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『星の王子さま』は、愛を見失った大人の為の物語である

大学の時に書いたレポートですが、気に入っているのでネットに放流してみることにしました。

はじめに

得てして人間(特に、大人において)は、理想の自分や自己世界を形成することが難しいように思う。そもそも価値観というものは社会や所属する集団、共同体において変化するものであり、その事実は長年の社会学的研究においてもはや論ずる必要もない。例えば男女関係においての「愛」の最終形として取り上げられる「結婚」という事象でさえ、長い歴史の中でそのあり方や役割、意味を変容させてきた。古く日本にあった社会的生産単位である家族という役割を持っていた結婚という契約・儀式は、西洋から輸入された恋愛結婚(ロマンティック・ラブ、ひいては純潔教育)によって、消費単位としての家庭を形成する事象へと大きく変化した。こういったようにめまぐるしく変化する価値観・社会的理想を享受する中で、「大人」というものは自己の「本当の理想」を見失う。個人主義が進み、ほぼ全ての選択が個人に委ねられる中で、こと日本においては未だ社会というものの個人への影響力は強い。そんな中で、サン=テグジュペリの「星の王子さま」は、「大人」に対して、一つの愛のあり方の理想を提示しているのではないかと感じた。

本稿では、人と人の深いつながりの一例である「恋愛関係」を用いて、バラと王子様の関係を「人間における恋愛関係」と仮定し、この本における「愛のあり方の理想」とはなんなのかを考察する。

フランスの当時の愛というものへの価値観

文章の中の表現を読み解く前に、当時のフランス社会における価値観について着目したい。導入でも記した通り、個人の価値観というものは個人のみで形成されるものではなく、多かれ少なかれ所属する社会集団の影響を受ける。サン=テグジュペリにおいてもそれは例外でなく、愛の捉え方について当時のフランスにおける価値観が影響していると予想される。
フランスは現在においてもカトリック信者が多い国であるとされている。1900年代においても例外ではなく、カトリック信者が多い社会であった。カトリックの愛とは、マタイの福音書にあるように⑴、「尽くす愛」である。後述するが、これは作中の「飼いならす」為のしんぼう、に大きく影響すると考えている。
ただし、浅岡夢二氏の文献⑵に

両親がともにカトリックだったために、サン=テグジュペリは伝統的な宗教的雰 囲気のなかで育てられた。しかし、それはあくまでも「雰囲気」にすぎず、幼少時においてカトリクの教えの内容がサン=テグジュペリの内面に深い影響を与えることはなかったように思われる。

と語られるように、キリスト教それ自体の影響力が強いわけではないと考えられる為、あくまで参考程度にしておきたい。しかし本人以外の身の回りの人間も含め、やはり社会の流れとしての上記の当時の価値観は、キリスト教自体との関係は明確に言えないものの、愛という価値観の形成の上では無視出来ないものであろう。

王子さまのバラへの恋

そういった社会に生まれ育ったサン=テグジュペリが描いたバラと王子さまの関係性は、物語を追うごとにその形を変えていく。
本文⑶には、一番最初バラが咲いた時、

〈ああ、美しい花だ〉と思わずにはいられませんでした。「きれいだなあ!」…この花、あんまりけんそんではないな、と、たしかに思いはしましたが、…王子さまは、どぎまぎしましたが、汲みたての水のはいったジョウロをとりにいっ て、花に、朝の食事をさせてやりました。⑷

とある。そのバラが唯一だと信じ込んでいた王子さまは、先述したキリスト教的、献身的な愛を捧げるのである。しかしそのうち、

「…ぼくはすこしもたのしくなかった。…ぼくはあんまり  小さかったから、あの花を愛するってことが、わからなかったんだ」⑸

と、「愛の行く先」を見失い、その末に王子さまはバラを見捨て、星を出る決意を固め、バラもそれを引き止めることなく、様々な「おとな」に出会い、地球へと行き着く旅に出てしまう。尽くす愛、の限界を知ってしまうのだ。バラの心情が詳らかに語られることはないが、またバラも同様に、王子さまへの愛が歪んでしまう。
様々な「おとな」と出会うことで、自己の有りかた、人のあり方をその都度考えながら旅を続ける王子さまは地球に行き着き、自分のバラと同じ見た目のバラがたくさん存在することを知ったことで、あのバラは特別なバラなんかではなかったことに絶望する。

「ぼくは、この世に、たった一つという、めずらしい花をもっているつもりだった。ところが、じつは、あたりまえのバラの花を、一つ持っているきりだったのだ。」⑹

この二つの場面に、恋愛(恋愛という言葉の定義自体が幅広いということは置いておいて)の難しさ、のようなものをみた。出会いから盲目的な愛情を持ち、それに夢中になっているうちは献身的な愛を注ぐ。しかしそれはけっして相手の為ではないのだ。それは愛ではなくて、憧れや、もっと違う種類、の強い思いや執着でしかない。唯一だと思い込み、いわば一方的な愛を注ぐ。いやむしろ、「唯一だと思い込みたかった」という気持ちすら、この二つめの場面からは感じられるのではないだろうか。自分と相手の間にある価値を相手の存在に求め、それを認める自分を承認する。そういった行いがこの一人と一本の間には行われていたのではないだろうか。王子さまはそれゆえに、バラの唯一性を否定されたとともに自分のことを否定されたように絶望する。
しかし、その王子さまの認識は、キツネとの出会いで変わる。

