『鶴梁文鈔』巻5 訳

静古館記
佐賀の古賀穀堂先生は、新たに家塾を郷里の金毘羅山に建て、静古館と名付けた。おそらく「山静かなること太古のごとし」という禅語からとったのであろう。最近、先生は郷里の永山徳夫という人物を通して、わたくし長孺にこの塾について記すように頼んできた。しかしわたくしはまだその地を踏んだことがないので記しようがない。とはいえ、先生が静古という名をつけている以上、その山の景色は想像できるであろう。そこで徳夫に「山に花はあるか」と尋ねると「ある」と答え、「竹はあるか」というと「ある」と答えた。さらに「谷川はあるか」と尋ねると「ある」と答えた。「花があるならば、二、三月の頃にかぐわしい風が吹き紅の雨が降るか」と問うと「はい」と答え、「竹があるならば、緑が清らかで涼しげで、いわゆる六月の秋と呼ばれるようなことはあるか」と問うと「はい」と答えた。「谷川があるならば、水量が減って川底の石が表れ、苔が緑で砂が白く、小舟が繋がれ、小さな橋がかかり、雪や月が素晴らしいことはあるか」と問うと「はい」と答えた。「この山には人がどれくらい住んでいるか」と問うと「非常に少ない」と答え、「この山を通って往来する者はどれくらいいるか」と問うと「非常に少ない」と答え、「それならば鳥の声や泉の音、数里の外から木を切る音が聞こえてくることはあるか」と問うと「はい」と答えた。わたくしはこれを聞いて嘆じて「先生が静古と名付けたのはもっともだ。天下にこのような、美しい花が咲き涼やかな竹があり、清らかな谷川がある土地があれ ば、士女は先を争って観賞するであろう。しかしこの山だけがこのようにもの寂しく、静かな様子だ。そして先生はこの山にあって古書を読み古帖を書写し、古人を慕い、古道を行くのである。つねに古を行くのであるから、古というべきだ。静にして古ならば、静古の名はいつわりではない」と言った。そこで徳夫がわたくしに語ったことを書き記して、先生に送らせた。

梅花屋記
紀州藩の儒者、榊原香渓の五代前の先祖は、篁洲 こうしゅう 先生という。先生は一代の大儒であったので、編著が非常に多かった。香渓は先祖の遺文に敬意を表し、数巻に表装し、これを大事にしまっている。そのほかちょっとした器物でも、先祖が愛用した遺品は、必ず宝のように大事に所蔵している。この一事だけをとっても、その行い、徳業を推測することができよう。わたくしはもともと無学で文才もないから、文士に交じるような者ではない。しかしながら逆に文や詩について香渓から質問された。これは彼が門地を誇らないだけでなく、劣る人物に問うことを恥じないのであり、その見識は高いといえよう。ある日、わたくしは香渓の庵を過ぎ、その額を仰ぎ見ると、梅花屋 ばいかおくとあった。香渓はこれを指してわたくしにこう語った。「これは先祖の旧居の名である。先祖の旧居は江戸の西の市谷にあった。その地は山谷が交錯し、高低のある地勢で、梅が咲くのによいところであった。先祖の植えたいくつかの梅は、冬から春にかけてつねに愛玩して いる。これにちなんで名付けたのである。赤坂に移ってからは、庭石の間には一本の梅も植えられていない。そこで梅を植えて先祖の遺愛を残そうと思う。ぜひこれについて書いていただきたい」と。そこでわたくしは「いったい、梅とはその清らかな花の香りと、ほっそりした気高い姿とが、わたくしの愛するとこ ろであり、それ以外の愛するところはない。いま、貴殿の徳は実にかんばしく、識もまた高い。庵の名の由来である梅以上のものを、貴殿は持っている。さらにわざわざ梅を植える必要もあるまい。これよりはただその徳をかんばしくし、その識を高くすれば十分であろう。そうでなければ、家中に梅が咲き、清らかに香り、気高い姿を見せて、その風情がいやが上にも高まっても、先祖が地下で安らかに眠れるとは限らないのではないか」と言った。すると香渓は「そうしよう。わた くしは不肖の身であるが、お教えをありがたくお受けする」と言った。わたくしはそこでこのことを書いて「梅花屋記」とした。

