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科学との出会いをもとめて 第二章 教育


1 わたしの小学校時代

 このごろときどき、小学校時代の理科のことを思いおこします。

 担任が、理科のにがてな音楽のすきな女の先生だったために、理科の授業は、べつのクラスの先生と交換でした。

 その理科の先生は、外人のような白い顔に赤いひげの、笑ったこともおこったこともない、病身のような先生でした。

 そのころ、理科は四年からでした。わすれもしませんが、その最初のテーマはアブラナの花の構造でした。それがまた、一から十までチンプンカンプンで、完全に面くらったことをおぼえています。

 どうしてそんなことになったかというと、アブラナという植物の名を、わたしは聞いたことがなかったからです。それに、そのころはのんきなもんで、アブラナの花を先生は用意していませんでした。その一時間じゅう、わたしの耳のまわりで、アブラナ、アブラナということばだけが空転していました。

 じつをいうと、わたしは東京の郊外にすんでいたので、アブラナの花というものを、よく見て、よく知っていたのです。ただそれが、ナノハナという名の植物だとばかり思いこんでいたところに、悲劇があったのです。

 小学校時代にわたしが見た実験はたった一つでした。それは、ふりまわしているバケツの水はこぼれないという遠心力の実験でした。

 そのおとなしい先生は、半分ほど水をいれた大バケツに手をかけただけですっかりあわててまっかになってしまいました。

 この実験は頭のなかでは可能でも、実現は不可能だったのです。

 この怪実験の印象がのこっているぐらいで、わたしにとって、小学校時代の理科はゼロにひとしいものでした。それなのに、わたしが科学の道にすすむことができたのは、どうやら、書物のあとおしのおかげのような気がします。

 わたしの父は中学校教師で、書斎には山ほど本がありました。そのなかでわたしは、中学校用の理科の教科書をみつけていました。そして、それをむさぼるように読みました。当時は、科学書などというものはほとんどなく、こどもの科学書は一冊もありませんでした。

 こどものための科学書がいまほどたくさんあれば、先生はじゃまだてさえしなければ、こどもはけっこう科学の道にすすめるのではないでしょうか。

読書指導のしおり 一九六二年 十五号

2 子どもと日本のことば

一 根本問題の一

 つぶれたふとんを日光にさらすと、綿の繊維は水分を失ってのびる。その結果、ふとんはふくらみ、繊維のすきまの空気がふえるので、その保温性が高まる。

 こういう説明文があったとしよう。この文章に文法上のあやまりはない。すなわちこの説明文は、説明文として一応ちゃんと成立するといわなければならない。

 だが、綿の繊維がのびるとは、どんな現象をさしているのだろうか。ゴムひもをひっぱったときのように、長さがのびることをさしているのだろうか。それとも、まがった腰をのばすときのように、折れたものが直線的になることをさしているのだろうか。

 この区別を明らかにしようとして、この文をいくらくりかえして読んだところで、わかりようはない。説明者に対して注文をつけるとすれば、「ゴムひもがのびるように」とか、「まがった腰がのびるように」とかいう性質の補足がほしかったということになる。

 ことばをかえれば、そういうような考慮なしには、まともな説明を書くことはできないということになる。

 むろん、この説明があいまいになった原因は、『のびる』という日本語に二つの異質の意味があったことにある。これは、やまとことばのヴォキャブラリー(語い)の貧困からきている。

 わたしたち日本人は、この悲しむべき貧困のゆえに、ことばの使用についてかくべつ神経質であることを要求されたかっこうである。

 このような日本語を使って、互いに説明しあい、議論しあい、理解しあうにはどうすればよいかというのが、ここでいう根本問題の第一である。

 これは日本語の根本問題であるから、おとなにも子どもにも、暗雲のようにおおいかぶさってくる。

 悪くするとこの問題は、こういう日本語では、議論しあうことも、説明しあうことも、理解しあうこともできないのではないかという問題にまで発展するおそれがある。

 『のびる』に見られたように、互いに独立であって、しかも混同されてはこまるような二つの意味をもつことばは、日本語にはきわめておおい。
「はやくいこう」
 こういわれたとき、同行者は足をはやめるであろう。だが目的は、先方にはやく到着することなのか、それとも足をはやめることなのか。これが交通信号を見てのことばなら、足をはやめるという意味になる。駅にいくのなら、足をはやめるどころか、タクシーの中に足をなげだすこともあるだろう。

 中国語だったら、こういう二つのケースは、早と速という二つの文字によって厳密に区別できる。英語などは、ファストとアーリーとで、これもまた厳密に区別できる。
『はやくおきなさい』は、ふつうの場合、早くであって速くではない。朝おきのはやさは早さであって、速さではない。
『はやく歩こう』は、速くであって早くではない。歩くことに速さはあっても早さはない。

 早くの反対語としても、速くの反対語としても『おそく』がある。時刻における早さと運動における速さとの混同と同じ性質の混同が、おそさにもおこっている。

 このように、やまとことばになかった区別を漢字でおぎなえる場合は、現実には大きな救いである。かな書きをやめて漢字を使えば切りぬけられるからである。しかしこれも、文字を媒介とする場合にかぎって有効な手段となることを見のがすわけにはいかない。音波を媒介とする場合には完全にお手あげになる。

 ここにきてはじめて、根本問題の一つが音波によってしか意志の交換のできない幼児の問題としてクローズアップされる。

 むろん、おとなにとっては、かな書きが可能かどうかという国字の問題がここからでてくる。

 しかし、漢字を使って切りぬける道がないほどにまで、日本語のヴォキャブラリーがまずしいことを思い知らされる場合はけっしてめずらしくない。

 『車にのる』ということばは、いまの日本では自動車にのることを意味するといってよい。だが、車とはいったい何のことだろうか。それは、対称軸のある物体に心棒をつけたもの、またはそれに準ずる回転物体の総称だといってよいであろう。だが、車をそれだけのものときめてしまえば、車とは英語でいうホイールのことになる。ところが、車にのるとは、ホイールにのるという曲芸を意味しない。それは、車のついた乗りものにふんぞりかえることである。

 やまとことばの車は、車輪であり車輪つきの乗りものなのである。これは、車という漢字をいくらいじくってみても、どうにもならないデッドロックである。

 むろん、日常生活でこんなことにわずらわされないように、日本人の頭はたっぷりきたえあげられている。極端にいえば、それは、あいまいな表現の中におぼれてしまったということである。たとえ話でいくならば、おぼれる前の幼児には、浮きぶくろをつけるなり泳ぎを教えるなりしてやらなければならない。

 科学技術の領域で、車について厳密な表現をとろうとすれば、車ということばのかわりに、つねにその概念規定に相当する説明をもってこなければならないことになる。この用意の性質は、そのままで幼児の言語教育に対するヒントとなるだろう。根本問題の一に対する解決の道は、おとなにとっても子どもにとっても、これしかないのである。

二 根本問題の二

 「あのスタイルいかすじゃないの……なによ、いやな感じ」
 ここに日本の現代語がある。
 『いかす』も『いやな感じ』も、ふんい気のことばであり、感覚のことばである。こういう新語があらわれたことによって、たぶん、ふんい気や感覚の表現がゆたかになり、その実質的な内容も深まったことだろう。だが、そういうものの画一化をはかる結果がなかったとはいいきれない。そのことばには、ふんい気や感覚を一色にぬりつぶす魔力がひそんでいる。

 こんなふうに、感覚をことばにたよりすぎる傾向が日本人にありはしないかというのが、根本問題の第二である。たいていの親は、この種の新語をこどもに教えこもうという積極的な意図をもつことがない。その事実だけからでも、根本問題の第二が人びとの意識にのぼっていることがわかる。
『いかす』、『いやな感じ』、『弱い』などの新語のもっている重要な性格がもう一つある。それは、日本語のヴォキャブラリーにプラスするなにものもないということである。日本語の動きは、根本問題の第一の解決にむかうような方向をとらずに、日本文化をさかおとしの姿勢においこもうとしているかのようである。

 感情というものが感覚だけに根ざす性質のものだとはいわないが、感覚だけに根ざす場合がありうる。この形での感覚の比重の不当な水ましは、いまや日本文化の特徴になりつつある。感覚による問題の処理を、主観的判断と混同して怪しまない日本人はめずらしくない。

 こういう状況では、思想を感覚にすりかえることなど朝めし前である。空虚な頭の持ち主である一七歳の少年の感情が、なんの抵抗もなく、テロのエネルギーとしてほとばしりでることにもなる。

 この感覚の偏重にもとづく感情と行動とのあいだのショートサーキットの手本は、映画にもテレビにも少年漫画にもはんらんしている。その責任はけっして日本語にはないであろう。それにしても、人間の大脳がことばによってものを考えるしくみにできていることは、これをことばの問題として発展させる可能性をあたえてくれる。それはつまり、感情偏重に対してのブレーキを、ことばによってかけたらどうかということである。

 むろんそれは、人間形成の初期においてもっとも有効である。それはまず、感覚ないし感情の領域でのことばに客観の光をあてることからはじまる。それはただちに、幼児の科学の目を開かせることからはじまる。
 『赤い』ということばはもともと感覚の表現である。
 「赤い花があった」
 この一連のことばのなかで、いまの問題は花ではなくて『赤い』のほうである。
 「赤い花はほかにもないかしら」
 赤いということばの指導の一つの例はそれである。この設問は、赤ということばの対象になる色に幅のあることをしらせ、みかん色やむらさき色との境界においてぶつかりあいの余地のあることをしらせる。こういうような断定は、自分自身の頭のなかに、または他人の頭とのあいだに、なにかの形で話しあいの必要がおこる。

 話しあいという過程は第三者の見かた考えかたをとりいれる過程である。したがって、ここに客観の立場が発生する。幼児についてはよく自己中心性の存在が強調されるが、その存在をみとめることと、それの野ばなしをみとめることとは話がちがう。へたにまごつくと、一七歳になっても二〇歳になっても、自己中心性を温存するおそれがある。自己中心のよりどころとなる感覚や感情は、客観を排除する危険をはらんでいる。

 民主主義は人間感情に立脚しているにはちがいないが、片足を客観の上においていなければ、その上になにかをきずくこともむずかしく、第一、くずれるおそれもある。

 こどもはよく、現実の人物や話のなかの人物について、いい人か悪い人かというような見かたを設定して、すぐにおとなに問題をなげてくる。おとなはそのむずかしさに圧倒されて、その場かぎりの判定をあたえがちである。考えるまでもなく、ひとりの人間を善人か悪人かとわりきることほど乱暴なことはない。これをあっさりかたづけることにはつねに疑問がのこる。本質からいえば、客観への誘導の機会がここにあるはずなのである。

 それでは、こういう問題がだされたときにどうすればよいかという場面に直面させられると筆者もたじたじである。少なくとも、その判定がむずかしいことを印象づけると同時に、善悪のけじめとなる明白な要素をえぐり出すことが必要であろう。それをおこたると、行動右翼のような手口を批判的にみることさえできない人間が形成されてしまう。

三 根本問題の三

「友だちがきたよ」
「ひとり?ふたり?」
こういう種類の会話は、子どものあいだに毎日のようにおこる。このとき、友だちがひとりきた、ふたりきたというように、数の区別ができる習慣がついたらどんなにいいだろう。むろん、そういってみたところで、西欧の子どもと肩をならべることができる以上のことではない。

 西欧のことばには単数と複数との区別があって、このルールは子どもにもちゃんと守られている。友だちがひとりであるか、ふたりであるかは、ことばのうえで完全にけじめがついた形で口をでるのである。

 もう一つ、これと同じ性質の日本語の特徴として、冠詞がないということがある。
「人がきた」というとき、期待した人、特定の人がきたのか、それとも不定の人がきたのかの区別は全くない。あの人がきたといって定冠詞のないことを救う方法がないではない。しかし、不定冠詞をつけたことに相当する表現は、日本語ではぎごちない。

 a manは、「ある人」、「ひとりの人」など、いろいろないいかたができるであろう。しかし、そういうような形容詞を『人』に必ずつけなければならないと思っている日本人はない。それは、日本人の言語生活上のルーズさでなくて何であろう。

「本を買ってよ」とせがむとき、子どもの意志では、特定の本をのぞんでいる場合と不特定の本をのぞんでいる場合とがある。それは、「ある本を買ってよ」「いつかの本を買ってよ」「あの本を買ってよ」などという表現で、不定冠詞や定冠詞に相当する補足ができないわけではない。しかし、名詞に対してこのような限定を加える習慣は、もともと日本人にはない。

 とにかく、名詞を冠詞によって限定できないことからおこる表現のあいまいさは、日本語のような、冠詞のない国語を使う人のあいだにしかおこらないことを反省する必要がある。西欧のことばでは、その区別を明らかにしたあとでなければ、『本』という名詞を口にすることはできないのである。

 この、単数複数の区別のないこと、冠詞のないことは、結局、ものの見かたにおける日本語の欠点の一つに数えられなければならない。これに対してどうすればよいかが、根本問題の三である。この欠点があるために、日本語は、厳密な表現においても、論理の構成においても、風穴のあいたようなことしかできなくなっている。

 子どもからおとなにいたるまで、こんな不完全なことばをあやつって、ものを考え議論をたたかわせなければならないとは、なんという不幸だろう。

 この不幸のなかでの対策をたてるときの先決条件は、こういう不完全さをせおっていることの明確な意識である。この意識からすべての有効な対策はうまれてくる。幼児に対する言語教育も、ここから手をつけなければならない。せんじつめれば、その対策は、この欠点を切りぬけ、この欠点のあおりを反射的にはねのける習慣を身につけることだということになるであろう。

 具体例をあげれば、「友だちがきた」というかわりに、「約束の友だちがひとりきた」とか、「思いがけない友だちがふたりきた」というようなぐあいに、西欧のことばがしぜんに限定するような限定的形容を、名詞ごとにつけ加える習慣を身につけることである。

