『鶴梁文鈔』巻2 訳

藤田斌卿ひんけいに答える書
斌卿(藤田東湖の別号)殿へ。四月二十九日、相良芳太郎(東湖の門弟)が貴殿のお手紙を届けてきたので、読ませていただいた。その内容は丁寧で、心に染み入るものであった。わたくしは常々ぜひお会いしたいと思っていたが、急にこの書を得て、喜びを禁じえなかった。そして日を選んでお招きに応じようと思い、伺う準備をしようとして、一ヶ月経った時に、寒気で急病が起こった。風に当たるのはよくないというので、まだお会いすることができない。まことに残念である。いま、ようやく病は少し癒えたが、医師は外出を戒めている。そこで一筆認めて教えを請いたいと思う。わたくしが聞くところでは、聖賢はやりすぎることがなかった。しかし万一の時にはそのようなことをする。また弁舌を好まないが、万一の時には弁舌を好んで振るう。中国では周王室が遷都してから、世を欺く邪説がはびこり、詐欺や暴行、父を殺す子、主君を殺す臣下が少なくなかった。孔子はこれを憂えて『春秋』を著し、臣下や子が主君や父に対して反逆することを防いだ。その功績は大きい。しかし春秋は天子のことを述べたものであり、ありふれた平凡な人間を天子に見立てるのは、やりすぎというべきではあるまいか。七国が争っている戦国期になると、さらに異説がいろいろと増えるようになり、秩序も緩みに緩み、聖人の法も衰えるようになった。孟子はこれを憂えて「七篇」を作り、楊子・墨子(いずれも戦国期の思想家)といった異端の徒が天下を横行するのを防いだ。その功績もまた大きい。しかし英邁の気をもって、過激の論を繰り出すのは、弁舌を好むというべきであろう。してみれ ば、孔子・孟子もまた弁舌を好み、やりすぎることもあるのである。とはいえ孔子・孟子がこのような行動を起こさなければ、孔孟の道をなすのには至らないであろう。このような行動を起こしたことが、後世の人々が彼らを仰ぎ尊敬する理由なのである。そしてその世を憂え民をあわれむ心も、また深く厚いのである。それならば、自ら弁舌を好まない、やりすぎることはないと言っているのはなぜか。これはその平生のことを語っているにすぎない。時あたかも道が衰えた乱世であったから、このような激しさがなければ、人々を救うことができなかった。そこでためらうことなくこのような行動をとり、細かなことにはこだわらなかったのである。しかしながら、やりすぎたと言っても、正しい道を損なうことはなかったし、弁舌を好んだと言っても、義を損なうことはなかった。これらが聖賢の臨機応変たり得るゆえんである。我が国は、開闢以来万世一系の天子が綿々と受け継がれて、絶えることがない。かの国の帝王が何度も皇統を変えるのとは、日を同じくして論じるべきものではない。昔は人の気風が純朴で、民も皆義を知っていた。やがて大乱が相次ぎ、群雄が割拠し、民衆が苦しむ世が数百年近く続いた。その中でも立派な人物がいて、死を軽んじ義を重んじ、節操が堅固であったことは、世界中でも卓越している。素晴らしいことではないか。いまや泰平がもたらされて久しく、名君や名宰相が上に立って、広大な事業を興し、秩序が保たれて揺るぐことがない。これは異国の夏・殷・周の全盛期といえども及 ばないであろう。とはいえ、わたくしから見ると、昨今の人士は、節義の風が衰えており、俗悪な学者の説があまりにも行われすぎている。士気の衰微不振は、現在が最もはなはだしいといえよう。これを復活させる方法は、けっして高位にある者のみが携わるのではない。書生が建言し、節義を繰り返し唱え、誠心誠意をもって説くことをやめなかったら、その声はあちこちに響き、人々はしぜんと奮い立って、やがて士気が高まるのである。かつて貞享・元禄の頃には、文章はまだそれほど盛んではなかった。このとき京都には伊藤仁斎・東涯がおり、江戸には荻生徂徠・室鳩巣がおり、皆真っ先に文章について語り、多くの人々を招きよせたので、人々は次々とこれに続いた。