蘭竹草堂記
三州御油の人、竹屋平所は、生来草木を愛し、庭に様々な木を植え、それらが軒や窓を覆っている。以前、丹後の野田笛浦 てきほ がその家を「蘭竹草堂」と名付け、わたくしにそれについて書くよう頼んできた。わたくしは彼にこう言った。「平所の家は、様々な草木が植えられていて、色とりどりの花が四季を通して咲き乱れている。しかし名が蘭と竹だけなのは、不思議なことではないか。試みにこれについて思うことを言ってみよう。そもそも平所は老いた親にはひたすら孝行で、妻子には至って優しい。その生来のすぐれた徳行はまことにかんばしく、孝慈の名があちこちに聞こえている。その世にあって事に処するや、虚心坦懐に人と接し、さらにそのまっすぐな気骨を失わず、何物にも束縛されず、自らすっくと立っているのである。あぁ、そのすぐれてかんばしいのは蘭のようで、虚心でまっすぐなのは竹のようである。すなわち、平所の人となりが、蘭や竹とよく似ているのだ。そうなれば平所も蘭竹の主となるに十分であり、蘭竹もまたその賓となることを楽しむであろう。そもそも主は、賓に対して丁重に厚く待遇することによって賓を得るのであり、待遇がおろそかで薄ければ、賓は去ってしまい留めることはできない。それゆえ古人は客をもてなすための東閣や駅馬を置いたのである。いま、平所は蘭竹に対して東閣や駅馬こそ置かないが、心と徳とは同様であるために、互いに親友同様に楽しんでいる。今後、彼はいよいよますます虚心でまっすぐで、すぐれてかんばしい気質を失わないことをわたくしは望む。そうなれば平所と蘭竹とは、長くこの堂で楽しむであろう」と。おそらく、笛浦が考えていたのもわたくしと同様のことであろう。他日彼に会ったら尋ねてみようと思う。

含雪窓記
甲州の石和代官所は、富士山の北数里先にある。十年前、吉田柳蹊が代官 佐々木氏の属吏としてここに住んでいたが、その家の窓を開けると、富士山を仰ぎ見ることができ、その清洌の気は、凛々として人に迫るものがあった。柳蹊はこれを眺めて楽しみ、その窓に含雪と名付けた。このときわたくしは甲府で学問所の学頭をつとめていたが、柳蹊の依頼で「含雪窓」の三字を書き、彼はこれを額に入れて掲げた。そののちわたくしは江戸に帰り、数年して遠州に代官として赴任し、中泉の代官所にいた。ちょうど柳蹊もやってきてわたくしの属吏となったが、かつての額を代官所の壁に掲げた。しかしその実雪は降らないのである。柳蹊は職務に励み怠ることなく、その余力があるときは芸術を楽しみ、もっとも絵をたしなんだ。画法を研究し、花鳥の描き方を工夫し、その絵は清らかで雅で、いやらしさがなく、その人となりとよく合っていた。最近、彼はわたくしに含雪窓について書くように頼んできた。わたくしは彼に告げて言った。「わたくしはこう聞いたことがある。心の中に誠があれば、それは形に現れる。そのため仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ。昔、魏の令狐邵 れいこしょうが郡の長官であったとき、いたるところで氷雪のように清廉であった。貴公の清廉さは令狐邵に劣らない。その楽しむものが雪で、到着したところに旧居の額を掲げるのはもっともである。その土地に雪が降るか否かを問う必要はないのである。わたくしはまた、清廉な官吏は峻酷な者が多いとも聞いている。貴公の人となりは先に述べたようであるが、わたくしは、あるいは貴公が職務に奉仕するのが厳しいのではないかとも思う。貴公が民と向き合うのを見ると、諄々と告げ諭し、教え導いて倦むことなく、思いやり深く、民を悪の道に陥らせないようによく考えている。わたくしは不肖の身をもって代官の職にあり、民の理非を裁くことで、その職責を果たそうとしている。しかし属吏に人材を得られなければ、成功することはできない。貴公を得られた以上、なにも憂えることはない。わたくしはいずれ任期が満ちて他に移るであろうが、そのとき貴公も同行したら、また旧居の額を持ってくるであろう。今後もいよいよその清廉さに磨きをかけたら、どこへ行っても『含雪窓』はあるはずである」と。その言葉をここに書き記す。