 そんなことはめんどうくさいなどとかってな熱をふいているかぎり、日本人の思考や言語表現は西欧人の足もとにもおよべない。西欧の人たちは、名詞を口にするたびに、これに相当する過程をふんでいることを知らなければならない。

四 根本問題の四

 単数と複数との区別のような基礎的なものをなおざりにしているくせに、日本語では、人はひとりふたりと数えなくてはいけない、ウサギは一ぴき二ひきでなく一羽二羽と数えなければならない、鉛筆は一本二本と数えなければいけないなどと、きみょうなところに力こぶをいれている。

 こういう点で、西欧のことばはすこぶるあっさりしている。人でも鉛筆でも一つ二つでまにあわせている。

 そういえば、これに似たおかしな現象が人称代名詞に見られる。一人称代名詞は英語では「アイ」の一点ばりであるのに、日本語では、わたくし、わたし、あたし、あたい、ぼく、おれ、てまえ、やつがれ、それがし、わがはいからちんまで、いやになるほどたくさんある。二人称代名詞がまたこういうありさまである。こういう現象は、個人を平等な存在とすることのさまたげになる以外の何ものでもない。日本の民主主義がいつまでたってもみのらない原因のうちには、こういうこともあると考えてよい。

 このような、つまらないところに多彩なことばを用意していて、神経質な使いわけをすることにどんな意味があるか、それはマイナスではないかというのが根本問題の四である。

 この日本語におけるむだなヴォキャブラリーを清算するという方向に、子どものことばの指導を指向すべきであろう。

 ところで、このごろの子どもはよく、人でも虫でも鉛筆でも見さかいなしに、一個二個と数える傾向がある。これは、子どもの心での日本語に対する抵抗と見られないことはない。一個二個ではいけないなどというおせっかいをひかえて、ここに明るい未来をのぞむべきであろう。

五 根本問題の五

 日本語の根本問題の五は、肯定と否定とのはっきりした表現が、あるようでないような実情をどうするかということである。よく日本人は、イエスとノーとがはっきりしないという批判をうける。それは日本人の責任でもあるが、日本語の責任でもあるのである。

 イエスということばに相当する日本語は「はい」である。もっとはっきりさせれば、「はい、そうです」であるだろう。

 しかし、日常生活では、そう正しいことばが口をでる場面はむしろ少ない。「ええ」とか「うん」とかいってすますことがいくらもある。

 語感からいうと、「はい」にしても、イエスよりは弱い。第一それは、よばれたときの返事にもなる。「ええ」や「うん」にいたっては、イエスであるともないともいえるほどにあいまいである。そのことば自身が無責任な性格をもっているのであって、ある場合に、それはイエスでもノーでもなく、聞き流すようなかっこうで、答を見送るときの表現でさえあるように思える。

 ノーということばに相当する日本語は、「いいえ」であり、「いいえ、そうではありません」であるといえるであろう。しかし現実には、「ううん」というような表現が、ノーの意味に使われることがふつうにおこっている。こうなったら、そこには、イエスにつきまとったと同じ性質のあいまいさの影がでてくる。

 この根本問題の五には、おそらく一から四までの問題にくらべて、いちばん確実な救いの道があるであろう。とにかく、こどもに「はい」と「いいえ」とをはっきりいわせればそれでよいといえるのである。そして、それはかんたんにできることであるうえに、子どもにも理解されやすいからつごうがよい。そのかわり、「はい」は、イエスのほかに、ここにいるという意味での、よびかけに対する返事にもなると、はっきりきめておくことにする。

六 むすび

 ここまで論じてきたとおり、日本語にはせおいきれないほどおおくの、しかも客観主義にとっては致命的にも近いほどの欠点がある。日本語は、かりに美しいことばであると思えることがあったとしても、正確なことば、厳密なことばであると見えることは絶対にありえない。

 そういう性格の日本語をあやつって、日本文化を歴史の正しい方向にすすめていくためには、日本語の欠点に対する認識が必要である。そして、その認識のもとに、つぎの世代の言語生活について思いを深めることがたいせつである。それをおこたるならば、日本文化と西欧文化との開きをせばめていくことはできないであろう。

『児童心理』 一九六一年一月

3 未来の学校

未来の学校を考える

 こんな楽しいことはないはずだ。それはまた、重要なことでもあり、有益なことでもある。だが、これはまたいたって難問だ。こんな課題をぶつけられて、待ってましたと一席ぶつだけの実力があったら、どんなにか胸のすくことだろう。
 とにかくこれは、私にとっては難問だ。
 そうかといって、未来の学校はどうあるべきかとたずねられて、完全にお手あげするのも強腹だ。
 まずは体をかわして、よその国の昔の名士にご出馬を願うとしよう。それも、未来の学校についてではなく、自分の学校について語ったことばを借りてくるとしよう。

 チャールズ・ダーウィンといえば、『ビーグル号航海記』でも有名だが、学問上では進化論で有名だ。その科学史に特筆される業績をのこした人が学校について語ったことばは痛烈だ。自分の精神の発達にとって、学校ほど有害なものはなかった、というのだから手きびしい。これではダーウィンを教えた教師どもは浮かばれないだろう。

 当時の学校が、ダーウィンにとってでなくても、精神の発達にとって有害であったかどうか、私は知らない。本当に有害なら、そんな学校へはいかないほうがいいにきまっている。電磁誘導や電解の法則の発見で名をのこした、ダーウィンと同時代の同国人マイケル・ファラデーが、一日も学校へいったことがないという事実はある。ファラデーがもし貧乏人の子でなくて、学校にあがったら、平凡な人間として一生を終えたにちがいないといえるならば、このさい、事は簡単になるが、この論理はちと乱暴だ。

 電灯や映画などの発明で名をのこしたトーマス・エジソンもさむらいであった。自分は一生学校なんかいかないといったのは九歳のときだ。エジソンは算数の時間に勝手に汽船の絵をかいていた。これが指導主事の臨席する時間であったために教師はこまった。そこで、この子を低能よばわりして退学させてしまった。このときエジソンは小学校に入学してまだ三ヵ月しかたっていない。

 この少年時代の発明王にとって、水路をかよう汽船が算数よりも興味をひいたことを教師は気がつかなかったといっていいのかもしれない。しかし、それに気がついたとしても、学校とよばれる場の秩序は、この教師の方向でしか維持できないということだ。

 このポートヒューロンの小学校のあり方、その教師のあり方は、とくに異例ではあるまい。退学処分が過酷であるかどうかを論外とすれば、この種の処置はありふれている。今も昔も、学校という場は人間を鋳型にはめようとするところだ。ともすると、憲法の頭の上をこして、《法と秩序》の精神をたたきこむところであり、体制内人間をつくるところである。

 では、未来の学校はどうか。学校が体制内にあるかぎり、そこで体制内人間をつくろうとするのは、自然の勢いだろう。未来も過去も、この点で変わりはあるまい。げんに、中教審の大学構想のようなもののなかに、この性格はストレートにあらわれている。どっちみち、学校というものは、ダーウィンやエジソンのような型破りの人間にきらわれる運命をになっているようだ。ここでもまた、未来も過去も変わりはあるまい。

 けっきょく学校が確実に養成することのできるのは、モーレツ社員や保守党政治家や官僚など、あまりおもしろみのない人間ばかりということになるだろう。もしもそれ以上の望みを学校に託そうというのなら、体制のたがをゆるめるほかに道はあるまい。しかしそれは、人類にとってではなく、体制にとって危険な道だ。そんな学校はつぶせという声がかかったことを、お互いは、つい昨日のこととして覚えている。

狎れあい

 エジソンの場合についていえば、教師は、一部の子どもにとって、算数よりも汽船に興味があったことを知っていてなお、算数のほうに興味があって当然だと考えたことになる。それはすでに事実をまげている。ところが、指導主事がこれに同調する。これは狎れあいだ。この狎れあいによって、教師は算数に興味をもたせることに努力し、しかもそれに成功しているはずだと錯覚する。そこで、エジソンが算数に興味をもたなかったことの責任を、たった九歳の子どもにおしつけて、しゃあしゃあしていられるのである。

 私が体制といっているものは、社会的なものをさす一方、ここにあるような狎れあいによって事実をまげ、教師がいつでも自己を正当化しうる体制をさしている。むろん、ここでいう二つの体制はけっして別個のものではない。ダーウィンも、こういった、学校の性格に愛想をつかせたのではないだろうか。

 未来の学校に、もし、教師が無条件に自己を正当化するしくみがなくなり、狎れあいの空気がなくなったら、これは奇跡というものだろう。しかしこの奇跡は実現不可能のものではない。むしろ、この奇跡の窓をとおして、未来の学校をのぞむことができそうだ。

 狎れあいの身についたような人間は小粒にきまっている。このごろは小粒の人間ばかりだという声があるけれど、学校で狎れあいの鋳型にはめこまれれば、どんな人も小粒になるだろう。これでは、学校教育がダーウィンやエジソンを生みだすはずがない。

カンニング

 一年ほどまえ、学園紛争のさなかに、私は『大学の原点』(本書シリーズ二〇巻)という一書をものした。このとき、小学校から大学までのすべての教育の場に狎れあいのあることに気付いたので、私は教師を見ればそれをつかまえて、狎れあいの有無をただした。その結果、私の見当がはずれていないことがわかった。旧師範学校の教師でさえ、狎れあいを教えていただろう、という私の問いに対して、否定的ではなかった。

 高校のカンニングがここ三年間に倍増したことが先日の新聞にあった。横浜国大工学部の一学生にいわせれば、カンニングをしない者は、ひとりもいないそうだ。そこのある教授は、不合格にはしないからカンニングだけはやめてくれといったことから学生に軽蔑されたという。学生生徒が互いにカンニングを承認しあうのも、私にいわせれば狎れあいだ。これも学校や教師の狎れあいの反映として説明がつくだろう。狎れあいは、政治から学校へ、学校から学生生徒へと、スムーズに浸透しているのだ。

 毛沢東は、他人に学ぶのは結構だとして、カンニングを罪悪視するなと教えた。カンニングを他人に学ぶ方法とみるならば、それを非難するにはあたらない。しかし、それを点取りという結果主義のケチな方法とみるならば、これをほめる勇気はない。

 学校教育でコンピューターやティーチングマシンが主役になれば、狎れあいやカンニングのはいる余地をせばめることができるだろう。しかし、これらの非人間的機械は、人間疎外をもたらすにちがいない。それは、教師の思想を無視し、学生生徒の人格を無視して、両者を人間喪失におとしいれるだろう。未来の学校はむずかしい問題をかかえている。

 だが、未来とは何だろうか。

 私はこれまで地磁気の変動から計算して、人類の滅亡を西暦四、〇〇〇年とみていた。ところが環境破壊から推定すると、人類の滅亡は西暦二、〇〇〇年だという説をとなえる学者がでてきた。未来は三〇年という短い時間のなかにとじこめられるかもしれなくなった。それが五〇年、一〇〇年、二〇〇年と延長できるかどうかが、未来の学校の課題でなければなるまい。政治から学生生徒までを汚染しつくした狎れあいやカンニングが、人類の延命に役だつかどうか、胸に手をおいて、とくと考える時がきているのではなかろうか。

 足もとに火がつき、弔鐘は鳴っている。

教育じほう 一九七一年一月

4 若者に健全な史観を

 「今の若い者は」ということばが言い古されたものであることを、われわれは肌身で知っている。そこに、嘆息、失望、不満などが交錯している点ではいつの時代にも共通な思いがこめられていようが、その内容をつぶさに点検してみたら、おそらくそれぞれの時代に特性が見い出されることだろう。今日の若者は、かつてのいかなる時代の若者ともちがっているはずだ。

 去る一月に山形で開催された日教組教研大会の席上、鳥取高教組の報告した意識調査のデータは印象的であった。若者の半数近くは、この社会が自分たちの力ではどうにもならぬとあきらめているという。若者たちをここまで突きおとした責任が大人にあることはいうまでもないが、このムードは要するに〝終末〟というべきものだろう。

 一部のジャーナリズムは、終末論の〝流行〟というような表現をしている。流行といえばはやりすたりを思わせるが、われわれの論じようとする終末論はそんな浮いた調子のものではなく、いたって厳粛なものだ。浮いた調子の終末論の横行は、人心の荒廃以外の何物をももたらさないだろう。そしてそこにこそ、病める現代があるのだ。

 ノストラダムスの『大予言』、小松左京の『日本沈没』と、不吉な未来を想定する書物がまじめな出版物を圧倒しつつあるが、それらは終末論の〝流行〟に便乗した企画ではなかったか。現代の日本人がカビのはえた怪文書からのこじつけなどに振りまわされることがあったら、われわれの文化は驚くべき上げ底といわざるをえまい。その見かけ倒しの文化のなかで、あらゆる年齢層に無気力な諦めムードが浸透したということだろう。もしわれわれが今の若い者を批判しようとするのなら、この現在に対する自己批判がまず必要だ。そのときわれわれは、鳥取高教組の訴えに正しく対応したといえよう。

 われわれの自己批判の具体的作業の第一は、流行する終末論に止めをさすことであり、正しい史観を身につけることである。そこでは、歴史は向こうからやってくるものではなく、人間が自らの力で招きよせるものであること、歴史は参加すべきものであることが強調されなければならぬ。いわゆる社会人は自力でそれを学びとるべきであり、学生や生徒は教師と協力してそれを学びとるべきである。端的にこれをいうなら、小学校から大学にいたるまでの教育課程に、人類史の展望をとりあげよということだ。それが成功すれば、予言者的史観は雲散霧消するにちがいない。ナチの宣伝相ゲッペルスがノストラダムスの予言を利用してヒットラーの蛮行を正当化したという故事にみるとおり、予言のごとき前近代的行為は、腹黒い人物に悪用される以上のものではないのである。

