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巌流島の決闘の真実

ここ2日ばかり、試写会に追われ、
みなさんにコメントのお礼が
出来ませんでした。
申し訳ありません。

さて、今回は日本の決闘でも
よく知られる『巌流島の決闘』の
真実です。

決闘の原因は、そもそも宮本武蔵と
佐々木小次郎の弟子たちによる
口論から始まりました。

佐々木小次郎は剣術の流派・巌流を
設立して、小倉藩の指南役を
務めていました。
そこに、二天一流を創設した
宮本武蔵が新たな指南役として加わります。

宮本武蔵


佐々木小次郎

2人は同じ剣術指導者で
剣の腕が立つということで、
双方の弟子たちの間で
次第にいざこざが
起こるようになります。

この争いを鎮めるべく、
やむなく2人は
決闘することとなったのでした。

決闘の際、武蔵は小次郎を
苛立たせるために、
わざと遅れたと
吉川英治の『宮本武蔵』には
書かれています。

諸説ありますが、武蔵の死後9年後に
息子の伊織が建てた
「小倉碑文」によると、
「両雄同時に相会(あいかい)し」とあり、
武蔵は遅刻していないことが
記されています。

また、刀の代わりに武蔵は
船の櫂を使ったとあります。

何故、刀の代わりに櫂を使ったのか?
それは武蔵が人を殺すことを
嫌ったため刀ではなく
櫂を使ったとされます。

武蔵を召し抱えた肥後・細川藩の
史料『沼田家記』には、
武蔵が去った後、
櫂に打たれて気を失っていた
小次郎は息を吹き返します。

ところが隠れて見ていた
武蔵の弟子によって
殺されたと記されています。

二人が闘った巌流島は、
山口県下関市・関門海峡に在る無人島で、
正式名称は、島の形が船に
似ているため
かつては船島と言われていました


船島が何故、巌流島となったのか?
その経緯は、小次郎の剣術の流派が
“巌流”と呼ばれていたことに
由来します。

実は、佐々木小次郎は
小倉の人々に慕われていて、
同じく「小倉碑文」に、
「岩流という兵法者と勝負して
武蔵が勝ち、以降、船島を
俗に岩流嶋と呼ぶ」とあります。

負けたとはいえ、
人々は小次郎を偲んで、
彼の流派“巌流”を
島の名前にしたという訳です。

決闘は、諸説ありますが
1612年とされていて、
武蔵は28~30歳くらい
一方、佐々木小次郎は
様々な史実から推測すると
白髪頭の七〇歳の
老人だったとも言われています。

また幕末、巌流島には
坂本龍馬と妻のお龍が1867
慶応3年(1867年)上陸し
花火をして遊んだ、
という記録も残ています。

維新後、巌流島は、
明治19年(1886)の
コレラの流行に伴って
コレラ専門病院が設置されました。

また、その後、埋め立てによって
造船工場も建設され、
工業地帯にもなっています。

現在の巌流島(下関公式観光サイトより)

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