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アイルランド音楽の起源と、それが今日まで生き残った理由

18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの民衆の間で広く楽しまれていたダンス音楽は、社会の近代化に伴い、ヨーロッパのほとんどで姿を消しましたが、アイルランドで生き残りました。これらの郷土的なダンス音楽の始まりを辿りながら、それがどのようにして、今日までアイルランドで生き残ったのかを探っていきます。

中世末期からルネサンス期にかけて

二極化した社会構造 

封建時代のヨーロッパは、どの国でも、少数の貴族や大商人と、大多数の農民や都市部の貧困層からなる二極化した社会構造でした。

支配階級はあり余る時間や資金、教養を生かし、絵画、彫刻、文学、音楽など多方面にわたって芸術活動を行いましたが、貧しい人々が取り組めるものといえば歌やダンス、音楽に限られました。人々は比較的安い楽器を手に入れて、歌や踊りで感情を表現したのです。

バグパイプを吹く15世紀ドイツの道化。リュートやハープも描かれています。
'Fool Playing Bagpipes' Sebastian Brant


ルネサンス期の民衆の音楽

この時代のヨーロッパの庶民の音楽は、彼らの日常の世界、つまり、農村の祭りや結婚式、町の市場や居酒屋といった暮らしに密着したものでした。当時の絵画には、広場や街道、田舎の道、結婚式などで音楽とダンスを楽しむ人々の様子が描かれています。

16世紀のオランダ。結婚式で踊る農民たち。左端にバグパイプを吹いている人が描かれています。
'Peasant Wedding Dance' Pieter Brueghel

 
バグパイプはヨーロッパ北部の農民に人気の楽器でした。リュートは都市部で人気がありました。ハープは古くからあり、アイルランでもそれ以外でも、どこでもよく見られた楽器でした。他に擦弓楽器(中世フィドル)、フルート、太鼓といったものが使われていました。

16世紀ドイツの流浪のバグパイパー。'The Bagpiper' Albrecht Durer

 
このようなルネサンス期の民衆のダンス音楽は、次の時代にはヨーロッパの北部で消滅しましたが、西ヨーロッパの特にフランス、スペイン、イタリアの地理的に隔離された地域で現在まで生き残っています。

イタリアのアブルッツォ山岳地帯(Abruzzi mountain)の
一部に中世にルーツをたどれる伝統音楽


ルネサンス期のアイルランドの音楽

アイルランドのゲール社会(イギリスに支配される前のアイルランドを指す後世に創られた言葉)では、宮廷でハープが奏でられていました。それは洗練された貴族の音楽で、踊るための音楽ではありません。

16世紀のアイルランド貴族の宴の様子。主人の傍らに立つバード(Bの人物)や末席で演奏するハーパー(右下)が描かれている。('Image of Ireland' John Derricke)

この時代のアイルランドの民衆の娯楽については、徹底的な調査によっても、ほとんど史料が見つかっていません。まるでゲール社会では誰も踊っていなかったかのようですが、今日に伝わるアイルランドの音楽には、ルネサンス期の古い音楽の響きが確かに残されています。


17世紀

絶対王政と植民地主義

17世紀のヨーロッパは海外に向けて進出し、商業が発達し、都市も大きく発展しました。フランスでは絶対王政の下、宮廷や劇場では、メヌエットといった新しいバロック舞踊が生まれ、ヨーロッパ全土を席巻しました。

17世紀半ばのオランダ。田舎の道で踊る人々。バグパイプは相変わらず人気の楽器でした。'Peasant Merry Making' David Teniers and Lucas van Uden


同じ頃、ヨーロッパではヴァイオリンが登場します。持ち運びが容易で、音色と演奏性に優れていたヴァイオリンは民衆の間にもすぐに取り入れられました。それまで使われていた中世の擦弓楽器は、新しいヴァイオリンに取って代わられました。アイルランド・イギリス諸島にも1600年代にヴァイオリン、すなわちフィドルが伝えられます。