 われわれの教育のプログラムに歴史の要素は十分にふくまれている。予言者的史観にみられる神秘主義の粉砕が、そのなかで期待されてしかるべきである。そんなことは考えたことがないという教師諸君には、真剣な勉強を望みたい。今の若い者に生き甲斐を取り戻す唯一の道は、終末論の背景のなかに健全な史観を打ちたてることではあるまいか。

東京タイムズ 一九七四年二月二十四日

5 科学に強いか弱いか

一つの問題

 科学とは何かという問題は、ふつうの人にはどうでもよいことだろう。しかし、科学に首をつっこんでいる人間には、これがどうにも気になってならない。それを知っているかのように、「科学とは何か」と、面とむかってたずねる人がいて、こちらが猫に追いつめられたネズミのような思いにさせられたこともある。
 しかし、そういう人は、私にとってはむしろ心の友といえる。共通の問題をかかえた人と思うからである。この種の心の友が、この問題を解決しようとする私のあと押しをしてくれたことは、もちろんである。
この人は、お茶の水女子大付属の幼稚園に特色を与えたことで鳴らした、同大心理学教授周郷博氏であった。

言葉とは

 科学者のなかにも、「科学とは何か」などという問題をたてるのは無用のことだと主張する人がいる。そんなものをきめてみたところで、何のたしにもならないというのである。その根底には、言葉というものが、使っていくうちに、その内容を変えていくという思想がある。
 私はへそまがりかもしれないが、とかく言葉から規定してかかりたい人間だ。そうはいっても、かつて私に葉書で質問してきた少年のように、「僕は科学者になりたいけれど、科学とは何ですか」というところまで、言葉にこだわるつもりはない。

ありのまま

 自然をありのままに見るところから科学がはじまるということは、理科教育にたずさわるような人たちによって、口がすっぱくなるほどいわれてきた。そして、そのことは、永遠の真理であるかのように、こんにちつたえられている。あわて者なら、自然をありのままに見ることが科学だと思いこむおそれがあるほどだ。
 私の見るところでは、人間というものは、自然をありのままに見ることをよしとする動物であるらしい。理科の先生はむろんのこと、短歌の先生も自然をありのままに見よといい、絵の先生も自然をありのままに見よという。自然科学ばかりでなく、短歌も絵画も、自然をありのままに見るところからはじまるようなさわぎだ。
 この言葉は、人間の場合には教訓じみてくるが、犬でも猫でもどんな動物でも、だまって、ありのままに自然を見ていることであろう。それでなければ、自然のなかで生きていくことはできないはずである。

実存主義

 賢明なる読者諸君は、すでに、「科学とは何か」という問題の答として、「自然をありのままに見ることだ」などと私がいいだしそうもないことに気づかれたであろう。
 実存主義哲学で知られたサルトルは、ひぜんの病原菌などは、自分にとって存在しないという意味のことをいっている。なるほど、ひぜんにかかった皮膚を穴のあくほど見たところで、カビは見えはしない。自然をありのままに見る立場でいけば、ひぜんの病原体をみとめることはうそになる。
 この紙が分子でできていることも、その分子が原子でできていることも、自然をありのままに見る立場では、うそになる。
 これでは、自然をありのままに見ることは、科学の定義としていただけないどころか、教訓としても危険ではないか。

科学とは

 「科学とは何か」という問題の答を私が得たのは、周郷氏から、この質問をうけた瞬間のことだった。そのとき、とっさに口をついてでたのは「関係の把握はあく」ということばだった。
 米作に例をとってみよう。米の収量は日照に関係している。そしてまた、日照と収量との関係は、品種によってちがう。そこには、三角関係どころか多角関係がある。これらの関係を把握すること、正しくつかむことが科学だという思想に到達したわけである。
 この考えかたでいけば、すべての人にとって科学は有用なものになってくる。科学を無視することは自殺行為にひとしくなってくる。
 世のなかには、関係をつかむ側にまわる人もあり、他人がつかんだ関係を利用する側にまわる人もある。どっちにしても科学は科学だ。
 健康についても科学はいたって身近にある。病気と薬との関係、栄養状態と食物との関係などを全く気にしない人がいたら、頭がどうかしているといわれるだろう。

科学に弱い人

 「科学に弱い」という言葉を使いたがる人がいる。しかし、この小文を読んでも、なお科学に弱いとがんばる農家の人がいたら、「種をまかずに収穫する方法を教えてもらいたい」とたのんでみたらどうだろう。おそらく、その科学に弱いと称する人は、とうとうと種と収穫との関係についてかたることだろう。それはもう、正真正銘の科学なのである。
 たぶん、その人の言葉には、自然をありのままに見た結果がすけて見えるだろう。ありのままに見るとは、まげて見ることをしないというほどの意味なのである。

農業北海道 一九六四年二月

6 勉強ぎらいがなぜ悪い

 先日NHKテレビでも紹介されたことだが、学童の勉強嫌いはひどいようだ。これが中学校、高校、大学と波及しないはずはない。その日本が国際的な理科のテストで抜群の成績をあげた事実は一見奇異であるが、つらつら考えれば奇異でも何でもありはしない。

 この先進国にまれな勉強嫌い国の宰相は二言目には〝勉強〟をいう。テレビのなかの解説者にいわせれば、子供が勉強をきらうのは何のための勉強か目的がわからないせいだ。宰相の勉強に明確な目的のあることを思えばこれはまことにもっともな話だ。

 元来日本人は勉強好きではなかったか。宰相から魚屋にいたるまで勉強をいうのは古来の伝統上のものだろう。碩学セント=ジェルジのいうとおり、人間の頭は利害の判断のためにあるのであって、真理の探究などのためにあるのではない。脳が猿の遺産なら当然のことだろう。勉強の本質は利害の判断そのものでもあり、そういう頭の訓練でもある。それが宰相から魚屋にいたるエコノミック・アニマル日本人の勉強ではなかったのか。

 ここまで明らかになれば学校の勉強がきらわれる理由が分かる。これが利害の勉強ではなく真理の探究の顔をしているからだ。親が子を学校に入れるのも、真理や真実を学ばせるためではなく有利な人生街道にのせたい一心ではなかったか。そこで真理追究のゼスチュアをするのがまちがっているのだ。

 利益が目的であるにせよ真理ないし真実が目的であるにせよ勉強には過程がある。まず情報を収集しなければならぬ。情報とは知識として定着する素材のすべてをさしている。金大中事件の真実を追究するには、それに関連するすべての情報が必要である。それが勉強の第一段階だ。宇都宮徳馬氏の指摘する、対韓経済援助額の三分の二が日韓政財界へのリベートに化けた疑いがあるというような情報までが省かれてはならない。関連あるすべての情報は収集されなければ勉強は名のみになる。

 収集した情報は個々別々では死物である。ばらしてつぎ合わせる作業で生きてくる。これを情報の解体、再構築という。この勉強の第二段階を怠れば、金大中事件と対韓援助とは個別の問題となり、理科のテストは好成績をあげる。解体の手続きがなければ情報は原形をとどめて孤立しているから、オウム返しには好都合だが役には立たない。まじめな追究の意図のないところに情報解体の必然性はないのだ。

 真理や真実の追究が体制の喜ぶところでないことは当然だ。金大中事件にみられる動き、ウォーターゲート事件にみられる動き、家永教科書問題にみられる動きなどがそれを証明している。教育が真実を目ざすとしたら、体制にとっては迷惑至極だ。小学生から大学生にいたる勉強嫌いはそれに対応している。

 大学では内ゲバが花ざかり、一般市民を巻き添えにして恥じない。その根底にある主導権争いはまさに利害の問題であって真理の探究とはかかわりない。企業の利潤追求と大脳過程は同一だ。

 だがしかし、真理の探究、真実の追究が今日ほど重要な時はかつてなかった。人類は八方ふさがりの袋小路に追いこまれようとして、ごまかしでは脱出できないからだ。東大生が公害関連学科を敬遠したそうだが、そろそろ猿をこえた勉強の季節がきたのではないか。

東京タイムズ 一九七三年十月七日

7 質問にどう答えるか

かならず答えること

 児童心理学者が第一反抗期といっている三つぐらいの年頃になると、子どもは自分の身の回りのことでつじつまの合わないことをしきりと聞きはじめます。たとえば「神社にはなにがいるの」というような質問ですが、これは家というものには人間がすんでいるはずなのに人のいない家である神社があるのはおかしいと感じるわけです。この質問ならば「神様がすんでいるのよ」というぐらいの答えがすぐできるでしょうし、それでいいと思います。しかしこれが「どうして男は赤ちゃんを生まないの」というような、大人の領域での自然科学に関係する質問ともなると、ちょっと答えるのに苦しむでしょう。この質問に学問的に答えてみても、もちろん子供にわかるはずはありませんし、たとえわかるとしても学問的に答えられる両親はいくらもいないはずです。
 しかし、三つ四つの子どもの質問は、あまり深刻に取り上げなくてもよいと思います。たとえば「男の人のからだは赤ちゃんを生むようにできていないのよ」ぐらいにかたづけておいても別段害があるとはいえないでしょう。つまりこの時期では正確にいえば答えになっていない答えでもよいのです。しかし、まずなにか答えてやるということがいちばんたいせつです。小さいときから質問をしてもだれにも答えてもらえないで育った子どもは、しまいにはなにごとに対しても疑問をもたない人間になってしまうでしょう。だからどんなばかげた質問でも、あるいはまたむずかしい質問でも必ず取り上げてやらなければなりません。

年齢に応じた抽象度

 もっと大きい幼稚園から小学校低学年ぐらいの児童に対してはその年齢や知能に応じて、筋の通った答えをしなければならないでしょう。たとえば「ニジはどうしてできるの」という質問に対しては「神様がお空に橋をかけたんだよ」と答えてもそれほど悪いとは思えませんが「お日様が橋をかけた」と答えてやれば、より適切で科学的でしょう。同じニジの質問でも小学校の低学年ならば「お日様が七色の光を持っていて、それが分かれてみえる」と答えるのがいいわけです。ここで注意しなければならないのは、子どもにむりやりにむずかしいことをおぼえさせてもなんにもならないということです。たとえそれをオウム返しにくりかえし覚えさせてみても、かえって害があるだけです。幼い子どもはこんな苦痛にあうくらいならもう質問はしない方がよいと考えるでしょう。だから、成長に応じて抽象度をだんだん上げていくということが大事です。

生活と結びつけて

 私は子どもの科学書を書く場合に、年齢に応じて抽象度をどのあたりでとどめるかという点に注意しています。おもしろおかしくするというのは二のつぎのことと考えていますが、擬人法については大いに使ってよいと思います。子どもの論理的判断は、まず自分の身体のことから始まります。したがって小学校低学年までには擬人法が一番わかりやすいのです。心理学者はこのくらいまでの子どもの心理を「アニミズム」(生気説)で説明しています。私はこの説に必ずしも全面的に賛成しませんが、ともあれ擬人法を使うのは決して悪いことではなく、むしろすすめてよいことでしょう。
 最近は〝宇宙時代〟などとさわがれるようになり、子どもの本などにも宇宙旅行やロケットのはなしがしきりとでてきます。しかし、このような本でえた知識は非常にかたよったものになり易く、同時に子どもの主体性がどこにも働いていない場合が多いようです。たとえば、月世界には空気がないという前提をうのみにさせて旅行のはなしを展開していますが、このような場合には「月に空気のないのはどうしてわかるのか」というぐあいに逆に質問して子どもの理解に主体性をもたせてやりたいものです。
 また子どもの知識を地上に結びつけてやることが大切だと思います。生活に密着し、自然を広く眺めるという態度をとらせなくては、正しい科学教育はできません。

正確な解答は二の次

 そうはいっても、自然科学的な質問に答えるのは、私たちのような多少その方面の本を書いているものでもなかなかむずかしいことです。すべての質問に学術的に正確な答えを出そうとすれば、あらゆる分野の専門家にたずねなければならないでしょう。現に私がいま正しいと思っていることでも、専門家の新しい研究によれば間違っているかもしれません。だからいくら教養のある親でも子どもの疑問にすべて答えるのは容易でないでしょう。なにより大事なのはひととおり筋道の通った答えをするということです。答えが古い学説にもとづくものであっても筋道さえ通ればよいのです。その学説が正しいかどうかは子どもが成長すれば自然にわかるでしょうから。

北海道新聞 一九五八年十月二十七日

8 自然を見る目を

一 生活学習の反省

 モーパッサンの『女の一生』は、原語では「ユヌ・ヴィー」である。これを「ある生活」と訳したとしたら、さしもの名作も台なしになるであろう。 フランス語のヴィーは、生活であり、一生であり、命である。
 とすれば、ユヌ・ヴィーを、「ある生活」としても、「ある命」としても、「ある一生」としても文句はないはずだ。しかし、それはわれわれ日本人の理くつであって、フランス人には通らない。

 フランス語のなかで、いや、フランス人の頭のなかで、命と生活とは切りはなせないのだ。それはつまり、「命」と「生活」とに対して、それを引っくるめた一つのことば「ヴィー」しかないからである。しかし、このような事情は、フランス語に限られたものではない。命と生活とのあいだの分裂は、むしろ日本の特殊性と考えるのが正しい。

 「命」と「生活」とが一つのことばになっていれば、それらのどちらもが、互に切り離された概念として成立しないことはいうまでもない。その二つが独立の概念となっている事情が、日本人の生活を空虚にしている原因のすべてであるとは思わないが、その大部分がここにあると筆者は思う。その点から、「生活」と結合したすべての日本語をぎんみし、日本人の生活を点検すべき時がきたと筆者は思う。生活学習の反省もそこから出発する。

 まず、生活学習ということばに盛られた「生活」とは何であろうか。それが「命」と切り離されていることに思いをひそめた上で、この問題と取り組む必要がある。

 現在まだ余命を保っている例の文部省の、『小学校学習指導要領理科編』を見ると、「合理的な生活」ということばが盛んに出てくる。このことばのなかの「生活」は、命と切り離された生活であるにちがいない。「合理的な命」などはナンセンスだからである。

