こしたという。
元来、芸術作品は「いま・ここ」という一回性によって特徴づけられてきたが大量生産された複製にはこの一回性がない。
 手製の複製ならオリジナルの真正性は権威を保つが、複製技術による場合より自立性がある。例えば高速度撮影のように肉眼でとらえられない像を切り取ることもでき、さらに移動可能性を高める。
複製技術はこの真正性に根差す権威、アウラを滅ぼす。
 映画をはじめ、大衆文化と密接に関連し、文化遺産の伝統的価値の一切を清算する。
古来の芸術は儀式に用いられる礼拝的価値に基礎を置き、美の礼拝という世俗的形式の中にも継続して見られ得る。
 しかし、写真と社会主義の誕生により、芸術は儀式から政治へとその実践を変える。
 複製技術により、礼拝的価値は低下していき、反対に展示的価値は増幅していった。

A view of the Rue de Viarmes, Paris
Eugene Atget, 1907.

写真の登場した後も礼拝的価値の最後の砦は人の顔であった。しかし、アジェーの人影抜きで定着させたパリの街路は、特定の意味であることを求める政治的意義があり、礼拝的価値は減却されている。
 また映画はそれ自体は芸術作品ではない個々の事象をとらえた映像のモンタージュである。そしてそのモンタージュの断片である俳優の営為は選択可能性、編集可能性は監督やカメラマンらに委ねられ機械装置の前で行われ、自己疎外され資本主義体制下で同様に疎外された大衆に支持される。
 芸術はその愛好家にとって沈潜していくべき崇拝の対象ではあったが、くつろいだ大衆にとっては映画に代表される芸術を娯楽として享受し、芸術の方を自己に沈潜させていく。
 芸術の政治化とともに政治の耽美主義化がプロレタリアート化と軌を一にして進行し、ファシズムの極として現代の戦争の美学が賞揚される。自己疎外が自身の絶滅をも美的享楽としうる。

映画『戦艦ポチョムキン』より
セルゲイ・エイゼンシュテイン、1925年

ベンヤミンの時代から下って、芸術はもはや起源もたどりきれぬデジタルデータによる複製とモンタージュの集積体に変貌した。展示可能性は極小のデバイスの中だ。
 そこではもう映画監督や作品制作者の意図を超えて大衆が好きなところを知的営為としてではなく欲望をベースに切り取りつなぎ合わせ倍速再生する。
 制作者側もこうした大衆を崇拝しステロタイプのシーン、リズムを繋ぎ合わせる。
 もう大衆にとって疎外どころかありきたりな欲望装置のメニューからそれが自分の欲望かどうかも確認せず、その時その場で選び取る、「個人」が解体された状況が現出しているようにも思う。


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