17世紀半ばのオランダ。宿屋の前でフィドルの演奏で踊る人々。
Violinist' 'Adrian Jans van Ostade


イギリスとの覇権争いに敗れるアイルランドの貴族

ヨーロッパ各国が植民地獲得にしのぎを削る中、17世紀半ばにはヨーロッパの中で唯一、アイルランドだけが植民地状態となりました。カトリック貴族は徐々にその地位を奪われ、パトロンを失ったハープも重要性が失われていきます。

カトリック貴族に仕えた最後の時代のハーパー、ターロック・オカロラン(1670-1738)
彼は、当時流行していたイタリアンバロック音楽をアイルランドの流儀で演奏しました。
'Portrait of Turlough Carolan' R.B. Armstrong 

1690年のボインの戦いでアイルランドでのイギリス支配が決定的になると、カトリックの貴族や軍人、大商人の子弟たちは、ヨーロッパ大陸、特にフランスに活路を見出そうとします。そのような大陸との交流の中で、ダンスマスターによって新しいダンス文化がアイルランドにもたらされます。


18世紀

産業革命と市民革命

イギリスとヨーロッパでは、産業革命と市民革命によって社会が大きく変化します。社交のダンスとしては、フランスではメヌエットが大流行し、イギリスでは地域の伝統的なものを吸収しながら、宮廷から中産階級、農民までの幅広い階層でイングリッシュカントリーダンスが大流行しました。

イングリッシュカントリーダンスは、フランスでコティヨン(円になって踊るもの、のちにカドリールになる)やコントルダンス(男女が向かい合って長い列になって踊るもの)に発展し、ヨーロッパの中産階級や農民の間にまたたくまに広まり、それらがイギリスに逆輸入されます。これらの社交のダンスは、そののち約100年に渡ってイギリスとヨーロッパの民衆の間で共通の娯楽となりました。

18世紀スコットランドの結婚式でのパーティー。
フィドルはダンス音楽に欠かせないものでした。('The Penny Wedding' David Allan.)


今日のアイルランド音楽が形作られる

アイルランドでは、アルスター(現在の北アイルランド)を除いて工業化が遅れました。また、幾たびかの蜂起も制圧され、それは市民革命の失敗を意味しました。

「刑罰法」により、大多数のアイルランド人は市民権を制限され、公的な職業の参加を拒まれていましたが、皮肉なことにこのような圧政の下で、アイルランドはイギリス本土よりも平和だったのです。ダブリンの都市は大英帝国の玄関口として繁栄し、ジャガイモの普及により人口は激増しました。抑圧と平和という、一見すると相矛盾するような社会状況の下で、アイルランドの人々はどこの国の人よりもダンス音楽に熱中したのです。

17世紀末から18世紀初頭にかけて、フランスやイギリスからやって来たダンスマスターは、民衆の踊りに複雑なステップと、フランス風の礼節をもたらしました。

ダンスマスターはそれぞれの地域の特色や好みに合わせて、ジグ、リール、ホーンパイプといったステップダンスを発展させました。また、18世紀末にはフランスのカドリールがイギリス経由で伝わり、アイリッシュセットダンスに発展します。このようにして、今日に伝わるアイルランドの伝統的なダンス音楽のほとんどがこの時代に形作られたと考えられています。

18世紀アイルランド。巡回のダンスマスター(左手前)を迎える村人たち。
彼の黒い服装はプロフェッショナル証。"Irish Merrymaking" Erskine Nicol First Edition


バグパイプは、それまでの戦闘用から、肘で空気袋をふくらませるフランスの宮廷のミュゼットの様式を取り入れたダンス用にと改良され、18世紀初頭にはアイルランド独自のイリンパイプスになります。パイプはフィドルのよきライバルとなりました。

18世紀のイリンパイプス。初期には紳士の楽器でしたが、時代が下ると慈善の一環として、
身体が不自由な人にパイプが教えられました。
‘union’ or ‘uilleann’ pipes, with an additional ‘regulator’ Lord Edward Fitzgerald