そして何年も経たぬうち、文章は中国と良い勝負になるほど盛んとなった。いまに至っていよいよますます優れたものが増えているのは、実に仁斎・徂徠といった人々のおかげである。そもそもこれらの先人たちは、皆下位の儒者にしかすぎなかった。にもかかわらずこれほどの成果を上げているのである。ゆえに、復古の任はけっして上の人にあるのではなく、書生にある、というのである。しかしながら、昨今の書生には、不正に金を儲けたり、うわべを飾り立てたり、王侯に媚を売って、あくどい手段で寵愛を得ようとしたりする者が多い。彼らは荀子が言うところの「儒を盗む者」であろ う。そこにはいわゆる節義などというものはまったく見出せない。そのようなことなので、昨今の書生には一人として復古をもって任とし、そのことを看板として、後進を招こうとする者はいない。そしてそのことを批判すると、孔子はやりすぎることはなかった、孟子は弁舌を好まなかった、孔孟を学ぶ者は過激のことをすべきではないのではないか、という。あぁ、愚かなことではないか。わたくしは長いあいだこのことを嘆いており、身の程知らずなことだが、常に復古の志を持っていた。しかしまだわたくしは学浅く才能も少なく、そのような任には耐えそうもない。聞くところによれば、貴殿のお父上である幽谷先生は、かつて常陸で節義について語られ、常陸の人々は、敬意をもってこれに従っているという。そしてその門下にある会沢恒蔵その他の人々は、その業績は赫々たるものがある。皆お父上の力である。しかしお父上の説は、まだ天下に広がるには至っていない。仁斎・徂徠らと比べると、力は弱いと言わねばならない。高いところから呼ぶと、その声はさほど勢いよく言わなくとも遠いところへ聞こえる、という言葉がある。仁斎・徂徠らは、天下の大都市にあり、お父上は関東の一地方にとどまっているから、このようなことになるのであろうか。いま、貴殿は江戸におられる。家伝の学問を奉じて、復古の任に従事するならば、ことを成すのは難しくはあるまい。しかし貴殿が志しておられることが、果たしてわたくしが述べたとおりのことであるかどうかは、はっきりとはわからない。もし貴殿がわたくしの期待するとおりであったならば、まさに孔孟の徒たるに恥じないといえよう。そうなればわたくしは非才ではあるが、ぜひ貴殿に従って、志を遂げたい。あるいは、貴殿はこう言われるかもしれない。この大業は、無位の者が行うべきことではない、し ばらく身を安泰にして、同調者が現れるのを待とう、と。しかしそれは貴殿にとってはよろしくないとわたくしは思う。わたくしと貴殿とは、一度の面識もない。にもかかわらずみだりに思ったことを言い散らしてしまい、無礼を申し上げ、まことに申し訳ない。しかし貴殿は、以前お手紙をくださり、またご招待し てくださった。わたくしとしては、思うところを述べ尽くしてその意にお答えせざるをえない。幸い貴殿はわたくしの失礼をお許しくださり、わたくしの意をお察しくださり、ありがたくお教えくださった。お礼の申し上げようもない。つつしんでお言葉を待つ。五月二十三日、林長孺再拝。
(東湖と鶴梁はともに文化三年の生まれである。鶴梁は東湖の推挙で旗本格に昇進している)

会沢恒蔵に与える書
十一月三日、林長孺が会沢恒蔵殿に申し上げる。そもそも史書を編纂する目的は、善事を奨励し、悪事を指弾し、上に立つ者に手本を示し、人民の戒めとする ことであり、一日としてその志を欠いてはならない。その昔王室が隆盛であったころは、聖徳太子の『旧事』、舎人親王の『日本書紀』があり、そののちには歴代の勅撰の史書があり、その体裁も文法もまだ完全に整ってはいないが、当時の政治を大雑把ながら知ることができよう。そののち王室は次第に衰え、乱世が続いて、歴史の記録は失われ、記録する人も欠け、史書編纂の掟も、ないがしろにされるかのようであった。