四河記
三州の大河は吉田川と矢矧川の二つ、遠州の大河は大井川と天竜川の二つで ある。この四つの川の形勢を見ると、はるかに異なっている。矢矧川・吉田川は、砂が多く石が少なく、川は深く水流は静かで、つねに水はゆったりと流れて波は立たず、秋雨が降ると水かさは増すがそれほど荒れることはなく、氾濫して橋や堤を破壊するに至るのは、数十年にわずか一、二度である。しかし大井川と天竜川はそうではない。水は浅いが流れは急で、砂は流されてばらばらに散らばり、石は鋭く尖った角を露出している。普通の状態でも、流れは非常に早く、石に当たって吼えるような音を立て、水かさが増すと、たちまち大波が立ってあちこちに押し寄せ、小さければ橋や堤を破壊し、大きいときは被害が数十ヶ村に及び、民も国もともに害することはなはだしい。このようなことが一年に数回、あるいは数年に一回起こるので、川の治水に当たる官吏が年ごとに必ずやってくる。堤を修復する労役も相次いでいるが、水害を止めることはできない。以上が四河の大略 である。あぁ、三・遠の二州は隣接しているが、四河はこのように違っているのはなにゆえであろうか。嘉永六年、わたくしは三・遠の代官に任ぜられた。友人の塩谷世弘が別れの挨拶に来て言うには、「貴殿の管轄域の多くは天竜の川辺にある。そのあたりの民の気風は荒々しく、政治を行うのはたやすくはあるまい。おろそかにしてはならない」と。わたくしは当時、まだそれが本当かどうかを知らなかった。そして赴任してから数年、だんだんとわかってきたことは、二州の民の荒々しさのていどは、四河が異なるのと同様に異なっているということである。そして天竜川辺の民は、もっとも荒々しい。ここで初めて、世弘の言葉がいつわりではなかったことを知った。古人は、民の性は風土によって変わる、と言っている。地方官となる者は、このことを心に留めておかねばならないであろう。

恵済倉記
わたくしは嘉永六年に三・遠二州の代官となり、まず貧民を救う方策を立て ようと考えた。そして米倉の蓄えを多くしておいた。やがて翌年安政東海地震が起こり、貧民が飢えに苦しむと、すぐに倉を開けて米を放出したので、蓄えはたちまち空となった。最初の蓄えは三千六百二十石余であった。そして二州の人口は、男女合わせて十万五千五百余人であったが、凶作に遭って生き残った者が三分の一であったのを除いて、施しを仰いだ者は、七万三百余人であった。一人に一日与える量は、男には米二合、女には一合で、計百六石余が、元の蓄えであった。これではわずかに一ヶ月ほどの食を支給するのがせいぜいである。そして、いまはほとんど施してしまい残っておらず、災害後の民の苦しみを急に救うことはできない。そもそも天災は急に起こるのであり、さらに凶作となると、施す方法がなく、実に恐ろしいことである。わたくしはこのことを案じて、食もうまく感じられず、寝ても落ち着けなかった。そこですぐに一策を発案し、真っ先に掲げ示した。まず私財百三十余金を出し、麦・稗各々百五十石を買い、これらを別の倉に蓄えておき、恵済倉と名付けた。そののち富民に布告して、その不足を助けることを求めた。すると大勢は皆感激し力を合わせ、各々雑穀数石を出した。そしてわたくしが出したのと合わせて、粟百二十石、麦百五十石、稗二千七百七十八石となり、米に換えると八百二十九石五斗となった。しかしこれらを飢える民に施しても、なお十年分足りなかった。そこで朱子の社倉法に基づき、古今東西の凶作時の救済策を参考にして、仮に「利息貸し本立ての法」と名付けたものを設けた。その法は、米八百二十九石五斗を本とし、富民に貸与して、米の量ごとに利息として一斗ずつ取り、毎年利息を本に加える。利息が重なると、十五年で三千百五十石二升七合が得られる。ここに至って、安政東海地震で施した分の蓄えが完納されることになり、前と合わせて六千七百七十石余で、七、八十年の飢えを救うことができる。しかし以前と現在との蓄えは、別の方法によるものである。そこで十五年待って完成したのち、民で米を貸すことを願う者が全人口の半ば、あるいは三分の一であった場合は利息を免除して貸与し、一石ごとに米三升ずつ減らして収める。毎年八月に貸与し、翌年秋の収穫の日に取り入れる。ただし、十五年の間に凶作になった場合は、急ぎ富民に貸与した米を出して救わせる。そうすると数が積もって完成するまで、年月を伸ばさざるを得なくなる。以上がその大略である。以前これを村の長老に相談したところ、皆「ご立派です。この法が成ったら、民は長く飢えの苦しみを免れましょう」と言った。そこでこのことを詳しく文書に書き記し、去年の七月某日の日付で官憲に申し出て、決裁を乞うた。まだ許可を得ないうちに、わたくしは羽州へ転任となった。そこでのちに代官となる者のために書き記しておくのである。安政五年五月五日、林長孺が中泉代官所において記す。

