レスキュー訓練

南極のバトン

#10年前の南極越冬記  2009/5/10

ちょうど10年前になる。当時、僕は越冬隊員として南極にいて、こんなことを書いていた。

◇◇◇

日本を離れる半年程前、ある雑誌のインタビューの中で「南極に行ったら何が一番楽しみですか?」と聞かれたことがあった。すごく当たり前の質問だったけれど、不思議と僕はそう聞かれるまで、そんなことを考えたことがなかったな、という事に気付いた。少しだけ考えて「1年以上もの間、28人だけの閉ざされた世界。そこでの生活が、いったいどういうものになるかが楽しみです。」と答えた。相手は不思議そうな顔で僕を見て「それはすごく変わってると思いますよ。もっとオーロラが見たいとか、ペンギンが見たいとか、そういう答えが返ってくるものと思ってました。」と言った。

南極に行くまでの慌ただしい準備期間をなんとかこなし、年末に日本を出発し、長い航海を経て南極に辿り着いてから約4ヶ月の月日が経った。ようやくこっちの生活にも慣れて来た今、すっかり忘れていたあの時の質問をなぜか思い出す。

この4ヶ月の間に、氷山も、オーロラも見た。野生のペンギンやアザラシにも出会うことができた。南極大陸の地を踏むこともできた。どれもこれも僕にとっては生まれて初めての経験で、心躍る体験だった。心の底から感動し、南極に来ることができて本当に良かったと思った。でもやっぱり、これが楽しみで南極に来たと言うには、何かが違う気がした。

僕は何をしたくて南極に来たのだろう。南極に行きたいという気持ちを抑えきれずに、4年間チャンスを待ち続けていたのはどうしてなんだろう。

越冬隊員28人の内、南極に初めて来た隊員は18人。残りの10人は過去に越冬隊や夏隊のメンバーとして複数回この地を踏んでいる。ある先輩隊員は南極の魅力をこう答えた。「ときに南極にある全ての基地が、一気にスクランブル体制に入ることがある。自分もそれを目の前で経験した。飛行機が墜落したからだ。その情報は直ちに無線で全ての基地を巡り、例えそこまで救助に行くのに雪上車で半年以上かかってしまう基地であれ何であれ、26カ国53の全ての基地が、いつでも救助に出れる体制で待機する。そのために、全基地に通じる専用の無線網がある。もちろん昭和基地にもだ。自分はそれを実際に目の前にしたとき、世界とこことが繋がっていると感じ、そして自分もその一部を担っていると思うと心が震えた。素晴らしいことだと思う。」

また南極への航海の途中、海洋観測を行った別の隊員はこう言った。「50年の間、毎年全く同じ海域で海水のサンプリングをし続けているのは日本の観測隊だけだ。他国の観測隊はもっとすぐに結果の出る調査を優先し、こういう地味な作業はあまり行わない。でも自分が50年間続くリレーの、重いバトンを握っている思うと、自然と気が引き締まる思いだ。」

それを聞いて僕は、南極は、世界と時間とが一つに繋がっている場所、そして今自分もその一部に間違いなくなっている、そう感じた。10ヶ月前の自分は、もしかしたらそれを言いたかったのかもしれない。閉ざされた28人だけの世界では、自分の代わりはいない。隊員それぞれが自分の責任を全うして初めて、基地の生活、そして観測が成立する。1/28人の責任、1/53基地の責任、1/50年の責任。素晴らしい南極の自由を謳歌するためには、必ず重い責任が伴う。その重さに自分が耐えることができるのか、それを試したかったのかもしれない。

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