東照公が勃興するに及び、国を乱す者たちは次々と滅ぼされ、災いはすっかり払い除かれ、武を止め文を修めるようになり、四海は平穏となった。ここに至って儒者が召し出され、様々な書物が集められたが、まだ史書編纂には至らなかった。それにふさわしい人物が現れるのを待っていたのであろう。ここに水戸光圀公は、識見が遠大で、学識至って深く、大儒を招きよせ、互いに議論を重ねて、ひとつの書を表し、『大日本史』と名付けて、朝廷が注視していた史書編纂を継承したのである。その議論の正確さ、文章の美しさ、網羅された資料の広さ、体裁の整然としたところ、いずれも旧事・書紀の諸書と比べると、明らかに違いがある。すなわち、かつて東照公が待ち望んでいたことが、光圀公によって成されたのである。光圀公の功績はまことに偉大であり、東照公の御霊も、きっと泉下で大いに喜んでおられよう。しかしながら、この書は南北朝合体で終わっており、前半は詳しく、後半は大雑把である。ことわざに言う「仏作って魂入れず」というものではなかろうか。天下の論者たちは、これを残念に思わざるをえない。なぜならば、応仁の大乱から天正の終わりまでの、天下の治乱興亡の跡は少なからず残っているのであるから、これらは記録しないわけにはゆかない。ましてや、東照公が乱世を終わらせ治世をもたらした功業は、かつてない大業であり、後世に範たるべきことであるから、なおさら記録しないわけにはゆかないのである。ゆえに貴藩(水戸藩)の安積覚あさかさとるが『烈祖成績』を著し、大坂の中井積善が『逸史』を著した。しかしこれらは、皆東照公一代のことにとどまっており、公以前のことについては、詳しく記されていない。かつこの二人の書は、編年体であって紀伝体ではなく、『大日本史』とは異なっている。してみれば、これに次ぐ史書編纂の任を負うのは、貴藩をおいて他にはある まい。貴藩が史学をもって天下に知られているというならばなおさらである。大儒碩学の巧みな文筆が、いまもって広く知られているのでは、天下において貴藩の右に出るものはない。そして貴殿はまさにそのさきがけとなるであろう。聞くところによると、貴殿はいま史館総裁の職にあるというが、してみれば史書編纂の任は、貴殿がもっとも重いのであろう。貴殿はきっと日夜懸命に励み、率先して働いておられるから、早くその功をあげるであろう。そうなれば東照公と光圀公との意志を継ぐのみならず、天下の論者たちの不満をも晴らし得るであろう。あぁ、貴殿のような才能の士が、史書編纂の重任に当たっても、いたずらに歳月が過ぎるばかりで、いまもって成功しない。わたくしは、貴殿が怠慢のそしりを免れないのではないかと恐れる。昔、唐の韓愈は史館にあったが史書を著さず、柳宗元は彼に書を送って責め、天下では後々まで公論と呼ばれた。わたくしはまだ貴殿とよしみを結んではいないが、いま宗元の例にならって、一通の書簡を送って、一言申し上げたい。たまたま、貴藩の菊池十全が訪ねてきたので、書をことづけようと思う。もしわたくしの言葉が不当であったら、ぜひお教えいただければ幸甚である。草々。失礼申し上げる。

佐藤隆岷伝
佐藤隆岷 りゅうみん は会津の人である。名は惟清、号は活菴 かつあん、また谷神斎とも号し、隆岷はその通称である。若くして大志を抱いており、また人の悪口を言うのがうまかった。彼は天下に名を成したいと望んでおり、初めて故郷を発ったとき、葵紋の服を着るようにならなければ、生きては帰らないと誓った。葵紋は幕府の紋章である。江戸にやってくると、ある旧友を頼った。彼は商人で、もっぱら勘定を事としていた。隆岷はこれを見て、ののしって立ち去った。しかし決まった住居がなく、在野の浪人として貴人や風雅の士の客分となった。読書を好み、易・論語・老子・荘子・傷寒論・古今和歌集などをそらんじ、もっとも医術をよくした。