二 理科にも生命を

 われわれ日本人の頭で、生活と命とが分裂していることは、はたして損失であろうか。

 われわれからすれば、命と生活とは一応別物として受けとめられる。それらの二つが独立した概念として成立していることは、すばらしい事実であるかもしれない。ただ、それをすばらしいものにするための条件は、個人的にも社会的にも、その二つの統一のもとに生きる構えが用意されていることにある。現実に、命から切り離された生活のありようがなく、生活から切り離された命のありようがないからである。

 それなのに、生活の命からの独立に意義を認めようとするのは、ある場合には命に焦点をしぼり、ある場合には生活に焦点をしぼることによって、「命プラス生活」上の問題の解決ができるという点にある。もし、生活学習に光栄を与えたいならば、それが、命と切り離された生活に焦点をしぼった結果として、命と切り離された生活の面で、「命プラス生活」の向上につくしたという点に対してでなければならない。そうしてまた、ここに光栄があったとするならば、命と生活との観念の分裂は、教育を論じたり経営したりする上に便利だということがいえる。もしまた、この分裂のために、教育が命をわすれる結果を招いたとすれば、便利だなどといってはすまされないことになる。

 しかし、何といってみたところで、すでにあることばを消し去ることはできない。そこで、命と生活との分裂という現実を認識した上で、改めて教育の場での「生活」を見直すことが必要となる。そうして、その認識を土台とすることによって、生活にも教育にも「命」が吹きこまれることになる。それが効果をあげたとき、理科に熱心な教師がばかにされることもなくなる。国語科や社会科に熱心な教師は、理科に熱心な教師に対して、とかく人間離れした存在としてさげすみの目を向けたがるが、その現象の原因は、ここにいう分裂が、自然科学に興味をもつ人間において特徴的だとみるところにあるようだ。だがそれは、分裂の症状のちがいにすぎないのであって、日本人であるかぎり、何かの形での分裂の必然性があると筆者は考える。

三 アンノ・スプートニク

 イギリスの新聞『マンチェスター・ガーディアン』は、人工衛星の前後で時代を分けて、以前をB・S(ビフォーア・スプートニク)、以後をA・S(アンノ・スプートニク)とすることを提案した。一九五八年、すなわちA・S第二年の理科教育は、B・S時代のそれと同じであるはずがない。「教材教具の整備拡充が最もたいせつである」といった茅誠司氏の主張も、これからの理科教育を語ることばではない。

 文部省の教育課程審議会では、小学校低学年の理科を自然観察中心にすると言いだした。遊び中心と言わなくなった点は進歩と認めてよいが、低学年で観察を中心にすべきことぐらいは、むかしからわかっているところであって、ほめるほどのことはない。問題は、指導すべき観察の対象や内容や方法をA・S時代にふさわしいものにしなければならないというところにある。教育に関心をもつ人すべては、世界的要請をまともに見なければならない。

 A・S時代は、またオートメーションの時代である。新しい時代の観察の教育がどのようなものでなければならないかという問題には、このこともからんでくる。

 観察といえばすぐに継続観察とこたえるのが理科教育界のくせのようだ。教育課程審議会の基本方針にも例によって例のごとく、低学年に対しては、「草花を種から花がさくまで栽培させる」ことをあげている。アサガオの種をまいて、芽がでて花がさくまでの過程を観察して、それを絵日記にするようなのが一つの典型である。生物の「命」にふれるという点にこれの意義が認められないこともないが、それだけならば継続観察の必要はない。それよりも、生育の各段階での観察を徹底的に指導するほうがよい。悪くみれば、観察の指導ができないところから、継続観察という美しい名の逃げ道をつくった形だ。もともと、継続すること自体は観察ではない。継続観察をなしとげることによって完成の喜びを味わわせるというなら、それは理科ではない。数ヵ月さきの目標を教師が勝手に設定して、児童をむりやりに引きずることは、「命」を尊ぶゆえんでない。

 アサガオの継続観察では、人間より機械の勝ちだ。速度をおとして映画にとれば、芽がのび、花が開くありさままでが、手にとるように見られるではないか。

 継続観察のもう一つの典型は天気しらべである。教育課程審議会の基本方針も、それを明示した形になっている。いやがるこどもを父兄がつかまえて、毎日定時に温度の測定をやらせるというあれだ。これもまた、児童にとっては無目的に等しい。無目的の行動に人間をかりたてることは「命」の軽視である。

 継続観察というお題目ができるまえから、気象の自動観測装置はできている。自記温度計は、どんなに根気のよい児童よりよく温度を測定し記録する。その資料のまえに、児童の記録は一片のほごにすぎない。そこにあるものは「命」の浪費だけだ。気温を感じでとらえる能力の修得に意義を認める人もあるかもしれないが、この種の技能はB・S時代のものだ。

四 ソ連の理科

 キリストはエルサルムに生まれたが、スプートニクはソ連にうまれた。スプートニクの背景にあるソ連の理科の教科書を見ると、まず、導入などを問題にしていない点が目だつ。導入の腕前によって教材を児童に結びつけようとするのは、甘やかしにすぎない。そんな所に教育の非能率の種がひそんでいる。風の歌をうたって、紙ざいくの風車をつくって、それを風の中でころがして、それで終わりというような理科は、B・S時代の語り草として過去にほうむりたい。そんな理科は、「命」に役立たないどころか、「生活」にも役立たない。命を重くみる立場で、甘やかしはきんもつである。

 いわゆる生活単元式の理科では、大きな題目として、「身のまわりの生物」がとりあげられる。庭にはどんな草木がはえているかとか、野山にはどんな草木がはえているかとか、秋鳴く虫にはどんなのがあるかとかいうことが重大問題となる。生物の名前にしたしみのうすい教師にとって、それほど気の重い教材はない。不快な教材を敬遠するあまり、理科全体に背を向ける教師がつくられていく。

 ソ連の理科では、こんなばかげた教材は無視される。植物の学習でとりあげられるものは栽培植物にかぎられるといってよい。それは、ムギであり、トウモロコシであり、リンゴである。教師をまごつかせる名前がとびだす余地はどこにもない。すべての教材は、「命」と「生活」との両面から児童につながっている。

 ソ連の理科の教科書で見のがせないのは、その内容の質と量とである。植物学に例をとれば、それは、日本の小学校の五年の二学期から中学一年の一学期までに相当する期間に学習することになっている。その後半の一年間は動物学の学習と重なるというのに、日本訳の『新しい植物学』は、九ポイント活字でA5判三一六ページの本である。しかもその程度は日本の高校にひけをとらない。水爆でも人工衛星でも世界にさきがけの態勢はここにもあったのである。

五 A・S時代の教師

 A・S時代の日本の小学校理科教育はどうあるべきであろうか。

 第一にそれは、生活に命を吹きこむものでなければならない。それは、科学に命を売り渡しかねない時代をむかえて、世界共通の命題となったが、日本語による特殊な事情におかれているわれわれにとって、文字どおり命にかかわる大問題である。

 理科教育に命を吹きこむ方法はたやすい。それは児童の命をそこなわないための注意で足りる。命はすでに児童のものだからである。

 第二にそれは、能率的でなければならない。現代の科学はぼう大である。それなのに、B・S時代の科学を消化した上でなければ、その学習はできない。能率化の要請はここからくる。

 学習指導の能率化のためには積極的な方法を研究しなければならないが、何よりもまずむだを省くことが必要である。例の文部省の学習指導要領理科編には、「余暇を利用する態度」がくり返し強調されているが、遊びを学習の手段とする非能率をさけて、遊びは児童の余暇にまかせるがよい。これも児童の命を尊重するゆえんである。理科だか何だか見当のつかないような理科は、もともと意味をもたなかったことを知るべきである。

 第三は教師の構えである。教師は自然を見る人間の目をもたなければならない。児童はそこから導かなければならない。A・S時代は、科学という呼び名の怪物が人類の隣人としてひかえている時代である。「命」と「生活」とのために、この怪物の正体を見とどけ、はねのけるべきをはねのけ、利用すべきを利用するにあたって、何よりだいじなのは自然を見る人間の目である。それは、主体性をもたない怪物をあやつり、プラスの面にだけ役立たせるための条件である。
小学校教師にとって理科ぎらいの許されない時代がやってきたのだ。命を忘れた生活を反省する時代がやってきたのだ。

児童心理 一九五八年三月

9 自分と対立しないものに魅力を求める

 多くの子どもは、幼稚園なら喜々としてかようだろう。そこに魅力があるから、と解釈してまちがいあるまい。

 小学校でも、入学当時は魅力あるものになることがまれではないようだ。しかし、学年が進むにつれて、そこに魅力を失う子どもが着実にふえてくる。そのおもな原因の一つとして、上級学校への進学が迫るにつれておこる成績の優劣の差をあげることができよう。優者は得意になり劣者はいじけるという、みじめな状態がそこに形成される。

 このような差別は、どちらの側にとっても、正常ならば魅力の対象にならないであろう。学校はただ、暗いトンネルの中の選別装置になってしまう。学校というものがなかったら、だれそれは秀才だ、などという先天的な素質まがいのものを評価する言葉は、たぶんつくられなかったことだろう。受験地獄は、人間の頭にひずみをつくってしまうのだ。そのひずみに満足している者にとってのみ、学校は魅力ある存在となる余地があろう。

 学校に魅力を与える方法は何かとたずねられたなら、この選別をやめよと答えざるをえなくなる。

 大多数の子どもの喜んでかよう幼稚園だけに選別がなくていられるわけがない。だがしかし、そこには救いがある。教科の中心が、音楽、遊戯、絵画などの遊びにあるからだ。遊びのなかで、人間は原則として疎外されない。

 ここでの疎外は、自分からでたものが自分と対立し、自分を否定するという関係をさしている。どんなへたな絵も、それを描いた童心と対立し、それを否定するものではない。へたな歌、へたな遊戯も同様である。これらが行為者と対立することはない。この状況が幸福の条件なのだ。そう考えれば、幼稚園が園児にとって魅力の対象となるのは当然だと理解できるであろう。

 幼稚園の主要な教科、すなわち音楽、遊戯、絵画などの特徴はほかにもある。それは、仮りにできが悪くても人生の一大事ではないという点だ。出世街道のパスポートの項目でないということである。どんな教育ママも、こういうものは大目に見る。中学校に進んでも、この調子は変わるまい。

 算数、国語、社会となれば目の色がちがってくる。へたな答案、悪い成績は当人と対立する。見るのもいやだという関係が、ここでの対立の意味である。かくして小学生は学校から疎外され、そこに魅力と逆のものを感じるようになる。このようにして学校は疎外の場となる。

 受験を目ざして、エリートコースと脱落コースとの選別が余儀なくされている。この選別装置が学校にあるかぎり、脱落組がそこに魅力を感じたらおかしなものではないか。問題の根は深い。

教育ジャーナル 一九七四年七月

10 本当の〝危険思想〟とは何か

 危険思想という言葉は戦前に獲得した市民権によって今なお大手を振ってのさばっている。思想の自由を保障する憲法の趣旨を貫徹するなら、特定の思想を危険なものとして差別する思想こそが危険思想の名に値するだろう。

 一七世紀の昔、かのガリレオ=ガリレイはコペルニクスを支持する者と疑われて宗教裁判にかけられた。彼はこの不逞な思想を信奉する者でもなく、それを広めようとする者でもないとの転向を表明させられて、からくも死地を脱するしまつとなった。当時のローマ教会にとって、キリスト教の護持してきた天動説に違反する地動説は危険思想であった。

 ここで注意すべき点は、ガリレオが真理の探究者であるのに対し、ローマ教会はアリストテレスを鵜のみにする教条主義者にすぎないという事実である。ガリレオにとってのローマ教会の思想は、死をもって脅迫する危険思想であった。特定の思想を危険思想視するのが危険思想であるとみる論理が憲法以前のものであることを、この例が証明するだろう。

 一七世紀のヨーロッパに権威をほしいままにした思想は、現代では破れ靴のごとくに捨てられ、小学生さえ相手にしないものとなった。三〇〇年前にガリレオを危険人物よばわりしたその思想は、今日では物笑いの思想、たわけの思想と相成った。地動説は危険思想ではなくなったのだ。真理万々歳というところではないか。

 真理の探究を怠る者は真理の重みを知らず、かえって真理探究者の思想を危険視する危険をはらんでいる。地動説がそうであったし、もろもろの進歩主義思想もそのたぐいであろう。社会主義を危険思想よばわりする反共思想が、一七世紀のローマ法王の思想と同じ運命をたどる可能性は極めて大きい。

 真理とかかわりない思想は一時期は鬼面をかぶることができても、いつの日にかは真理を志向する思想の前に淡雪のごとくに消え去るのだ。学習の成果でもあり総括でもある思想の〝質〟は、学習の量によって定まる。いわゆる量から質への転換はここにもみられるのだ。

 思想の質を決定する要因はそれだけではない。地上に住む人間ならば、太陽が東から西に移動する事実を知っている。地球から見れば太陽は地球のまわりをまわる。太陽に視点をおくことができれば、地球が太陽のまわりをまわることは自明だろう。天動説にも地動説にも十分な根拠はある。同一の現象が視点を異にすることによって別個の形をとるのだ。地動説を客観的事実、科学的事実として認識するためには、観測データの処理を理解する必要ありとはいえ、太陽系を離脱して宇宙の一角に視点を求めることができれば、それは一目瞭然のはずだ。

 ストライキや順法闘争のたぐいは経営側の視点からすれば危険思想であり、労働者の視点からすれば自衛の手段である。運賃値上げのうえにストライキとはけしからんという批判は、経営者の所業と労働者の所業との区別を忘れている。支配者の視点と非支配者の視点との混同は禁物なのだ。視点を明確にせず学ぶことを怠る人間は、思想の陥穽に気付きようがない。他人の思想を危険思想よばわりする思想は、憲法がなくてもまさしく危険思想なのだ。これをたたきつぶせ。