王子さまのバラへの愛

キツネは王子さまが遊ばないかと問いかけをしたのに対し、「遊ばないよ、飼いならされちゃいないから」と答え、次のように言う。

「おれの目からみると、あんたは、まだ、いまじゃ、ほかの十万もの男の子と、べつに変 わりない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくたっていいんだ。…だけど、あんたが、 おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……」⑺

この言葉により、先ほど述べた「唯一性の否定」が意味を持たないことだったと王子さまは気づく。王子さまのバラの価値は、そのバラの特徴によってではなく、王子さまとバラとの関わりの中に、王子さまとバラの間にのみ生まれたのだ。同じような考えが、生越達氏の文献⑻でも語られている。

バラの花は、自らの個とし ての特徴によって自己存在を守る必要はない。特徴の唯一性な
どなくても、つまりそれ自身は何の変哲もないひとつのバラの花であっても、王子さまと
の関係性のなかで、真のバラらしさ(ユニークさ)が育っていく。


正しい愛し方

作中で示される正しい愛し方は、「飼いならす」ことにある。これは、先ほどもあげた生越達氏の文献にとてもわかりやすく記されている。

「しんぼう」とは時間をかけることである。時間が関係を育てて成熟させてくれる。「しんぼう」には、世界や他者とのつきあいがスピードのなかに呑みこまれることによって、そのつきあいが表層化している私たちへの批判が込められている。 ⑼

また生越氏は、言葉というものの危険性にも触れている。

キツネは、「飼いならす」ためには「なにもいわない」ほうがいいのだという。ことばは勘違いのもとなのである。なぜなら、ことばは、他者そのもの、モノそ のものから離れ、一般化することを本質とするものだからである。…ほんとうは、ことばよりも身体で感じることが大切である。身体で感じながら、次第に近くにすわれるよう になっていく。「飼いならす」ことは、言葉のやりとりなのではなく、身体的な出来事なのである。 ⑽

私たちはしばしば(それも大人になるにつれて)時間を無意味に持て余そうとする。資本主義がその目的を「金を儲ける」事自体に置いたように、時間を無駄にしないことを一番最初に考え、時間を無駄に生産し、最も時間を無駄にしている。手段が目的化してしまう。何もなさない時間というのが、最も無意味であるのに、それに気づかないまま。私たちは言葉を尽くして他者を理解しようとするあまり、その本質を見失う。言葉という枠組みに自分(あるいは相手)を押し込め、「よくある形」に落とし込むことで、他人の理解に時間を割かないようにしている。しかしそれは、最も遠回りなのだ。人を愛するということの上では。
結果を求め、言葉を通じてかりそめの愛を確認するよりも本質的な愛がそこにはある。ただそれはそれこそ「しんぼう」が必要であるのだ。相手自体の特徴における価値ではなく、自分が見出した価値を信じ、冒頭に述べたような「献身的な愛」を与え続ける。その中で「飼いならされ」ていき、見出された価値はお互いにおいて何にも代えがたい愛へと昇華される。それをお互いが与え合い、お互いの中に見出された価値を信じ続けるということが愛なのだ。

まとめ

このように、王子さまは「自分のバラ」が大切な存在だったと気づき、その愛し方をキツネに教わる。その王子さまへの共感を通し、読者は擬似的な体験をこの本から得る。「人を献身的に愛する」ということの難しさと挫折を提示し、その上で何を持ってどう愛するのか。そういった一つの「愛のあり方の理想」を、物語として表現しているのではないだろうか。

言葉は表層であり、身体は深層である。
失ってから気づくのは恋でしかないが、失ってなお正しく想いを寄せ合うということは、
愛と呼べるのではないだろうか。



⑴マタイの福音書22p 36-39
『「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。』
⑵比較思想・文化研究 Vol.3 (2010) 浅岡 夢二『サン=テグジュペリの宗教性』
ここでは最終的に、『サン=テグジ ュペリは、制度としてのカトリック教会には属していなかったが、一人の人間と して、望みうる最高レヴェルの宗教性を備えていたのである。…(中略)「ひとつのおなじ教会」、 「ひとつの聖書」とは、言うまでもなく、人類共通の普遍的な教会、普遍的な聖書のことであろう。』と、結ばれている。
⑶池間 里代子 「『紅楼夢』の絳珠草と『星の王子さま』のバラに関する考察」の抜粋文、内藤濯訳1962:昭和37年岩波書店『星の王子さま』より。
⑷同書 p.38 110
⑸同書 p.42 17
⑹生越達「『星の王子さま』における子ども性 ―― キツネとの出会いによってわかったこと――」の抜粋文、サン=テクジュペリ『星の王子さま』(岩波書店、2000)p.92
⑺同書 p.94
⑻ ⑹に示した文献。
⑼ 生越(2009) 141
⑽ 同文献、141

参考文献(レポートに際して読んだ文献・引用していないものも含む)
佐々木隆 『星の王子さま(子ども)と宮崎駿を考える ~コミュニケーションの社会学から~』(2016)
池間里代子 『「紅楼夢」の絳珠草と「星の王子さま」のバラに関する考察』 (2013)
藤田義孝 『子どものための「星の王子さま」』 (2013)
生越達 『「星の王子さま」における子ども性 : キツネとの出会いによってわかったこと』
浅岡夢二 『サン=テグジュペリの宗教性』
マタイによる福音書 https://www.wordproject.org/bibles/jp/40/22.htm#0

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愛について考えました。
レポートの形式で書いたのですが、当時お作法的なところ含め細かいところがよくわからないまま書いていたので、読みづらいところや間違っているところも多かったと思います。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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