その術は自得したものであったが、口の悪いところが災いして世に受け入れられず、わずかに按摩を業として生計を立てていた。このとき、潮留橋に酒店があり、鰻の焼き物で知られていた。夕方になると客が三人来て、必ず鰻一皿食べ、 酒一杯飲むのであった。このようなことが何年も続き、一度として止まったことはなかった。主人が不思議がって尋ねたところ、彼らは皆「我々は志をもって いるのだが、成りそうにない。それゆえここで憂さを晴らしているのだ」といった。その二人は行商、一人は隆岷その人であった。それからしばらくたって、隆岷は芝浜に家を一軒借りた。家賃を払うと、家主はさらに酒代を求めた。隆岷がそれに応じないと、家主は嫌味を言った。隆岷は激怒して彼をののしり、刀を抜いて斬ろうとした。たまたまある一人の侠客が通りかかり、その様子を見て仲裁に入り、隆岷を家に連れ帰って、盛大にもてなした。その男は威勢の良い若者を大勢養っており、彼らを子分と呼んでいた。そこで人に告げて「素晴らしい子を得た」と言った。隆岷はこれを聞き、ののしって「わたしはおまえのような者の養子になりはしないぞ」と言った。侠客が詫びて引き止めたが、隆岷は承知せず、袂を分かって去った。荒川土佐守の妻が、十余年病気で、医薬がまったく効かなかった。そこで隆岷に診断させ、薬の処方について尋ねてみたところ、隆岷はすぐさまののしって「あなたは医師ではないから医術などわかるわけがない。わたしは医師であるが下手だから、人に信用されないのだ。恥ずかしい限りだ」と言い、拳で薬籠を叩きこわし、振り返りもせず荒々しく去った。土佐守は「奇抜な人物である。その医術もまた奇抜なものだ」と言い、彼に妻の治療をさせたところ、すぐに治った。それ以来隆岷の医師としての名は大いに上がった。やがて土佐守が清水家(御三卿のひとつ、将軍家の一分家)の家老となると、隆岷を侍医に推薦した。このときに隆岷は葵紋入りの服を賜り、誓いは果たされた。飲み仲間の商人二人もその志が成ったという。
鶴梁はいう。あぁ、隆岷は奇抜な人物であることよ。言行は初めから終わりまで意表をつくものばかりであるが、もっとも意表をつくのはその悪口がうまいところであろう。土佐守をののしったことは、その最たるものである。そしてそれによって、名を知られるようになった。いったい、口が悪いということは、美徳というべきではない。しかし隆岷の悪口は、けっして残酷なものではない。詩経に「洒落や冗談を言うがあくどいものではない」という句があるが、それは隆岷のような人物を言うのであろう。

高橋生伝
高橋なにがしは、通称を喜右衛門という。武州川越の人である。その気質は豪快で意気高く、人一倍健脚であった。特に書道に達していた。江戸に来て数年仮住まいしていたが、非常に困窮していた。旗本の横田新五兵衛に仕えたが、金が少ないことを憂えなかった。暇があるときはひたすら書を学んだ。書はもっぱら僧空海のものを手本とし、常にその写本を懐に入れておき、しばしば出しては書写していた。また遠出を好んだが、良い景色を探すというわけでもなく、また奇抜な異能の士を訪ねるというのでもなく、ただ漫然と足に任せて歩き回るばかりであった。山道を登り降りし、野原を歩き回り、一日に数百里を行き、「愉快だ」と言ったこともあった。十日あまり遠出することがないと、ひどく退屈に感じた。路上にちょっとした茶店があると、必ず空海の写本を広げては、それをまねて字を大書した。字の大きさは二丈あまりであった。紙や筆を用意する金を整えられない時に、字を書きたくなると、大きな棒を一本携えて、大師河原に飛んで行った。大師河原は江戸の南の郊外にあり、字を書くに十分な白い砂が広がっていた。高橋生は空海の写本を取り出し、しばらくそれをじっくりと眺めて、悟るところがあり、喜びのあまり大声をあげ、身を躍らせて棒を振るい、何十字もの大字を砂の上に書いた。その字は皆活発で躍動的であり、龍のような勢いがあった。