東京タイムズ 一九七三年十一月十三日 

11 テレビ視聴者的人間を問う

泥沼脱出の方法は読書

 日本図書館協会の先日の発表によれば、現代っ子は必ずしもテレビにしがみつくばかりが能でなく、読書の方向へのある程度の傾斜を見せているという。怪獣番組に力こぶを入れるテレビ製作者も、この傾向に苦い顔をするわけにもゆくまい。人間の大脳のメカニズムに着目するとき、バブロフ(ン)のいわゆる第二信号系の活動を文字や記号の形で定着する活字文化には、かけがえのない価値があるはずだ。現代っ子を見守る立場にあるわれわれ大人がテレビ文化を再検討する機会を、この調査が提供するならもっけの幸いであろう。

 ある高校教師は慨歎していった。生徒はテレビを見る気持ちで教室にいるという。われわれはよく、雑談しながらブラウン管にちらちら目をやる。画面に魅力がなければ何の遠慮もなく雑談にもどる。高校生はこの調子で教師に対するというのだ。驚いた私は一短大生をつかまえてこの話をしてみた。すると、自分たちも同様だという。その高校教師は、生徒の注意をひくためにどぎついアクションをまじえて授業をせざるをえないそうだ。

 テレビ文化はこんな形で学校の教室に侵入しつつある。視聴覚教育の名のもとに、小学校あたりではブラウン管が教師の代役をする場面があるはずだ。そのことの功と罪といずれが大きいかは重大な問題だろう。前記高校生に見るようなテレビ視聴者的人間の形成が、放送の内容とほとんど無関係であることを見逃してはなるまい。

 そうかといって、テレビ番組の内容はどうでもよいという議論はないだろう。どっちみち放送の内容が現代の反映でないはずはない。ただその現代が、社会が、政治が、不安、不満の種であるとき、それと対決するか逃避するか、道は二つある。大半の番組が逃避の一手であることは、半日もテレビの前にすわっていればわかるだろう。

 視聴率の高い番組にクイズがある。これにはスピード競技の一面があって、解答を早くだす者が勝ちだ。そこには論理的思考のための時間的余裕がない。じっくり考えるなどということに価値はないのだ。具体例をあげるまでもなく問題は下らないものばかりといってよい。それを考えるのではなく反射的に処理するところに価値がおかれる。

 ここに旧来の価値体系への造反があるといったら聞こえはよいが、その本質は混乱だ。価値体系の混乱がよく指摘される、その責任の一半がテレビにあるといったら過言だろうか。ここに見る〝思考〟の価値の下落はテレビタレントの価値の上昇とともに、テレビ文化の産物と見てよかろう。テレビは、その存在によって、そしてまたその番組内容によって、テレビ視聴者的人間ともいうべき新しい人間をつくりあげたのだ。

 テレビ視聴者的人間は論理的思考を欠く、混乱した価値体系の持ち主ということになる。価値の多様化などという概念はここから生まれたものだろう。

 この新しいタイプの人間は、国会議員の選挙とファン投票とを同一視する。平和思想を危険思想と取りちがえる。学生も暴力団も派閥争いを好んで相手を殺すまでは手をゆるめない。公害問題、資源問題など人類の運命にかかわる問題の重みを感じない。この種の人間を見くびるテレビ製作者は、インチキと知りつつ超能力の実験を披露し、政治家は自由世界を守ると称して自由を束縛しようとする。論理的思考の欠落、価値体系の混乱は「でたらめ」の横行する条件に他ならぬ。この泥沼から脱却する方法の一つは読書だといって過言ではあるまい。

 最近の子どもがじっさいに読書の方向への傾斜を示しているのなら、論理的思考や基本的人権を骨格とする価値体系がもどってくるのを期待してよいことになる。はたして現実はどうなのか。日本図書館協会の調査の信頼性を望む一方、テレビ製作者には、テレビ視聴者的人間形成の責任を感じてもらいたいものである。

東京タイムズ 一九七四年六月六日

12 着想と創造のメカニズム

 ベートーベンの交響曲にしずかに耳を傾けるとき、私はだれに対するときよりもよけいに天才を感じる。私が逆立ちしてもベートーベンの足もとにもおよばない。それどころか、世界中の作曲家が逆立ちしても、あの名曲を創造することはできないような気がする。そうなればベートーベンを天才とたたえることはきわめて自然であるだろう。それは何も、私がタクトを振ってベートーベンにのめりこんだせいではあるまい。

 音楽の天才においては、創造とインスピレーションとは一つであるように見える。そこに、着想というような過程を創造の過程と分離する余地はないように見える。ここでの天才はインスピレーションの人と見える。

 ひるがえって自然科学の天才を思うとき、私の頭に反射的にのぼってくるのは、エジソンの有名なことばである。それは、「天才は一%のインスピレーションと九九%のパースピレーション(発汗)とからできている」というあの名文句である。いうまでもなくエジソンは、科学者というよりも発明家というほうが適切であるような人物にちがいない。発明家は、科学者ではないとしても、作曲家よりはるかに科学者に近い。その意味において、エジソンのことばは音楽の天才にはあてはまらなくても科学の天才にはあてはまるように思える。エジソンがいうとおり、映画や電灯の発明は、九九%のパースピレーションと一%のインスピレーションとからできたにちがいあるまい。しかし、ベートーベンの合唱交響曲の九九%までが汗の結晶だという人がいたら、この楽聖は激怒することであろう。

 天才ということばは一つであっても、その内容は、その天才の支配する領域ごとに異なるとしなければなるまい。芸術の天才と科学技術の天才とは、少なくともその頭の働きのメカニズムにおいて、まったく異質のもののように思える。

 ここに考えたようなちがいは、教育の立場から天才を見るとき、絶対的といってよいほどのちがいをもたらす。というのは、ある領域の天才は教育によってつくりだすことができるのに、ある領域の天才は教育によってつくりだすことができないという、根本的な差異があるという意味である。本誌で天才ということばを用いずに英才としたのは、このような配慮につうじると私は想像する。英才ということばは、教育によって、したてることが不可能でないような天才を意味するとしたらどうであろうか。この私の考え方の根底には、インスピレーションのひらめく頭を教育でつくるのはむずかしいが、パースピレーションの習慣をつけることは教育によってできるという思想がある。そうかといって、歴史上の科学技術の天才のパースピレーションの習慣が、すべて教育によってつけられたなどと、私が思っているわけではない。

 以上の考え方が一から十まで正しかったと仮定すれば、科学技術の天才は教育によって養成できるという結論になりそうである。それをいいすぎだと、私は思っていない。あるいは、この私の考え方は甘すぎるだろう。しかし、そこまで甘くしないかぎり、天才と教育とのあいだに相関関係がなくなってしまうではないか。教師は手をこまねいて、ひたすらに天才の出現を待っていればよいことになってしまうではないか。

 科学技術の天才の名に値する人物は、すべてエジソンのことばにあてはまるものばかりであろうか。エジソンの場合は、ことばどおりとしておくとしても、インスピレーションの割合いのもっともっと大きな天才が、科学技術の分野にもいるような気がしてならない。その例としては、史上最大の天才的科学者ニュートンをあげることができる。ほかの人ならばパースピレーションでうんうん唸る過程を、ニュートンはインスピレーションによって、天馬空をいく勢いで、すらすら克服したように思えてならない。それでなければ、わずか一年あまりの短時日に、微積分を創始し、反射望遠鏡を発明し、万有引力の法則を発見し、非球面レンズを製作し、光の分散を発見し、反射鏡用合金を研究し、というような超人的な仕事をやりとげることはできなかったであろう。エジソンも天才、ニュートンも天才であるとすれば、このふたりの天才ぶりを同じと見てはいけないようである。

 エジソンにしてもニュートンにしても、ある一つの創造をするにあたっては、まず着想がなければならなかった。インスピレーション(霊感)は、その着想のためのものとして想定することができるであろう。この着想ないしインスピレーションがなかったなら、どんな創造もスタートの切りようがないではないだろうか。

 この着想とよばれる出発点があたえられても、それがそのまま立ち消えになる場合があるにちがいないが、そうなれば創造はありえない。この着想が現実に出発点となって、つぎつぎと発展の段階がつづいて最後のみのりにいたって、はじめて創造は完成する。この発展がインスピレーションに導びかれるか、パースピレーションによっておこなわれるかのちがいは、その人の特性と結びつけて考えられるべきことであろう。

 それがインスピレーションによる過程であったなら、一般論ではかたづきにくく、それぞれの人にまかせなければなるまい。しかし、パースピレーションによる過程だというなら、それは論理過程であるか、実験観察過程であるか、あるいは両者の混合過程であるかというような問題がおこってきて、見方をすえる道の発見が可能であるように思える。 

 着想とよばれている過程は、おそらく問題を意識するという第一過程と、それの解決の鍵のヒントをにぎるという第二過程と、二つのものから成立すると考えることができそうに思える。着想におけるインスピレーションは、問題意識とヒントと、両者にかかわる場合もありそうに見えるし、後者のヒントにだけかかわる場合もありそうに見える。どちらにしても、一瞬にしてインスピレーションがひらめくような人には、天才の呼び名がふさわしいと思える。

 一方には、これとちがって、問題からヒントまでを他人からあたえられ、自分としてはパースピレーション一本で創造をやりとげる人がいる。こういう人がいるからこそ、天才とよばれる人の存在に意義がみとめられると考えてよいであろう。

 小・中学生には自由研究とよばれる課題がある。これにさいしては、研究問題からその解決のヒントまでが、教師からあたえられなければならなくなるのがふつうである。この場合、学習の主眼は創造におけるパースピレーションにおかれると考えないわけにいかないであろう。

 エジソンの数おおくの発明のうち、どれを第一号にすべきかには問題があるけれど、特許というような法律的な要素をぬきにして、もっとも素朴に考えたとすれば、おそらくそれは自動通信装置ということになるであろう。一六歳のエジソンは、当時、ある駅の夜間電信係をつとめていた。この係の義務の一つは、本社あてに一時間ごとに「六」の字の電信をうつことであった。エジソンは昼夜をわかたずに勉強する少年であったから、この義務がつらくてしかたがない。そこでとうとう、時計を利用して、自動的に一時間ごとに六の字を通信する装置をつくってしまった。

 この自動通信装置の発明にあたっては、六の字の信号を送る機械的な義務をまぬかれるためには、どうすればよいかという問題が意識にのぼったにちがいない。これが着想の第一段階となった。エジソンがただのなまけ者であったなら、この問題を解決する鍵をさがすことをおこたったであろう。そんなことになれば、着想は成立せずに中途でくじけたことになる。エジソンは、この問題を意識したとたんに、これをにぎってはなさなかった。これが、着想成立の第一条件であることは明らかであろう。これだけのことのためには、とくにインスピレーションというほどのひらめきを必要としないことも明らかであろう。

 この問題の解決法として、エジソンは送信器を時計につなぐことを思いついた。そうときまれば、時計の動力を利用して、――・・・・のモールス符号を送りだす接点をつくる仕事が残るにすぎない。ここに示した考え方も、べつにインスピレーションというほどのことを必要としない。問題をしっかりにぎっていれば、当然の結果として、この解法にたどりつくとしか考えられない。

 こうして着想が成立してしまえば、あとはただコツコツと装置を工作していくだけのことで創造はできあがってしまう。そして、この作業が要求するものは、正にパースピレーション一本ということになる。 

 エジソンという人が、もしこんな程度の素朴な発明に終始する技術者であったなら、だれもこれを天才とはいわなかったであろう。というのは、かくべつインスピレーションを必要とせずにやっていけただろうからである。エジソンもまた、わずか一%のインスピレーションにこだわりはしなかったであろう。

 エジソンの大発明はあまりにもおおいので、その最大のものは何かということになると、だれでもとまどってしまう。おそらくエジソンは、その代表的ないくつかの発明について、一%のインスピレーションを主張したかったにちがいない。

 白熱電灯の発明はエジソンの大発明の一つであるが、その着想はどのようなものであっただろうか。いうまでもなく、こんなに規模の大きな発明となれば、新しい問題がつぎからつぎへと発生したことに疑いはないが、まず最初に意識にのぼった問題は、アーク灯よりも便利な電灯はありえないかというような性質のものであったことは、たやすく想像できる。

 エジソンの科学の師は、もっぱら書物でありその著者であった。そして、エジソンの最大の科学の師はファラデーであった。アーク灯はそのファラデーの師デーヴィーの発明にかかる。この人類最初の電灯はまばゆい光をはなって、電気が照明に利用できることをほこるにたるものであった。しかしそれは、光度の十分に小さいものも、所要電力の十分に小さいものもつくれなかったために、大衆のための電灯とはなりえないという宿命をになっていた。

 それにしても、アーク灯の致命的な短所はもっとほかの点にあった。それは、直列接続による同時点灯を原則とすることであった。すなわちそれは、独立に点滅しえないというまことに重大な欠点をもっていた。いうまでもなく、これもまた、電灯を大衆のものとすることをこばむ理由の大きなものであった。

 エジソンは、アーク灯についてこれらのことを心得ていた。したがって、最初の問題意識の中心には、大衆のための電灯はありえないものか、という課題もあったにちがいない。

 いずれにしても、エジソンの電灯発明における着想の第一段階をインスピレーション的なものと見る必要はないもののようである。

 エジソンはこの問題解決のためには並列回路を考えなければならなくなった。ところが、これを知った世界中の電気学者たちは、こぞってエジソンの愚を笑った。並列回路で電灯が点灯するなどは狂気のさただというのである。これを頭ごなしにやっつけずに、とにかくやってみるようにと元気づけた科学者は、エジソンの心の師ファラデーの弟子のジョン・ティンダルただひとりであった。