フィドルとパイプは、農家の台所や納屋、結婚式、葬式、フェアなどで主にソロで演奏されました。フィドルはダンス文化において重要な役割を果たしました。今日に伝わるアイルランドの大部分の曲がフィドラーによって作られたと考えられています。


19世紀~20世紀

ロマン主義とナショナリズム

ロマン主義の時代には、知識層の間で、牧歌的な田園への憧れから民謡ブームが起こります。また、ヨーロッパの上流階級の舞踏会でワルツやポルカ、マズルカといった農民の踊りが大流行しました。男女が向かい合って組み合うホールドダンスという新しいスタイルで、紳士淑女たちはこれらのダンスを優雅に踊りました。

19世紀フランスの上流階級の舞踏会。この絵のように男女が向かい合って組むホールドスタイルは最初ふしだらと非難されましたが、新しい時代の人々に受け入れられていきました。

 
しかし、19世紀の末になると、ワルツとツーステップを除いて、ダンスマスターが教える複雑な踊りは人気が衰えます。

ヨーロッパでは、工業家と都市化に伴って古くからの農村の地域社会は崩壊し、ダンス音楽や歌も、19世紀半ば頃から急速に見られなくなっていきました。19世紀後半にはナショナリズムの時代を背景に、イギリスとヨーロッパの研究者たちは、消滅しようとする自国の民謡や音楽を記録するために農村に出かけました。

20世紀初頭のチェコ。農村を訪れて歌を録音する音楽家のバルトーク(中央)。
Bela Bartok collecting Slovak folk songs, 1907 in village of Zobordarazs in Nyitra County


アイルランドの音楽が価値を見出されるまで

アイルランドでは、19世紀末から20世紀前半にかけてイギリスから独立するにあたり、文化的にもナショナリズムの気風が高まります。けれども、この運動はアイルランド語の普及と文芸がメインで、田舎のダンス音楽は貧困、無教養、後進性に結び付けられ、価値があるものとはみなされていませんでした。

カトリックの司祭も、「この国で行われているダンスは、清潔で健全な国のダンスではなく、ロンドン、パリ、ニューヨークの最も下品な隠れ家から輸入されたもので、邪念や邪欲を紛れもなく扇動している」とダンス集会を目の敵にし、野外で踊っているカップルを見つけ出し鞭で追っ払っていたのです。

アイルランドの伝統的な音楽が本格的に見直されるには、1950年代まで待たねばなりませんでした。


西洋の民衆の音楽的遺産がここに

このようにヨーロッパを変えた一連の政治的・社会的な大変化は、アイルランドをほぼ素通りし、結果として、音楽を支えた農村の地域社会を20世紀まで存続させることになりました。

アイルランド、ドニゴールを旅するフィドラーのジョン・ドハティー。
John Doherty. Donegal, Ireland, 1953年

アイルランドに存在し続けたダンス音楽は、愛好家だけにとどまらず、文化的に広く着目される意義があると考えられています。なぜなら、この地に残されている音楽は、かつて1世紀に渡って普及していたヨーロッパの庶民文化の広範な音楽的遺産にほかならないからです。

関連記事→『アイルランドの民俗音楽の歴史


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トップ画像:20世紀になってもなおアイルランドで見られた辻角(クロスロード)ダンス。四角のフォーメーションで踊るダンスは、19世紀半ばにヨーロッパ中で大流行したカドリールが元になっています。


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参考文献:

Allen Feldman & Eamonn O'Doherty, The Northern Fiddler, 1980

Routledge and Kegan Paul, Donal O'Sullivan Carolan, The Life Times and Music of an Irish Harper, 1958

James Hunter’s The Fiddle Music of Scotland, Edinburgh, 1979

ブレンダン・ブラナック(竹下英二訳)『アイルランドの民俗音楽とダンス』
全音楽譜出版社 1985年

山本正『アイルランドの歴史』河出書房新社 2017年


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