別春居記
袋井の商人孤瑟 こしつ は、非常に落ちぶれている。日頃生業に苦しんでいたので、今年の春、家の敷地に梅を植えて、その木の間に小屋を構え、茶や酒を売っている。土地は極めて狭く、梅は極めて少ない。しかし孤瑟はもともと植木を好むので、栽培の位置はしぜんとよろしきを得ている。そして水を注ぎ、あたりを箒で掃くと、門に入ったとき清楚な気を覚え、風雅な趣があり、しばらくのんびりするのに十分である。しかし孤瑟が考えているのは、ここに客を留めて、茶や酒を売って生業とする以上のことではない。最近彼はわたくしにその住居の名を乞い、またこれについて書くように頼んできた。わたくしは別春と名付け、次のように記した。そもそも東海道五十三次は、数ある街道の中でも旅行者がもっとも多いところである。酒場や女郎屋がびっしりと並び、様々に媚を売ってあちこちの客を止める。はなはだしきは、人の手をとって引き止める。これは実にいやらしい。それゆえ旅行者はより清らかなところを求め、より雅な茶屋に足を止め、笠を取って逍遥自適してしばらくの憩いとすることを願うのである。そうなれば、幸いにして外のわずらわしさのない楽しみを大いに感じるであろう。「日の光がさ すと、梅のあたりでは別の春の訪れがある」というが、まさにそのとおりである。梅の多少、地の広さなどは問題にする必要はないのではないか。してみれば、孤瑟がこのようなことをしたのは、無意味なことではなかろう。そこでわたくしは別春と名付けたのである。

久菴記
滝田なにがしは江戸の大商人である。かつてその家を久菴と名付け、林大学頭 だいがくのかみ にその額の書を請い、わたくしにも久菴について書くよう頼んだ。思うに、久とは恒久にしてやまずということであろう。わたくしは初めて江戸で久菴を知ったとき、その主人の人となりは義侠心厚く、人の急を救うことを好んだ。陰徳が多いために、次第に人に知られるようになったのであろう。人々は皆「久菴の大きな富は久しく続いてやまないであろう。その家にこのように名付けたのは当を得ている」と言っている。わたくしもそう思う。しばらくして数千もの借金が踏み倒され、久菴の家産はたちまち蕩尽してしまい、その久菴と名付けた華やかな家はすっかりなくなってしまった。そこでわたくしは、天が人に報いるということを疑わざるを得なかった。しかし、久菴の主人はまったく天をも人をも怨むことがない。もともと彼は和歌を嗜み、その全盛のときは、花が咲く朝、雪の降る夜に、客を呼んで酒の相手をさせ、歌を詠んで楽しんだ。いまは落魄して無聊をかこっており、憂いに堪えないであろう。しかし彼はのんびりと遊び、酒と歌とを楽しんでおり、まだその楽しみを変えていない。これで、久菴の久というのは、内にあって外にないことがわかるのである。あぁ、わたくしは久菴と知 り合ってようやく三十年、盛衰は大きく変化している。しかしその人となりはつねに変わることがない。内に恒久の徳をもっているのでなければ、どうしてこのようなことができようか。そもそも貧富は天命であり、聖賢といえども免れることはできない。久菴のような人物には苦にならないであろう。天道は悠久なるものであり、その応報もまた早くすることはできないのである。わたくしはこう思う。他日、久菴が困窮から復活の兆しを見せれば、家道は再興し、元のごとく富み栄えて、久菴自身がそうならなければ、子孫の代でそうなるであろう。してみれば、天が人に報いるというのは疑う余地はあるまい。そうなると久菴の久は内にあるばかりではないということは、注目に値することになるはずである。