 エジソンの研究は失敗するにきまっていると、世界中の科学者が断言し、イギリス議会ではわざわざ委員会を組織して、「電流を分割することは人類にはできない問題である」との報告を発表するという四面楚歌のなかで、エジソンが敢然と、並列回路点灯を目標として白熱電灯の発明にまっしぐらに進んだという事実の裏面には、これが可能であることを信じさせる何物かがひそんでいたにちがいない。ここに、インスピレーションがあったと、エジソンはいうであろう。これでいけるという確信をそこからふきこまれて、白熱電灯発明の道を歩みはじめたのである。

 当時、灯火として最高のものはガス灯であった。エジソンは、これの長所をのこらず電灯にあたえなければなるまいと考えて、ガス灯についてのノート二〇〇冊四〇、〇〇〇ページをつくった。九九%のパースピレーションはここからはじまる。

 炭素フィラメントの材料をさがすために、エジソンは当時の金で一〇、〇〇〇ドルをかけ、二〇名以上の科学者を世界各地に派遣し、ついに八幡の竹にまさるもののないことをつきとめた。このときエジソンがフィラメントにつくってみた材料は、植物だけでも六、〇〇〇種をこえた。これがパースピレーションでなくて何であろう。しかしその根底には、炭素フィラメントの成功に対する確信があった。これをインスピレーションとしなければならないかどうかは、エジソンにたずねてみなければわかりようがあるまい。

 

 創造とよばれる営為の全過程を、着想と実現とにわけることができると考えるとき、エジソンの場合、実現の過程は本質的に実験観察の一語につきるように見える。たとえば、フィラメントの材料探しでは、それを使ってフィラメントの形がつくれるかどうか、電流をとおしたらどうなるかを、一つ一つについて実験的に調べるだけでよかったとさえいえる。しかし当のエジソンは、電灯の発明では三、〇〇〇の仮説をたて、そのうちの二つだけが正しかったと告白している。これからすれば、実現の過程も純粋な実験観察以上のものであったように見えないではない。

 後年フレミングの二極真空管を生むことになったエジソン効果は、この大発明家の発見にかかるものである。すなわちエジソンは、自分が発明した白熱電灯の管球内に、フィラメントと無関係な極板を封入し、それの電位をいろいろにして、これとフィラメントとのあいだに電流のとおる条件を求めた。そして、エジソン効果とよばれる魅力的な現象を発見した。しかし、遂行の段階ではあまりにパースピレーションを主とする実験観察家でありすぎたエジソンは、この場面ではさっぱりインスピレーションの恵みをうけなかったと見える。すなわち、エジソン効果をほりさげることもなく、その利用の道をかぎつけることもなかった。ここにエジソンの天才の実体が浮き彫りにされているような気がする。

 自然科学はもともと実験観察から発生したものではなく、思惟によって発生し発展してきたものである。この自然科学の性格は人知とともにほろびないものであろう。そうかといって、実験観察が真理の唯一の審判者であることが、ガリレオによって確立されたことを忘れてはならない。

 ガリレオはあるとき、アリストテレス以来の落体に関する思惟の法則に疑問をいだいた。この問題意識が落体の実験の着想の第一段階となった。その第二段階は、この問題の解決法としてのピサの斜塔の利用の思いつきである。これの実現はむしろ簡単であった。パースピレーションは、実験材料を塔の上まで運びあげる労働だけであった。

 ガリレオはまた慣性の法則を創造した。目にふれるかぎりの静止する物体や運動する物体を観察して、万物に共通な性質を求めようとしたところから、この法則が生まれたことにまちがいはなかろう。

 慣性の法則の創造にあたって、思考実験とよばれる非現実的な実験をガリレオがくわだてたことは有名である。対向する二つの斜面の一方の上からころがしおとした球は、対向する斜面上を前と同じ高さまでのぼるであろうというのが、ガリレオの思考実験にあらわれる現象である。むろん、運動に対する抵抗は何もないと仮定してのことである。ガリレオは、抵抗ゼロという条件は実現不可能と観念したからこそ、この着想を現実の世界では遂行せずに、思惟の世界で遂行したのである。対向する斜面上の同じ高さまで球がのぼるという結果は、その斜面の傾きの角の大小と無関係に期待できる。そこで、この角をゼロとすれば、球は無限の遠方までころがっていくことになる。これがガリレオの思考実験の収穫であった。

 このガリレオの創造で特筆しなければならないのは慣性の法則が創造であるばかりでなく、慣性もまた創造の産物だという点である。慣性はガリレオの頭のなかのものであって、実験観察によってその存在を確かめることのできない性質のものである。科学の創造では、このように、思惟の役割りがひじょうに重い。したがってそこでは、論理が最高の武器となる。これがほかの領域の創造とちがう点である。

 ガリレオをはじめとして、ニュートンやアインシュタインなど、物理学の創造者たちがこの上なく幾何学を愛したのは、その論理性にひかれ、論理を自分のものにしたということであるにちがいない。

 科学の世界の創造では、その着想の第一段階である問題意識が、どこからきたか見当のつかないことがある。これはガリレオの慣性の法則の創造に、すでにじゅうぶんにあらわれている。

 アインシュタインは、特許局で新発明の処理にあけくれする生活のなかで、宇宙はどんな形をしているか、宇宙はどこまでつづいているかという幼年時代からの問題を意識しつづけた。そこからあの相対性理論の創造が生まれたのである。私たちとしては、これらの高遠きわまる着想がどこからきたかを想像するのもよいが、まずそのような問題を自分自身に提起して、その解決の鍵をさがし、それによって問題解決を遂行することにかけられた異常な情熱を思うばかりである。

 科学の創造への着想が、批判や懐疑からおこる場合はめずらしくない。ガリレオの落体の法則の発見はその例である。また、ニュートンの光の分散に関する法則の発見もその例である。

 プリズムによる光の分散の現象については、ニュートン以前にもさまざまな説明があった。アリストテレスは、光と闇との比率の差が色のちがいをもたらすという説を唱えたが、それがニュートンの時代まで幅をきかせていた。ケプラーまでが、これを自分の著書に記している。

 プリズムによる光の分散について、アントニオ=デ=ドミニは、最小の厚さ、すなわち最小の暗さの角度でプリズムを透過した光が赤であり、それより暗い角度で透過した光は緑、最大の暗さの角度で透過した光は紫であると説明する。また、マルクス=マルチは、プリズムにおいて色と屈折との関係を観察していながら、おかしなことを考えた。太陽のちがう部分からでた光は、プリズムに入射する角度がちがうために、ちがった色になると説明するのである。これらの説はどれも、根本をアリストテレスに学んでいるがゆえに、古代ギリシアの権威をおかすものではなかった。

 ニュートンは読者諸君がご承知のとおりの説明をした。ニュートンの着想が、アリストテレス以来の説に対する懐疑ないし批判を動機とすることは明らかである。

 エジソンのような発明家の着想が懐疑から出発することは、まずないといってよいだろう。しかし、それが批判から出発することはある。白熱電灯の発明が、アーク灯にむけた批判を動機としているのがよい例である。

 このように、着想の第一段階である問題意識への動機を想像してみると、ガリレオの慣性の法則の創造、アインシュタインの〝同時性〟に対する分析、ニュートンの万有引力の法則の創造などの場合、その動機の純粋さは驚くばかりである。ニュートンはリンゴのおちるのを見て、その木が月にあったなら、リンゴはどこにおちるかという問題をたてたといわれる。この種の着想における問題意識は、人類が神が定めた自然のからくりを解明しようとする、やむにやまれぬ情熱から発したものとしか、説明のしようがないであろう。このように、ある人が意識したからこそ、そこに問題があったというような、そういう問題意識が、科学の分野の創造者にはまれとはいえないのである。

 創造においては、何よりもまず着想がなければならない。問題の意識と、その問題を解決するための方法とがなくては、話ははじまるはずがない。その上、その方法による問題解決の意欲があり、これを強行するのでなければ、創造はありえない。

 その一連の過程が、創造と名のつくものになるための条件は、その問題が新規なものであることである。

 創造のいくつかの段階のうち、実現の過程は、科学の場合には完全に論理の上になければならない。そこでは、論理のみが思惟の法則なのである。

 ニュートンは、質量や運動量などの物理量を規定することによって、力学的諸関係を数学式であらわすことに成功した。いったんこうなれば、その式をどんなに変形しても、数学の約束が守られているかぎり、その論理性は保証される。ニュートンはこの方法によって、自分の創造にかかる万有引力の法則から、ケプラーの三法則が導かれることを証明した。ニュートン以来、自然科学の創造において、とくにその実現の段階において、数学が最大の武器となった。アインシュタインがその相対性理論を完成するにあたって、数学者であるその師ミンコフスキーの協力をえて論理の展開をはかったことは有名である。

 エジソンの発明のような創造の実現段階においては、論理よりも実験観察が先行する。たとえば、電灯のフィラメントをつくるにあたっては、ある材料がその目的にかなうかどうかを調べなければならない。ある有機質の性質が完全にわかっていたならば、それが炭化したときの強さも理論的に求められるであろう。しかし、そこまでたちいらなくても、実際に炭化してみてその強さを調べることは可能であり、しかもごく手軽である。こうして、遂行の過程の確かさを、論理によらずに実験観察によって求めることもありうるのである。

 しかし、ここにのべたような考え方は、あくまでガリレオやニュートン以後のものであって、それ以前のものではない。たとえば古代ギリシアの賢者は、何かの問題をとらえれば、それについて勝手な考えをめぐらして学説を創造することができた。自然の真理は思弁によって把握できるものと、だれもが思っていたのである。

 ガリレオよりややおくれてあらわれたマルクス=マルチは、色と屈折性とのあいだの関係をみとめながらも、なお、光の色のちがいを光の濃度の差によるものとした。この場合、前提と結論とのあいだが厳密な論理で結ばれていないのである。

 文豪ゲーテは、ニュートンの理論を攻撃して独自の色彩論を展開した。これは大まじめな長広舌であるが、数学もなく実験もなく、その論旨は噴飯ものである。芸術の偉大な創造者も、自然科学の領域では一文の価値もなかった。芸術における創造と自然科学における創造とがまったく異質のものであることを、これほど明白に示す事実はないのではあるまいか。

 事物現象をありのままに見よという要請は、理科学習における金科玉条のようになっている。それは自然科学の最大の指針であるかのように見える場合がある。自然科学の創造においても、事物現象をありのままに見ることは、それほどたいせつであろうか。

 サルトルは、微生物は肉眼で見えないがゆえに存在しないと主張したことがある。なるほど、手の指を肉眼でありのままに見たとき、そこにはどんな細菌も存在しない。そういうことなら、食事の前に手を洗うことには、さほど重要な意義はみとめられない。ありのままに見た世界には、微生物もなく、分子もなく、原子も原子核もない。とすれば、事物現象をありのままに見ることは、実存主義哲学の立場ではあっても、自然科学の立場ではないように見える。

 軽い紙片が重い石ころよりも小さな速度でおちることを、ガリレオはありのままに見ようとはしなかった。八幡の竹をむし焼きにしたフィラメントが、ほかのフィラメントよりも長もちすることを、エジソンはありのままに見た。

 事物現象をありのままに見ることは、自然科学において戒律的な意味をもっている。それはすなわち、事物現象をゆがめてはならないということである。ピサの斜塔からおちた同じ大きさの木の球と石の球が同時に地面についたのを見ていながら、そうなったのは悪魔のしわざだというような見方をするのはいけないということである。

 創造という名の過程はいたって積極的な性格のものである。したがって、その着想は、戒律のような消極的なものからは生まれにくい。天馬空をいくような自由な頭から、批判的ないし懐疑的な頭から、つめたい論理的な頭から、あるいはインスピレーションから、創造の着想は生まれるのであろう。そして、創造の実現の過程において、論理や実験観察がものをいい、とくにその後者のなかで、事物現象をゆがめてはならぬという戒律が必要になるのであろう。

 自然科学の探究を志す者にとって、創造への着想はつねに重要なものである。

 湯川秀樹は、電荷をもつ陽子と、電荷をもたない中性子とがより集まって原子核を構成するためには、この二種の粒子を結合させる力がなければならないと考えた。そして、この未知の力を生みだす媒体として、第三の粒子を仮定した。これが中間子の着想である。この着想が冷静な論理の産物であることは、いうまでもあるまい。この創造の実現にあたって、湯川は、実験観察には目もくれずに、論理の道をとった。そして、その論理を数学に代行させた。中間子の数量的諸属性は、数学が教えてくれたものである。

 電流が磁気をつくることを知ったファラデーは、逆に、磁気から電流がつくれるだろうと考えた。この着想は弁証法的な論理の産物といえるであろう。自然の秘密をかぎつける独特な感覚の持ち主といわれるファラデーでさえも、論理によって着想しているのである。自然科学における論理の役割りは、いくら大きく評価しても、しすぎることはない。

 創造は人類にのみあたえられた偉大なる特権であり喜びである。創造の喜びを人間最高の喜びとして、それに全生命を投入した人がいるのは当然である。そういう人のなかに、ガリレオも、ニュートンも、アインシュタインも、ゲーテも、ベートーベンもいた。創造の偉人は無数にいたのである。

 創造の喜びはもともとすべての人間にゆるされたものである。それはつまり、すべての人間に、着想の道がひらかれ、創造を実現する能力があたえられているということである。したがって、微細に検討すれば、私たちの毎日の生活に、何かしらの創造がある。ただそのスケールが大きいか小さいか、その喜びがその人だけのものであるか人類全体のものであるかというような差異があるだけのことである。

 人間の創造はまことに多種多様である。発明発見をはじめとして、詩歌、小説、戯曲、絵画、彫刻、音楽などの創作、建築物、庭園、衣装などのデザイン、生花や料理などにおける工夫、教育上の創案、碁将棋の新手にいたるまで、創造の種目は無限にひろがっている。

