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第32章 ジロンド派

 王妃の裁判の後、敵と共謀して町を売り渡そうとしたという罪状でアルマンティエール[フランス北部、現ベルギー国境沿いの町]の住民が告発された。6人の囚人が解放されたが、アルマンティエールの元治安判事ピエール=フランソワ・マランゲ、商人のペラン・ガイ・ジュワル、商人のジョゼフ・デラットル、そして帽子職人のポール=フランソワ・クラリスが極刑の判決を受けて葡萄月27日[10月18日]に処刑された。

 霜月1日(10月22日)、リヨンの反逆者と通信を交わした罪状で国営窯業所の管理人のルイ=アルマン・プルノンが処刑される番になった。同月2日、聖職者のピエール=イポリト・パストゥーレルが処刑された。

 5日、革命裁判所は亡命者のジャック=アンドレ=フランソワ・ドゥザンヴィルとその妻をギロチンに送った。その当時、民衆の注意は革命広場には向けられておらず、最も重要な裁判、すなわちジロンド派の裁判に向けられていた。パリ市当局やジャコバン・クラブは、王妃の裁判と同じくジロンド派の裁判も声高に求めた。穏健で公正な共和主義を信奉しているというわけで議員たちを逮捕して告発することは理解しがたいことであった。逃れていなかったジロンド派議員は非難されるべき行動を何もしていなかった。苦し紛れにジロンド派の意見は犯罪だと断定されて、告発状が作成された。霜月12日[11月2日]、フーキエ=タンヴィルは告発状を受け取り、13日、囚人たちはカルム牢獄[パリのセーヌ川南岸、リュクサンブール宮殿付近にあった牢獄]からコンシェルジュリに移送された。コンシェルジュリは処刑台に向かう前の最後の安息の地となった。

 ペシオン、バルバルー、ゴーデ、そしてほかの数人が逃亡したことは、法廷に召喚された20人の議員たちの中に亀裂を残すことになった。6月2日の反乱で聖別された数字[5月31日-6月2日事件で31人のジロンド派議員が国民公会から追放された]とそろえるために、それ以降に逮捕されていた議員の中から選ばれた者たちと21人の囚人が(少し前に処刑された)ゴルサとともに数に入れられて革命裁判所の前に引き出された。

 以下の者たちである。

 ジャン=ピエール・ブリソ、39才、文筆家にしてウール=エ=ロワール県[フランス北部にある県]代表。

 ピエール=ヴィクトラン・ヴェルニオ、35才、ジロンド県[フランス南西部、ビスケー湾沿いにある県]代表。

 アルノー・ジャンソネ、35才、ジロンド県代表。

 クロード=ロマン=ロズ・デュペレ、46才、ブーシュ=デュ=ローヌ県[フランス南東部、地中海沿岸にある県]代表。

 ジャン=ルイ・カーラ、50才、文筆家にしてソーヌ=エ=ロワール県[フランス中部にある県]代表。

 ジャン=フランソワ=マルタン・ギャルディアン、39才、アンドル=エ=ロワール県[フランス中部にある県]代表。

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