材木巌記
安政六年十月、わたくしは羽州から帰り、奥州の下戸沢を過ぎ、世に言う「材木岩」を見た。岩はまっすぐにそびえ立って、高さは数千尋で、天をも突かんばかりであった。幅は数百間であった。下には谷川があり、清らかで鏡のようであった。石の根元は水に入って、深さは何千尋かわからなかった。その石の全形は、壁のように立って削られており、まっすぐに裂けたものは、棟木を集めたようであり、横に裂けたものは、たるきを並べたようである。このようなことで材木と名付けたのであろう。わたくしはその石のかけらが地上に落ちたのをよくよく見てみると、その質は堅く、豆州の御影石に類するものであった。石は四角もあり、六角もあり、皆磨きたてたように光り輝いていた。まさに天巧のはなはだしきものであった。岩はごつごつした肌が露出しており、石が崩れ落ちた跡は、隙間が生じていた。岩の間に松が生えており、青々とした葉は渓流に映り、さらに小鳥数百羽が岩と木の間に鳴き交わして、景色に趣を添えており、実に天下の奇観であった。属吏の杉立なにがしがそばにいたが、わたくしにこう言った。「わたくしは以前松島に遊んだことがあります。松島は天下に冠たる名勝ですが、こことは景観を異にしております。しかしどちらが優れているかと言いますと、優劣をつけることはできません」と。そこでわたくしはため息をつきながら言った。「かの松島の名は大いに顕れているが、ここを知る者はあまりに少ない。心 なき石でさえも優れていながら埋もれることがあるのだ。人ならばなおさらだ」と。安政六年冬十月三日、福島の旅館において記す。

館山寺に遊ぶ記
今切でもっとも優れた景色は、館山寺とされている。安政元年の晩秋、わたくしは和地村の田を検分に行き、一宿して、村は館山寺から遠くないと聞いた。翌朝西へ進んで、数里して寺に着いた。寺は山際に建っており、左右に竹が植えられ、様々な木が寺を覆っていた。寺の後ろには石壁がそびえ立ち、壁が尽きたところは川で、数十里の大きさがあり、水は光り輝き、空と同様に青かった。ちょうど秋深く霧が晴れ、天気は晴朗で、日光は水に反射し、照り映えるさまは目を奪うほどであった。利木 りき瓶割 かめわりの山々が連なって盛り上がり、もやが垂れて山を映し出し、天然の図画ともいうべく、どのような名画家にも描けまいと思われた。そして川の北でもっとも優れているものは奥山である。山には方広寺という古刹がある。この寺は、かつて宗良親王の行在所があったところで、しばしば詩文の題となり、ために山川はいよいよ輝きを増している。南北朝の乱の際、親王が兵乱を避けてあちこちと回り歩かれた末に、ここに潜伏され、義勇の士を集め て再起を図られたことが思い出された。それから現在まで星霜およそ六百年、親王の残しておられた跡は、忘れ去られようとしている。しかし、漁人や樵夫は、なお日夜親王のことを歌にまで歌っている。ましてや書を読んで古を慕い大義を知る者は、嘆息せずにはいられないのではあるまいか。しばらく散歩して寺を出た。わたくしはこの遠州の代官となってから、山川の名勝をあちこち見たけれども、絶景というべきものは見られなかった。この寺に来たとき、一望して驚いた。前に見た景色とは、天と地以上の差があるだけでなく、懐古の感もあった。しかしながら公務で忙しい身であったから、当時はこれについて書き記すことができず、いまになって思い出したことを記し、のちに今切に遊ぶ者に知らせようと思うのである。安政四年二月二十一日。

梅花深処記
わたくしは梅花を非常に好んでいる。しかしながら家の敷地が狭すぎて、多く植えることができない。故閣老松代侯がこれを聞いて、自ら「梅花深処」の四字を額にお書きになり、敷地一区とともに賜り、さらに「園が落成したら、わたしも見に行こう」と申された。嘉永四年のある月のことであった。地は麻布谷町にあり、十余畝四方であった。このときわたくしは家が困窮しており、宅を作ることができず、ごく小さな建物を築くだけであった。しかし侯は嘉永五年に亡くなられ、わたくしも三・遠州の代官に任じられたので、遠州の中泉に家を移した。しかし常に麻布の地を恋しく思っていた。そこで留守の者に梅百余株を植えて、わたくしの帰りを待つよう命じた。安政五年、羽州に転任が決まったため、いったん江戸に帰った。これより先、江戸に地震が起き、家園の荒れ果てた様子は言葉にできないほどであった。そして少しずつ修理し、幾つかの建物を加え、松代侯から賜った額を堂上に掲げ、さらに梅数株を植えた。ここに居住して二年、今年の春になって梅花が咲き誇り、心が躍るようである。あぁ、わたくしは松代侯のご知遇を得て、このような素晴らしいものを賜った。そしていま、かつて申されたようにここにおいでになっていただければと思うのだが、賜ったものはあるが侯はすでに亡い。なんとも痛ましいことである。しかしこの堂に座って額を仰ぎ見、花を見ると、侯と会っているような思いになるのである。安政七年二月十一日、林長孺が記す。