 人間以下の諸動物では、一定の刺激に対応して一定の興奮をおこすことを脳の活動の主要な型としている。新しい条件反射を形成してみたところで、この型に変わりはない。その行動のすべては反射のわくにおさめられる。これでは頭の働きの自由さというものがない。それゆえにこそ、人間以下の諸動物に創造がないのである。人類は動物分類学上の一つの種と見ることができるであろう。しかしそれは、たとえばレグホンとよばれるニワトリの種のような一色のものではない。すべての個体がそれぞれに、他と異なる行動上の特性をもっている。これを創造のメカニズムの所産と見ることはむしろ自然であろう。そして、これこそが人類という名の動物の種の特殊性なのである。

 人類は進化の頂点にいて、創造のメカニズムをもつがゆえに、個体ごとに一代限りの進化をおこなう動物であるかのように、私には思える。それだからこそ、みずからを天才とする人物があらわれ、教育によって英才をしたてることができる、と私は考える。

理科の学習 一九六四年八月

13 自然の把握における段階

 自然の把握は、個人においても社会においても重要な課題である。だが、どちらのばあいにも、把握の過程があり、歴史がある。

 個人にとっての自然把握は、自然界の像を大脳に投影することにあたる。その像はあくまで像であって、自然そのものではない。像は大脳における実在ではあるが、認識の対象となる実在ではない。

 大脳における実在、すなわち自然界の像を、自然界の実在そのものと一致させることは不可能である。完全な一致は、自然界をそのまま頭の中にもちこむことでしかありえないからである。

 個人の大脳の中で、自然界の像は、どのように形成され、どのように発達するものであろうか。この発達が、段階的に、つまり不連続的におこなわれるとするのが発達段階説であるとみるとき、それぞれの段階は、大脳発達のどんな段階に対応するのであろうか。

 いわゆる発達段階説は、このような対応を問題にせずに発達してきた。現在でもまだ、大脳についての知識は、それを対応させるところまで進んではいない。そうかといって、その対応関係が確かめられるまで、発達段階説が真理であるかどうかを気にかけずに信用していることは乱暴ではないだろうか。進歩的であるはずの科学教育研究協議会でさえが、《順次性》とよぶ新しい概念を発達段階説の上にうちたてつつある現状は、手ばなしでは見ていられない。

 発達段階説が現代的な裏づけなしに独り歩きするありさまは、糸の切れたタコに似ているのではあるまいか。

一 自然認識の構造

 この発達段階説は長年の間、お化けのように筆者をさいなみつづけてきた。その問題について、どのように考えてよいかさえ、とらえることができずにいるありさまである。それは筆者が、この分野にふつうに見られる解釈学的方法に、批判的であることの当然の結果にすぎないかもしれない。

 しかし、水かけ論をしている間にも、現実に数千万人の子どもの精神は発達をつづけている。子どもの幸福を思えば、この糸の切れたタコには、一日も早く糸をつけなければなるまい。

 試みにここで、個人の自然の把握の順序を逆にたどってみることにしよう。

 そうなると、まず、自然界の像を完成した人を仮定しなければならなくなる。その人はいわば、自然の縮図をその大脳におさめた人である。この縮図には、ミチューリンの業蹟も、宇宙の歴史も、原子炉の原理も、ナイロンの製法も、およそ現在の自然科学のおもな要素がすべてはいっていなければならない。

 これらの要素に共通なことは、そのどれもが、視覚のつくりあげた像ではないことである。むろん、ミチューリンの顔、アンドロメダ座の星雲の形、原子炉の模式図、鎖式化合物の構造式などは、視覚をとおして、像に形成されたことであろう。だが、このばあいだいじなのは、これらの視覚による像ではなく、思考によって形成された像だということである。

 視覚をふくめて、いろいろな感覚によって形成された像を自然認識の《下部構造》とすれば、思考によって形成された像は、自然認識の《上部構造》といえるであろう。

 このように規定した、自然認識の下部構造は、自然界の事実が直接に感覚器を刺激した結果、大脳細胞にあたえられた記銘もしくはその集合である。また、その上部構造の特性は、その像と対応すべき事物を、なまの自然界に見い出すことのできない点である。

 自然界の像が、上下二部の構造にわかれていようといまいと、ここにいう意味で自然界の像を完成することは、個人にとって不可能に近い。そのことはそのまま、一般の成人において、自然界の像は完全なものではないこと、また、それと同時に、完成の方向にむかって発達しうるものであることを示している。自然の把握という面での個人の発達は、その人の一生の活動的な部分をつうじて常にありうると結論しなければなるまい。

二 下部構造の形成

 このような、自然認識の上部構造の発達は、下部構造の発達とかならずしも平行しない。湯川秀樹の中間子の予言は、理論の基礎となる事実をにぎってのことではあったが、事実だけのつみかさねの上にたっての結論ではなかった。それはつまり、比較的に貧弱な下部構造の上に上部構造を発達させたばあいの例といえるであろう。その後のアンダーソンの中間子の発見は、湯川の下部構造の穴をうめたかもしれないが、上部構造を(自動的に)発達させたわけではなかった。

 もう一つの極端な例として、感覚が成立したばかりの乳児をとってみよう。この乳児からみた自然界の事物が何であったにせよ、やがてその像が形成される。その像はまだ、自然界の像といわずにおくほうがぶじだという考えかたもあるであろうが、ここでは、それを自然界の像とみることにしよう。その乳児にとって、そのものは自然界のすべてでありうるからである。

 とにかく、感覚をはたらかせた最初の機会に形成される像は、おそらく、たった一つの自然の事物に対応する。しかしやがて、つぎつぎにほかの事物の像が形成されていく。

 第一の像が、乳房の触覚によるものであり、第二の像が乳の味覚によるものであり、第三の像が母親の声であると考えてみるとしよう。これは、筆者のこの場の思いつきにすぎないが、生まれたての乳児にとっての自然界が、乳房や乳を中心とするものと想像するのは、いちじるしい的はずれとはならないであろう。

 もしこの想像が正しかったとすれば、第一の像と、第二、第三の像との間には深い関係があるわけで、その間には何かの形の結合ができるにちがいない。
 これらの像はどれも、一対一で自然界の事物に対応するから、前の規定によれば、すべては自然認識の下部構造に属する。

三 自然像の融合と分離

 生まれたての乳児には、自然界の像の下部構造だけが発達し、何年かののちに、その上部構造が発達すると考えるとき、個人の歴史のある時期に、下部構造から上部構造への転位のあることが推定できる。この転位を、自然の把握法の発展とみるとき、これを発達の段階の一つとすることができるのではなかろうか。かりに、自然認識の下部構造だけが存在する時期を《一層段階》とよび、上部構造がそれに加わって存在する時期を《二層段階》とよぶことにしよう。
 一層段階のいちばん最初の段階で、自然界の像が乳房を中心にしようとしまいと、像と外界との一対一の対応は複雑化の過程をたどろうとする。それはたとえば、乳房の触覚像と視覚像とが融合して、より完成に近い乳房の像をつくるということである。この例で、乳房の触覚と触覚像とが、文字どおりの一対一の対応をもっているのに対して、融合像は、触覚にも視覚にも対応する。その像は、触覚の像であり視覚の像である点で、単一の感覚をとおしての実在より複雑である。このようにして、大脳につくられる像は、蓄音機の音波像や、天然色写真の色彩像より複雑な性質をおびたものとなる。
 一層段階の初期の子どもは、自然界からの新しい刺激をうけとるたびに、その実在と対応する像をつくり、すでに用意されている像との融合をはかる。この時期をかりに《融合期》と名づけておこう。融合期は一層段階の前期にあたる。
 このように、融合期の子どもの大脳の中で、自然界の事物に対応する像は、数がふえていくばかりでなく、その一つ一つが雪だるま式にふとっていく。この過程は、何もこの時期に限ったことでなく、個人の一生の活動的部分をつうじておこなわれる。
 融合期に形成された自然界の像は、豊富であるかもしれないが、無秩序である。この無秩序を処理する過程がこれにつづく。これを《分離》とよぶことにしよう。
 分離とは、自然界の個々の事物の像を分類することをさしている。「太郎君の家」「花子さんの家」「わたしの家」は、融合期においては完全に個々別々の存在である。その像はそれぞれに融合しているではあろうが、まだ「家」としてのカテゴリー(範疇)はつくられていない。分離とは、このようなカテゴリーをつくることをさしている。
 カテゴリーの形成のためには、共通点を抽象する操作が必要である。したがって、分離することは抽象することだといってよい。この点は、融合に見られなかったところである。
 融合が個人の一生をつうじておこるのと同じく、分離もまた個人の一生をつうじておこると見てよい。しかし、分離によって特徴づけられる時期をとくに《分離期》と名づけることは、少なくとも発達段階を論じるうえでの手がかりとして、意義のあることであろう。
 小さな子どもは、たとえば、ある虫をさして、「これは何か」とたずねる。このとき、「虫だよ」との答えに満足しないで、「何という虫か」と、たたみかけるのがふつうである。このように、「何か」を問題にする時期は、すでに、分離期にはいっているものと見てよいであろう。虫のカテゴリーは、あらかじめ用意されていて、その内容の充実をはかるために、未知の虫の名をたずねたものと解釈できるからである。

四 アニミズム段階

 幼児の精神の発達を論じる人は、よくアニミズムの存在する段階をとりあげる。このアニミズム段階は、これまでに仮定してきた時期のどれに相当するのであろうか。

 筆者の経験によると、つい一年ほど前までアニミズム段階にいて、「雲は生きている」といっていた幼児に、あらためて、「雲は生きているか」とたずねたところ、意外のおももちでそれを否定した。その子はじぶんの過去を全くわすれていたのである。筆者がその過程を説明したところ、その子は小さな子をつかまえて同じ質問を試み、「雲は生きている」と聞いてびっくりしていた。

 この例から想像されることは、雲が動いている――動くものは生きている――ゆえに雲は生きている――という三段論法的判断が、幼児の頭でおこなわれたのではあるまいかということである。一たん、「動くものは生きている」という命題が消え去れば、この種の判断は完全にできなくなると筆者は考える。そのときこの子は、アニミズム段階をすぎたと判定されることになる。

 もし、アニミズム段階の子どもの大脳に、「生物」のカテゴリーができていたとしたら、その子は分離期にいることになる。しかし、「動くものは生きている」という命題をもっていることと、「生きているもの」に対してのカテゴリーをもっていることとは全くちがう。分離期において一たび形成されたカテゴリーは、その後の自然界の像の発展の土台となるものであって、にわかにくずれ去る性質のものとは考えにくい。

 このように考えるとき、アニミズム段階は融合期に属すると結論しなければならなくなる。しかし、アニミズム段階が融合期に属することと、アニミズム段階が融合期に一致することとはちがう。この二つの関係はどうなのであろうか。

 この二つの関係については、正しい意味での「生物」のカテゴリーの形成が、「動くものは生きている」という命題をおしつぶしたと考えたい。

 このような考えにしたがえば、アニミズム段階の終わる時期と、融合期の終わる時期とは一致することになる。しかし、この二つが始まる時期が互いに一致すると考えることにはむりがある。結局、アニミズム段階と融合期とが完全にかさなるとは考えにくい。そうかといって、融合期をアニミズム段階と、それの前の段階との二つにわける理由はとぼしい。というのは、自然界の像のありうべき形式からみて、アニミズム段階が不連続な変化としてあらわれるとは考えにくいからである。結局、アニミズム段階を融合期の中に解消して、アニミズムのあらわれを、融合期後期の特性とみるのが自然であろう。

五 自然像の発展

 人の大脳を大地にたとえ、そこにできた外界の事物の像を草木にたとえることにしてみよう。自然界の新しい事物に接するごとに、この大地の草木はふえていく。この草木の特徴は、同じ種のものがない点である。

 その接する事物が新しくないときには、それに対応する草木が、生長するばあいもあるし、そのままでいることもある。生長するのは、古い事物の中に新しい事実を発見したときに限る。発見がなければ、大脳の大地の草木はいつまでも生長しない。

 ただし、視覚のつくりあげた木が生長するのは、視覚によって新しい事実を発見したばあいである。もしそれと同じ対象について、触覚とか聴覚とかの、視覚とちがった感覚による新しい事実の発見があれば、その木は、たとえば、花をつけるような質的な変化をおこして完成に一歩を近づける。このように、自然界の大脳に投影された像は、五感のすべての助けをかりて完成への道をたどる。異質の感覚による像を総合する過程を、ここでは融合とよんできたのであった。融合期の特性は、これらの像、すなわち一本一本の草木が、それぞれ無関係に完成にむかうことである。

 このようにして、大脳の大地に雑多な草木がはえそろうと、その中に、大きく見て、似よりのものができてくる。そこに、植物分類のような手つづきの操作がおこなわれる段階がくる。この変化は、弁証法のいわゆる、量から質への変化として解釈することができるであろう。

 大脳の大地にはえた草木の分類の手つづきは、植物学における分類のばあいと少しちがう。ここでの分類では、似よりのものどうしをまとめるように植えかえて、たとえば、この区画には単子葉植物、この区画には双子葉植物と、種類べつに整理する。

 実際の植物分類で手こずるのと同じようなわけで、このばあいにも、どちらの区画にいれるべきかにまよう草木がつぎつぎにでてくる。その処理の過程において、分類がしだいに系統的になり、区画の境界がしだいに明確になる。それと同時に、一つの区画をさらに細分するような変化と、いくつかの区画を大きな一つの区画にまとめるような変化とがおこる。植物分類のことばを借りれば、これは、単子葉植物の中に、イネ科やユリ科の区画をもうけ、単子葉植物と双子葉植物とをまとめて被子植物の区画をもうけるようなことに相当する。このような、区画の細分や総合には、植えかえの操作もともなうとみてよいであろう。

 自然界の像のそれぞれにも、カテゴリーのそれぞれにも、それぞれの特有な言語がついているはずである。したがって、分離期では、分離がおこなわれるたびごとに、そのカテゴリーに対応する言語が形成される。その結果、自然について、より正確に語ることができるようになる。