生はそれらの字の周りを回って見つめ「愉快だ」と言った。それより前、生は一人の老人を夢に見たことがあった。その老人は白い服を着て烏帽子を戴き、手に大きな筆を一本、書の手本を一巻持っており、それらを生に与えた。夢から覚めて、生は、空海が出現して書の秘訣を授けてくださったのであろうと考えた。これ以来彼の書はさらに上の境地に達した。生は大字を書くことを得意としたが、細字を書くことは得意でなかった。書状を書くとき、もっとも苦しんだが、主人の命を受けると、やむをえず書くことになった。字の大きさは一寸ほどであった。やがて書き始めると、呻吟苦悩し、懸命になって、やっと数十字書いた。しかし疲れきっているので、どの字も下手でほとんど読めなかった。生は晩年に学問を好み、わたくしの家塾にやってきたことがあった。このときわたくしは古今の治乱興亡、英雄豪傑について語った。生は手を打って「愉快だ」と叫んだ。のちにはどこへ行ったかわからない。
鶴梁はいう。高橋生の健脚と大字とは、偏っているが、一能と言える。古人には、わずかでも一芸一能を持った者を召し抱えて捨てない人物がいた。我が国では楠正成が泣くのがうまい人を召し抱え、かの国では孟嘗君が鶏の鳴きまねやこそ泥のうまい者を養った、といった具合のことである。思うに、楠正成や孟嘗君に高橋生が出会ったとしたら、けっして不遇を憂えるようなことはないであろう。しかしいまやそのような人物はいない。わたくしはそのことを深く惜しむのである。

僧方壺伝
僧方壺はどこの人であるかわからない。またその姓氏もはっきりしない。人 が彼に尋ねたが、方壺は誰に対しても答えなかった。江戸の人で、若い頃父の仇を討ち、家を捨てて僧となったため、自らのことを隠しているのだともいう。はなはだ詩と酒とを好み、貧しい儒者や学生と好んで交わった。詩や酒を与えられるとすぐに喜んで頭を下げ、与えられなければ涙を流して乞うた。それらの良し悪しは論じなかった。常に瓢箪一杯の酒を携え、歩いては飲み、酔うと瓢箪を叩いて詩を吟じ、声をあげて泣き、それに疲れると路上に倒れ伏し、悠々として自由気ままであった。犬の群れが彼を取り囲んで吠えると、方壺もまた詩を吟じてこれに和し、ついには犬の群れと仲良くなった。橋の下で月を眺めたり、花を路傍で愛でたりすることもあり、そのたびに「このような楽しみを、かの李白ができなかったのが残念だ」と言った。わたくしは久しくその名を聞いていたが、まだ知り合いになったことがなかった。ある日生徒を集めて易の講義をしていると、一人の僧がやってきて門を叩いた。そして挨拶をする前に、室内に入っていき、座りこんで、とつぜん「大極とはどのようなものか」と問うた。わたくしは無極(大極の無限定性を表す語)であると答えた。すると僧は大いに笑って「わたしは、あなたが貧しい儒者で、詩や酒をこよなく愛していると聞いてやってきたのだ。いま宋学がはやっているが、気分が悪くなるような愚説が多い。どうかそのような説は語らないでほしい」と言った。そして瓢箪を傾けて飲み、人目を気にすることなく大声で歌ったが、すぐに詩を一首作ってわたくしに贈った。わ たくしはその落款を見て、初めて方壺であったことを知った。そこで互いに打ち解けて酒を酌み交わし、方壺もまた風変わりな態度を見せ、路上にあるときと異なるところがなかった。そののちもしばしば訪ねてきたが、わたくしが激職に任ぜられると、やってこなくなった。
鶴梁はいう。方壺は奇抜な僧で、常識に縛られることがなかった。その詩を見ると、非常に読むべきものであった。またはなはだ貧しく、人に会うたびに酒を乞うていたが、貴人の家を訪ねたことはなかった。あるいは豪傑の士が志を得られず、どこかに身を寄せようと逃げてきたのでもあろうか。

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