惟有蘇斎記
渋谷洒侯しゃこう(江戸後期の儒者)は、早くから蘇軾の文を好み、またその人となりを慕っており、尊敬崇拝するさまは鬼神に仕えるがごとくであった。そのため自ら作るのはもちろん、詩文で蘇軾に関係のあるものは、蘇軾の父蘇洵、弟蘇轍を始め、蘇軾の高弟六人、さらに後世の書に至るまでを懸命に集め、数十年かけて、数千巻を集めて家に蓄えた。そして蘇軾に関係のない書はまったくなかった。そこで家を「惟有蘇斎」(ただ蘇あるのみの意)と名付けた。やはり蘇軾を信奉する心が深いからこのようにしたのであろう。わたくしもまた蘇軾を好むので、彼はこの家について書き記すよう頼んできた。わたくしはこう思う。そもそも蘇軾は一代の傑物である。詩文の美しさが天下に鳴り響くばかりでなく、その剛直な忠義心も、また尊ぶべきものである。彼は直言のために罪を得て、南海の万里果ての離島に流されたが、まったく悲しむ色がなく、つねに天命を楽しみ、詩文に興じて悠々自適した。これはまことに死生の際に談笑する者であ って、道理と忠義とに満ち溢れている人物でなければ、このようなことはできまい。洒侯が蘇軾を深く信奉しているのももっともである。世の儒者は、蘇氏の学が縦横家の話術を交えていると批判しているが、これは実に狭い見解というべきである。顔真卿 (唐代の書家)は書法に忠義心がこもっているために、天 下に名を知られた。そしてその学術には神仙の術が交じっている。あぁ、その人となりが蘇軾や顔真卿のようであれば、それで十分ではないか。立派な宝石ならば、少しぐらい傷があってもよいのと同様にである。この通りに書き記しておく。

丶 房 ちゅぼう
遠州浜松に渡辺玄知という偉人がいる。その家は代々医師を業としていた。今年の夏、新居を構え、丶房と名付けて、これについて書き記すようわたくしに頼んできた。そして彼は、「俗に耳の遠い者を丶房(「つんぼ」のことか)という。わたくしは耳が遠いのでこのように名付けたのである。どうか丶房のことについて説明していただきたい」と言った。そこでわたくしは次のように言った。「実に当を得た命名である。そもそも丶というのは、点であり、印をつけるということである。文の間に区切りをつける時には、丶をもって印とするのである。人にとって重要なことは、目と耳がよく働くことである。そして耳の働きは特に大事である。ゆえに堯(古代の聖天子)が四門を開き、ために四方のことをよく聞くことができたのである。人の耳が聞こえなくなるのは、いわば廃人であり、文章が区切られるようなことである。してみると、貴殿が丶という名をつけたのはもっともなことである。わたくしはこうも聞いている。貴殿が最初に耳が遠くなったとき、発奮して、『自分は不幸にして耳が遠くなり、天下の事を聞き尽くすことはできなくなった。しかしわたくしは医術にひたすら精を出そう』と言った。そして精神を凝らし、思慮をもっぱらにして家業を修めたために、医術は大いに進歩し、病を次々と治し、その効果はたちどころに現れるようになった。そして治療を乞う者が次々と訪れている。凡人ならば、英気ある者であっても、いったん障害が起これば、志も家業も衰えてしまうであろう。貴殿は障害が起こってから、志も家業もますます奮い、その術もますます優れたものとなっているが、これは文章が次々と展開され、切れてはまた続き、書き出されるたびに素晴らしくなるようなことである。そうとなれば、丶房という名はいよいよ当を得ているといえよう。わたくしはもうひとつ考えることがある。文を評する者は、その優れたところに丶を加えて、これを褒める意を示すものである。わたくしもまた貴殿の医術を、丶を加えて褒めるであろう。この言葉が当たっているであろうか」と。玄知は笑って「このように記すがよかろう」と言った。

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