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ゆびさし夢子さん【紙魚】

 「リヴァイアサンが死んだーっ!」
 夢子さんは天を仰ぎながら絶叫した。夢子さんは息の続く限り叫び続けながらローチェストに力なく寄りかかった。
 金魚鉢の中に赤い金魚が横向きに寝て浮かんでいる。水中で優雅にたゆたっていた尾ひれに生気はない。今はまだ飴細工のように澄んだ眼も次第に見る影もなく濁っていくのだろう。
 「リヴァイアサン……金魚すくいでとって大事に育てた……」
 「……まあ、長生きした方だと思うよ」
 「リヴァイアサン……」
 夢子さんは金魚鉢越しにリヴァイアサンと名付けた金魚を指さした。そして眉間に深い皺を作って考え込み、「やめた」と言って指を離した。
 「こんなことしても生き返るわけじゃないし」
 夢子さんは感情表現が豊かだが落ち込むことはあまりない。喜んで怒って楽しむのがほとんどだ。だから落ち込むときはどうにかなりそうなくらい落ち込むし、見ているこっちもきついものがあるほどだ。
 「……夢子さん、見せたいものがあるんだ」
 僕はしゃがんで夢子さんの眼をのぞき込んだ。涙を湛えた瞳が僕を見返してきた。
 僕は夢子さんの手を引きながら地下室への階段を下りて行った。短い階段だが道中灯りも無いのでスマホの画面をライト代わりにして歩いた。
 「地下室、なんもないんじゃなかったっけ」
 「開ける必要のないものしかないからそういうことになってる」
 地下室とは言ったものの、それは一坪あるかないかの小さな物置だった。中には布をかけられた本棚がひとつあるだけで、それ以外はただ埃が積もっているだけだった。
 僕はハンカチで口元を抑えながら振り返った。
 「ドア閉めた?」
 「うん」
 「埃っぽいの、大丈夫?」
 「うん」
 普段の夢子さんならここで軽口のひとつでも言うだろう。それほど参っているのだ。
 指先を軽く動かすだけでなんでもできる夢子さんでも、可愛がっていた金魚が死んだら落ち込んでしまう。それは彼女に人間性と言うべきものがあることの証左でもあり、死というものが誰にとっても抗いようのないものだということでもあった。
 「りっくん、ここになにがあるの」
 「『紙魚』だよ」
 「紙魚って、あの紙とか食べる虫?」
 「そう。でもちょっと違う。ここにいるのは……」
 僕は本棚を覆っていた布を取り去った。
 「本物の『紙魚』だよ」
 本棚には年月を経て変色した古本がぎっしりと詰まっていた。その背表紙の上を、鏡の照り返しのような光がちらちらと踊った。ひとつ、ふたつ、みっつ。光はいくつも揺らめきながら、背表紙の上を行き来していた。
 しなやかにその細長い輪郭をくねらせながら動くその光は、さながら。
 「魚?」
 「これが本物の『紙魚』なんだって。この店引き継ぐときに教えてもらった。ほっとくと他の本にも拡がっていって売り物にならなくなるからここにまとめて閉じ込めてるんだってさ」
 夢子さんは紙魚の群れが泳ぐのを見つめた。紙魚の光で夢子さんの目尻がきらりと輝いた。
 「ありがと、りっくん。ちょっと元気出た」
 夢子さんは涙を手の甲でぬぐいながら僕に笑いかけた。
 数日後、リヴァイアサンのいた金魚鉢は片づけられ、代わりに軒先に見たこともないほど真っ赤な花を咲かせた金魚草が植えられていた。その根元には「リヴァイアサン」と書かれた小さな木札が刺さっていた。


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