六 上部構造の形成

 このように、自然の把握の方式を、精神の発達にしたがって分類してみると、はじめに一層段階があって、これが融合期と分離期とにわかれ、そのあとに二層段階がつづくことになる。この二層段階は、どのように始まり、どのように発展するものであろうか。
 まず、二層段階が始まるころに、一層段階はかなり深まっているはずである。すなわち、自然認識の下部構造は、かなり発達をとげた状態にあるはずである。しかし、ここにできた像は、どちらかといえば、各個ばらばらである。カテゴリーによって整理されてはいても、そのカテゴリーの内容となるいくつかの像は、互いに統一されているということはない。いくつかのカテゴリーの間の関係も、とくに統一的ではない。これらが統一への動きをとるとき、自然認識の上部構造の形成が始まる。
 子どもはよく、自然界の事物について、「なぜか」という形の疑問をいだく。この疑問は、かならずしもその事物の理論的説明をもとめてはいないが、理論への方向へむかっているとみるのが正しいであろう。このような説明の本質は、それまで互いに無関係であった像を結びつけるところにある。このような結合は、下部構造だけではできにくい。すなわち、下部構造にばらまかれている像のいくつかを結合させるだけでは、像の統一はできにくい。

「ラジオはどうして聞こえるか」という疑問に対して、説明として成立するような答えをあたえるとすれば、どんな形をとるにしても、「電波」の概念がはいってこないわけにはいかないであろう。この「電波」の概念は、下部構造に用意されている、「波」に対するカテゴリーにふくまれる像の一つであるはずである。しかし実際には、「電波」が五感にうったえる実在でないために、その像は下部構造に存在しえない。この「電波」のような性質の像のあり場所を上部構造と考える。

 このばあい、「電波」に対しては、像ということばより、概念ということばのほうが似つかわしいかもしれない。しかし広い意味では、これを自然界の像とみておくほうがつごうがよい。もしこれを区別するならば、下部構造にある像を《実像》と名づけ、上部構造にある像を《虚像》と名づけたらよいであろう。いずれにしても、一般に概念とよばれるものには、自然界に関するものであってもなくても、上部構造に存在するものがある。

「電波」の例で明らかなとおり、上部構造にふくまれる自然界の像は、下部構造のカテゴリーと結合している。ことばを変えれば、自然界の事物現象の概念は、すべて、五感をつうじて知覚される自然界の実在のいくつかとつながっているのがふつうである。

 自然現象の説明は、自然界に通用する法則によっておこなわれるのが原則である。それは、自然の法則が、自然現象の説明のために形成されてきた歴史から明らかである。ところが、このような法則は、すべて、概念の間の関係としてとらえられている。

 自然に関する概念には、上部構造に属するものもあるが、下部構造に属するものもある。下部構造に属する概念は、そこにある自然界の実像に対するカテゴリーの一つ一つについている。したがって、下部構造に属する概念は、分離期にあろうとあるまいと、分離がおこるたびに形成されていく。

 自然の法則は、一般に、下部構造の概念だけでは構成できない。したがって、一層段階においては、「なぜか」の疑問ができても、完全な説明をうけいれることができないばかりでなく、上部構造の概念を利用しないような不完全な説明でたやすく満足する。もし、このようなばあいに満足しないことが確かめられれば、その子どもはすでに二層段階にふみこんでいると判断してよい。また、不完全な説明に満足するとしても、「なぜか」の疑問をもつ傾向は、上部構造形成への意欲のあらわれと判断してよい。

七 自然観の形成

 自然界の事物現象のありのままの像を大脳に用意しておくことは、《自然観》を用意していることになる。この自然観の形成は、とくに積極的に、自然の利用や研究をくわだてるばあいでなくても、人生を豊かにし、健全な世界観をきずくうえに、かけがえのない意義をもつものといえる。このことなしには、理科教育の意義も考えにくい。しかし、自然観の形成は、自然界の最初の像をつくったとたんに始まる。

 自然界の認識の構造に、一層と二層の二つの段階があることに対応して、自然観にも二つの型がある。一つは《一層型自然観》、一つは《二層型自然観》である。一層段階から二層段階への転位は、小学校卒業ごろまでには完了するのがふつうと考えてよいであろうが、そうだとすれば、一般の成人において、自然観に二つの種類があるとすることは矛盾のように聞こえるであろう。しかし、いくら義務教育の課程で自然認識の上部構造が一応完成らしい形をとるはずになっているといったところで、せっかくの構造も、それが不断に活動をつづけるのでなければ、実質的に崩壊のほかはない。そのようなばあい、その自然観が一層型に逆もどりするのは当然である。

 自然界の事物が、ある個人の大脳に問題となって登場したとき、一層型自然観では、実在と像との対照がおこなわれるにとどまる。しかし、二層型自然観では、対照がおこなわれるばあいもあり、対照なしにそれと関係した概念の動員がおこなわれるばあいもある。前者は多分に観察的であり、後者は多分に思考的である。一層型自然観は観察的であり、二層型自然観は思考的であるといえる。また一層型自然観は《なに型》であり、二層型自然観は《なぜ型》であるといえる。

 自然観というものを、自然界の事物現象をうけとめる機構と考えるとき、その事物現象を魚にたとえれば、自然観を網のようなものにたとえることができる。このたとえをさらに進めれば、二層型自然観は定置網のようなものと考えることができる。定置網には、重りと浮きとが必要であるが、その重りは、自然界の実在と一対一で対応する上部構造に属する像であり、浮きは、それらを適当に関係づけたカテゴリーである。このようなたとえは、一層型自然観の構造を「点の集合」とみるところから出発している。

 一層型自然観が自然界の事物現象をとらえることができると考えると、魚をとらえるための機構として、その重りと浮きとに釣針のようなものをつけなければならなくなる。したがって、一層型自然観では、登場する事物現象が、重りか浮きかどちらかの場にはいってきたときに限って、これはとらえられる可能性があることになる。

 二層型自然観の機構はこれとちがって、重りと浮きとに支えられた広範な網である。網であるからには、それは、多くの綱と結節点とによって構成されている。その結節点は、上部構造における概念、すなわち自然界の事物の虚像に相当する。

 この自然観の網は、実際の網とちがって、それぞれの結節点からでる綱の数が一定でない。あるものはとなりの結節点はむろんのこと、遠くの結節点や重りや浮きにまで綱をのばしている。あるものは、となりの一つの結節点にしかつながっていない。

 このような網は魚をとらえるにはきわめて効果的である。この漁場にきた魚はすべて、とらえられないまでも、網を励起する。このようなたとえをもちだすまでもなく、二層型自然観は一層型自然観の上位にある。この二層型

 自然観が、現実の生活のあらゆる場面で要求されているという実感をもつことは必要であるが、その実感は、二層型自然観をもたない限りあらわれにくい。

 自然観の定置網は、物理学の分野に、化学の分野に、生物学の分野にと、さまざまな自然界の分野にくりひろげることができる。また、それらの分野の境界領域をつなぐこともできる。自然界のすべての分野をこれがおおいつくすとき、二層型自然観は一応完成したといえる。そのとき、その人は科学の方法を身につけたことになり、生活のあらゆる場面で合理的な処理ができるようになるはずである。

 科学者とよばれる人のうちにも、一層型自然観をもつ例があり、二層型自然観をもってはいても、それが特定のせまい分野に限られる例があることは注意すべき点である。

八 発達段階と学習指導

 理科教育に限らず、いろいろな教科において、「発達段階にそくした指導」ということがよくいわれる。このようなとき、発達段階とは、単に《発達程度》の意味しかもたないばあいが多い。その限りにおいて、いわゆる発達段階は、量としてとらえられるものであって、質としてとらえられるものではないことになる。したがって、いわゆる発達段階の低い状態に対しては、程度の低い教材をあたえるべきであり、程度の高い教材は消化に骨がおれて、長い時間をかけなければならないために能率的でないという種類の判断がおこなわれることになる。しかも、それに対してだれも疑問をいだかない。

 筆者はこれに対して、質的な特性によって規定できる段階こそが、発達段階のよび名にふさわしいとの見解をとりたい。その立場に立たなければ、ある教材がある段階に適するかどうかの判定を論じる道はひらけない。ところが、筆者の見解をとれば、学習指導の技術は、教材の選択と、段階の転位の促進と、特定の段階の中での量的発展との三つに目標をしぼることができる。発達段階の転位が、量から質への変化であるとみるとき、転位の時期はあらかじめ定まったものでなく、動かせるものと考えるのが正しいであろう。

 人間は生まれるやいなや、一層段階融合期にはいる。この段階では、すべての自然界の事物に対して《驚き》が示される。これは、その事物に対応する像が用意されていないことの当然の反応である。融合期には像が形成されなければならないとばかり考えて、とくに次々と新しい事物を見せる必要はないであろう。それらは、やがて、自然に目の前にでてくるはずのものであり、自然にあたえられた環境の外からわざわざもってきた事物は、子どもの自然界にとっては異物にすぎないからである。

 融合期の指導で重要なことは、むしろ、融合像の形成を助けることであろう。ミルクの湯げの視覚像ができているなら、湯げの温覚像や、湯げのでるミルクをいれたコップの圧覚像、温覚像をつくって、それをすでにできている像と融合させることである。幼児がやたらに物に手をだしたり、物を口にいれたりする傾向は、融合像の完成のための手段として理解されるべきであろう。

 この方向の指導は、融合期の子どもに対して実行されなければならないばかりでなく、すべての発達段階をつうじて、機会あるごとに実行されなければならない。《驚き》は科学の起点であり終点であるといえるであろう。驚きの指導のためには、指導者の側にも、驚きを失わない態勢が必要である。

 次の分離期にはいれば、カテゴリーの形成が始まる。そこで、比較のための観察が指導される順序となる。比較のための観察では、二つの事物の間の共通点をもとめる過程と、相違点をもとめる過程とが要求される。したがって、分離期の指導目標としては、「比較する能力」「共通点をもとめる能力」「相違点をもとめる能力」などがかかげられなければならない。

 これらの態度、能力は、カテゴリー形成の基礎とはなるが、これさえあればカテゴリーが自動的に形成されるということにはならない。そこで、現場の指導では、たとえば、五枚の花弁をもついろいろな花を集めるというような学習活動を予想することになる。

 野外の植物観察を例にとると、分離期の指導の特性は、明らかな形で示すことができる。野外観察の機会があたえられると、一層段階の子どもは個々の植物の名を知りたがる。しかし、この場面で、植物名を教えたり調べさせたりすることは、分離期に最もふさわしい指導とはいえない。むしろ、いくつかの典型的植物を定めておいて、それとの比較を指導して、植物名にこだわらない分類にみちびく方法が、分離期にふさわしい。この方法ならば、指導者は物しりである必要がないばかりか、子どもは物しりに権威をみとめる方向へ進まずにすむ。しかも、カテゴリー形成の能力が高まり、自然認識の下部構造の充実の道を着実に歩くことになる。むろん、この場合の植物分類は、分類学と一致することを必ずしも必要としない。

 像ごとに、また、カテゴリーごとに言語があると考えるとき、分離期には、より的確な表現への発展が期待されてよいはずである。したがって、自然界について語ることについての適切な指導もなければならない。

 融合期から分離期への転位は、すべての人に自動的におこる。それは、言語生活からの圧力によるものと考えるべきかもしれない。とにかく、「比較する態度」の指導によって、この転位を促進することはできるであろう。

 一層段階から二層段階への転位も自動的におこる傾向をもってはいるが、それは、なめらかにはいかない。そのために、指導しだいで、転位は早くもおそくもなる。この場面で指導者に要求されることは、指導者自身が、自然認識の上部構造をかなり高度な形で用意していることである。そのような指導者ならば、「なぜか」の疑問と取り組むことが指導できるからである。疑問をはぐらかすことは、二層段階への転位の動きに対しては致命的といってよいであろう。一般家庭人が、とかく、この時期のよき指導者でありえないのは、その自然認識の上部構造が貧弱なことの結果である。

 上部構造形成のむずかしさは、それが、おもに問題解決の過程によっておこなわれることにある。上部構造に属する概念による問題解決は、たとえ指導があったとしても、一般には大きな努力のいる過程である。したがって、そこには大きな飛躍が要求される。そのために、飛躍をさけて、下部構造の充実をつづける場合がめずらしくない。その方向へのいきすぎがおこると、知識の量や事物の比較に特別すぐれた人ができあがることがある。比較にすぐれた人は、学者としては古典的分類学にむくし、家庭の主婦としては八百屋や魚屋の買物にむく。

 二層段階への飛躍は、自然観を完成するうえの必要条件である。

 自然観が完成したとき、それは自然界の全領域をおおわなければならない。しかし、植物とか動物とか機械とかの教材を、それぞれの所属の分野の中で処理する方法で、理科の学習指導をおこなうとすれば、上部構造は、それぞれの分野の中で個々別々に形成されることになって、自然をとらえる網は、あちこちに大きなすきまをあけていることになる。理科の目標を、完全な自然観の形成におくならば、初めからそれに応じる計画がなければならない。そのためには、自然界の全領域を結ぶ綱を最初から用意するのが当然である。この綱として最も効果的なものは、物理学と化学の綱である。生理学の分野の事物現象にも、地学の分野の事物現象にも、物理学的な要素、または化学的な要素を見い出すことによって、自然観の網をつくる綱は、遠くの結節点までのびていく。

 自然観の形成のために指導者のするべき仕事は、ある分野の教材の中に、ほかの分野の概念を発見することである。しかし、このようなことができるためには、まず指導者の自然観が一応完成に近いすがたにならなければならない。自然の把握にどんな段階があろうと、理科教師に要求されるものは、あくまでも、完全な自然観である。それがなければ、指導される子どもの二層段階への発展は保証されない。

城戸幡太郎先生記念論文集 一九六六年



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